この手が自分から離れていってしまうことなんて、最初からわかっていたはずなのに。
風船 −するり、と指から解けて空へ消えていく。それを見上げているしかできないなんて、そんなこと。−
思えば、『はじめまして』という類の単語があったのは、こいつだけだったように思う。
自分と出会えば誰でもそうだ。
まず、言葉を失う。
異形の姿。
異形の力。
身から離れることのない血の匂い。
死臭。
それらを目の前にして、大抵のヤツは言葉を『失う』。
次にやってくるのは、恐怖。
恐れおののき、俺から離れていく。
いつだってそうだった。
(ああ、でも、ほんの一握りだけ、そうではないヤツらもいたが、俺はそんなこと『忘れて』いた。
目に映るもの、ほとんどが『そうだった』から。)
いつもそうだった。
それでも、あいつと始めて出逢ったとき、あいつの口から出た言葉は、『はじめまして』だった。
礼儀正しく下ろされる頭。
優雅な仕草。
それなのに、恐れひとつ見せない。
ただ己のままに動いている姿が、目に入る。
「お初にお目にかかります。」
「……………」
ゆっくりと顔を上げると、垂れた鳶色の髪が頬の横で揺れているのを呂布は見ていた。
柔らかな表情が目元を彩っている。
武人としていながらも、その体から発せられるのは優雅とさえ言えるような風格。
戦場に立って幾許もしないとはいえ、そこに立っているだけで落ち着き払う冷静さが手に取るように感じられた。
「………呂将軍、ですね。」
薄い唇から紡がれる声は、心地の良い低音。
風の音にも似た、静かに響く声。
いつまでも聞いていたいとさえ、思ってしまう。
「オ前ハ……?」
「…ああ、すみません。いきなりぶしつけな挨拶をしてしまいました。
名を張、字を文遠と申します。」
「ぶんえん。」
自身よりも一回りほど高い相手を少しだけ見上げて、呂布はオウム返しに張遼の字を口にする。
名を呼べば、張遼はそれがただ音を反芻しているだけということをわかっていながら、『はい』、と言って静かに頷きながら、また微笑みをこぼす。
微笑み。
言葉。
名前。
それは全部、呂布に始めて出逢い、それでも彼が与えられなかった当たり前の『はじめまして』だった。
呂布は仮面越しに、張遼を見つめる。
仮面にあいた穴の奥、そこに光る稀なる銀の光を受けながら、張遼は笑みを崩さない。
穏やかなまま、呂布を見ていた。
「この度、丁原殿の元にやって来ましたので、あなたにも挨拶をと思いまして。」
「……ソウカ。」
恐れも、
畏怖も、
そんなものはない。
冷たい何かはなく、ただ穏やかに穏やかに、こちらを見ている。
呂布はそれを見ていた。
ただ、『見ていた』。
はじめてのものに、どうすればいいのかわからなかったという思いもある。
恐れや戦きであるのならば、呂布もそれ相応の対処が出来る。
だが、穏やかさでもたらされたことはない。
そんなものは知らない。
「オ前ハ、」
「はい?」
そんなものは知らない。
こんな『穏やか』なものを呂布は知らない。
だから感情のままに、呂布は問うた。
「…オ前ハ、俺ガ恐ロシクハナイノカ。」
率直な疑問だった。
ゆえに、呂布は不思議に思ったことをありのままに聞いたのだ。
張遼は聞かされた質問の内容をしばし頭の中で反芻し……それから、困ったように、表情を崩す。
「恐ろしくないか、と聞かれれば、そうですね。」
ゆっくりと伸ばされる片手。
少しだけ節くれ立った張遼の手が、呂布の目元へと、触れる。
仮面越しに、それでも彼は触れた。
「恐ろしさよりも何よりも、私はあなたがきれいだと思います。」
きれい
聞き慣れない単語に、今度は呂布が言葉を失う。
仮面越しに指先が眦を静かに撫で、それから縁へと、流れていく。
「稀なる光ですから。」
自身の銀、を。
そんな風に言われたことなどなかった。
たとえば、それが
自身の心へと入るための算段だったとしても、呂布はもう、どうでもよかった。
穏やかな面の中に、冷たい殺意があったことを気づけぬ呂布ではなかったのだから。
張遼の心の奥底、そこに隠された自身へと殺意に、呂布は『はじめて』から知っていた。感じ取っていた。
悲しいくらいに、わかっていた。
それでも、
どうでもいい。
本当にそう思えた。
それが嘘でも、算段でも、何でも良い。
取り繕われた美談ではなく、ただ一言、きれいだと、言ってくれた。
それだけでもう、呂布の心に何かが『落ちて』きたのだから。
たとえば、呂布の側にいた、張遼の言葉のひとつひとつ、行動のひとつでさえも『嘘』だったのだとしても、
その一言だけは、自分へとくれた『ほんとう』なのだと、そう思えるから。
<終わり>