すべてが辛い。
すべてが悲しい。
すべてが寂しい。
流す涙などとおの昔に消え去った。
痛みに血を吹いた体には、もう傷跡から腐り落ちていくしかなくなっている。
かなしい、かなしい。
なにもかもが、身を苛むものにしかならない。
いっそ、出会わなければ良かったと、
きみにしかきこえない。
-それでも、とあなたは言う。それでも、出会わなければならなかったものだってあるのだと。-
遠くに聞こえる蝉の声で目が覚めた。
差し込む光はすでに夕暮れの赤。
昼間の陽差しとは違い、どことなくもの悲しい色をしているそれは随分と自分が眠っていたことを馬超に教えていた。
特徴的な茅蜩の声が遠くのほうから聞こえてくる。
薄明の空の一歩手前。
もうしばらくすれば薄闇が包み込むだろうそこで、馬超はうっすらと瞼を開けて腕を持ち上げる。
どれほど眠っていたのか。
日中の暑さに耐えかねて、涼しい木陰を探していたことは覚えている。
日陰に入れば、そこから感じる風の意外な涼しさと気持ちよさに意識が遠のいていったらしい。
かなかなかな…
遠くの茅蜩が鳴いている。
それをうすらぼんやりと聞きながら、夢を見ていた、と馬超は思う。
夢を、
そう、夢を、見ていた。
こことは違う。
こんな夏の一種の『しずけさ』の中とはまるで違う。
(茅蜩の声だけが聞こえる。それ以外は何もない、それ故の静けさを)
遠い夢を見ていた。
懐かしくもあった。懐かしいと感じることさえ、忘れるくらいの遠くにあった。
……………起キタノカ。
その時だった。
ぽつん、と小さな声が横から聞こえてきた。
馬超は驚きながらも体を動かすのが億劫で視線と顔だけを腹の横のほうに向ければ、そこに座り込んでいる人がいる。
「…りょふ……?」
特徴的なその鎧を見間違えるはずもない。
何よりも小ささによって誰がそこにいるのか馬超は理解した。
「なんだ、いたのか……いつから…」
回らない頭で言葉を紡ぐと、途端に溜息が聞こえてくる。
呂布が背もたれにしていた馬超の横腹から立ち上がると、横になったままの彼の顔のすぐ側までやって来た。
顔を覗き込みながら、小さな手が馬超の顔の上に乗せられる。
随分ト寝テイタナ。
「ん……ちょっとな…こっちは暑くってなぁ…」
西涼の大地のほうが涼しく思えた。
あそこは砂の大地がどこまでも広がっている。
しかし魏の国は湿気を含んでいるせいもあってか、蒸し暑さのほうが強い。
「…なんだ……お前が『番』をしててくれたのか?」
普段の力強さはすっかり成りを潜めた馬超の声を聞いて呂布はいつもと違うような戸惑いを受ける。
外で寝るという行為は呂布もよくしている。
木陰で眠るというのも気持ちが良いのは知っているのだが、今日はたまたま庭先の木陰で眠っていた馬超を見つけたのだ。
起こそうかどうしようか顔を覗き込む。
……そして、眠る馬超の顔を見て起こすのをやめた。
起こすことさえ、忍びなかった。
眠る馬超の顔は普段のものとはかけ離れたものであり、起こすのさえも躊躇われるようなものであったから。
だから呂布は何も言わず、ただ静かに『番』をしていたのだ。
何もせず、何も言わず。
起きたあとの、彼をただ待つために。
「……夢を、見てた。」
乗せられた小さな手を指先でさすりながら、馬超は口を開く。
ここではない何処かを眺めて、木の陰から見える茜色の空を見上げていた。
あかい。
あかい、そら。
ぼんやりとした表情のまま、覚醒しているのかさえ怪しい瞳が赤色を映し込んでいる。
砂漠の大地にも似た琥珀色の瞳が、今は赤みを増して朱くなっている。
「俺が令明を殺す夢だった。」
かなかなかなかな―――――
遠くの茅蜩が激しく鳴き声を上げたような気がした。
一息に紡がれた馬超の呟きに呂布はそれを予想でもしていたのか、そうか、と呟くだけ。
しかしそのあと、馬超が続く言葉を言わなかったこともあってか、呂布が静かに問いかける。
覚エテイルノカ。
「誰も知らないけどな。」
……ドコマデ、覚エテイル?
「蜀に居た頃のことまで。そうだな……漢中の戦の終盤あたりまでは、覚えてる。」
それは彼の人生のほぼ全てである。
呂布はそれを知らないが、西涼での戦のことも。
そのあとのことも。
全部を覚えているのだ、と。
馬超はそう静かに告げた。
「兄貴たちは知らない。従兄弟達だって、漢中の戦のことは覚えてなかったりするんだ。せいぜいがそうだな…大殿が、蜀の国を手に入れたあたりまでくらいしか。」
オ前ダケカ。
「俺だけだ。」
俺だけが、覚えているんだ、と。
空白の声で馬超は言う。
曹操との再戦のこと。
そこで起こったことの何もかもを……龐徳と、対峙したあの戦のことを。
令明、と。
声が響く。
それは夏の茅蜩の声にまぎれて聞こえないほどのもの。
小さく、けれどまるで泣いているような、胸を締め付けるような、声だった。
呂布がそれを聞きながら、触られている手を動かす。
馬超の瞼の上に手を乗せると、掌の下の瞼が小さく痙攣を起こしたのが伝わってきた。
「覚えてないんだ。」
閉ざされた視界のその先。
閉じた瞼の上に何を思い浮かべているのか、呂布はわからなかった。わからないほうがいいと、思った。
ただ触れられている馬超の指先に力がこもり、みしり、と手が音をたてるくらい強く握られる。
「覚えてない。令明と刃を交えたところまでなら、思い出せる。覚えてる……覚えているのに、そこから先がどうしても思い出せない。」
覚悟もしていた。
戦場で敵味方として出会ったのならば、刃を交えることも、斬ることも、全部を。
「逃げない、と言った。迷わないと言ったことも嘘じゃない。
俺は武将で、あいつもそれは同じだ……」
けれど、
心のどこかが悲鳴を上げる。
ギリギリと締め付けられる痛みに、心臓が押し潰されてしまいそうだ。
「覚悟もしていた。でも……俺は、あいつを殺した瞬間、嗤ってた。」
夢を見て。
その夢のなかで馬超の槍は龐徳の体を貫いていた。
赤い大地。
夕暮れと、戦場の血で染まった景色の中。
夢のことは朧気にしか覚えていない。
だが、刺し貫いた槍の重たい感触を覚えている。
血の匂いも覚えている。
そして、生命の途切れた龐徳の暗い瞳も、覚えていた。
その瞳を見た瞬間、何よりもまず暗い何かが、馬超の胸を支配した。
「嗤ってたんだ……」
暗い喜びに心は歓喜した。
方法なんてどうでもいい。ただ、龐徳がもうどこにもいかない、という事実に心は震えた。
震え、そしてわらっていた。
「………なあ、呂布。」
これでもう自分だけのものだと、笑い出したい衝動がこみ上げた。
「お前は、後悔、したこととか、ないのか。」
小さな手を持つ馬超の指先が震えている。
痛いくらいの強さなのに、それなのに、震えが止まらない。
馬超の顔を見ることは出来なかった。
片方の手で遮られ、見ることが出来ない。見せることを頑なに拒絶している。
そこに浮かぶ表情を見られないように。
(わらって、いるのかもしれないから。)
……何ヲ?
「張遼と、出会ったことを。」
かなかなかなかなかな―――――
遠くに響く、茅蜩の声。
馬超の言いたいことも、聞きたいことも呂布は解っていた。
今の張遼の『状況』を見れば彼がどうなっているのかということだって、理解できる。
彼は、呂布の側にいたころの張遼とは『違う』。
同じものであるのに、違うもの。
そこにある隔たりに気づけないほど、呂布は愚かでも考え無しでもなかった。
………シテイナイ。
やがて、ゆっくりと呂布は答えた。
馬超の握られた手の上に、ゆっくりともう片方の手を持っていく。
触れる意味を言うことはなく、ただ馬超の問いかけに答える。
スベテヲナカッタコトニハデキナイ。
ソウナレバ、アノ張遼モ、俺モ、存在シナカッタ。
「…別れてもか。」
今生の別れがあっても、
「殺し合いになって…本当に、相手の命を奪っても………いいのか。」
ソレデモ。
ソレデモ、俺ハ、アイツニ会イタイ。
答えは実に簡単なもの。
だが、簡単であるがゆえに、難しい。
馬超はようやく握っていた手の力を緩めていく。
真っ赤に張れる手を感じているのに、呂布は文句一つ言わなかった。
「………ごめん。」
アア。
「ごめん……ごめん、お前に、そんなこと…言わせたい、わけじゃなかったのに……」
離されても呂布は手を外すことはなかった。
頷きながら短く答え、そうして、指先を動かす。
指先には、あたたかな雫。
馬超。
「ん……」
雫が、溢れて、
龐徳ハ、オ前ノ側ニイルゾ。
頬を伝って、落ちていく。
ぱたぱたと目元から頬へと伝い落ち、耳から耳たぶへと落ちていく。
そこから落ちて、音をたてて雫の痕が降る。
ヨカッタナ。
ああ、と。
馬超は小さく答えた。答えて、それから両手で顔を覆ってしまう。
ああ、ああ、と何度も呟き、頷きながら、そしてとめどなく雫の痕が降る。
それから何度も、何度も、謝罪の言葉を口にする。
理由はわからない。それでも、馬超は呂布に『ひどいこと』をしたという実感があった。
残酷な問いかけをしたのだと、感じた。
ごめん、と。
ワケもなく理由さえもわからず、だが心が示すままに何度も馬超は繰り返す。
遠くに啼く茅蜩の声。
宵闇が包み込むとともに、その声は聞こえなくなってしまう。
静かな薄闇の中で、呂布はついに馬超の『謝罪』に対して何も応えることはなかった。
出会わなければ良かった、と。
誰もが口にすることがある。それでも、出会わないという選択肢が自分の中には残っていなかった。
たとえばその先にどんな結末が待ちかまえていたとしても、きっと、他を選び取ることなど出来ないのだから。
出会いたい。
それだけは、嘘ではなく、ほんものの心の望むこと。
あいたい、
それだけを、ただ、望む。願い、乞いながら、ただ、心が求めている。
<終わり>