実りの多い季節になった。
春夏秋冬。
それぞれの季節にあったものはあるにしても、それでも春の陽差しは実りの多い季節のひとつと言える。
魏の国。
さらに主上の住まう城には、各地から様々な豊穣の品が届けられていた。
海のものもあった。
川のもの。
畑から運ばれてきたものもある。
山間から運ばれてきたものもあって、近頃は天災や戦も少ないためか実りは例年以上だ。
何よりも、それを持ってくる人々の顔が活気に満ちあふれている。
その顔が平和そのものの象徴であるような気がして、廊下からそれを遠くに見ていた曹昴は誇らしげに唇を緩ませる。
自国が豊かだというのは、この胸に暖かで、それでいて強いものを運んでくる。
誇り。
そう、自分の暮らす国が、父の治める国が豊かだというのは何とも嬉しい。
しばらくそれを眺めていた曹昴であったが、やがてゆっくりとその場から踵を返して歩き出した。
春から初夏へ。
日に一日と長くなっていくのを感じながら、それでも季節の柔らかな移り変わりと、自然の豊かさを肌で感じ取ってもいた。
あなたと『全力』の秘密工作。−工作っていうほどでもないんですけどね。でも、ひみつ、は楽しいものですよ。−
甘い匂いがした。
くん、と鼻をくすぐる甘い匂い。
廊下を歩き出して暫くした曹昴が、感じ取った匂いにぴたりと足を止める。
甘い。
そう、甘い匂い。
かといって菓子の類の匂いではなかった。
そう、これは、違う。
鼻を鳴らしながら匂いを嗅いで、その出所を探る。
こんなところで、というか、廊下でするような匂いではない。
ゆっくりと歩きながら、匂いをたどっていく。
そうしていくうちに、これは何の匂いだったかな、と曹昴はうすらぼんやりと頭の内で考えた。
知らない匂いではない。
むしろ親しみのあるものだ。
スタスタと歩いていくと、廊下の端。
さらにその下から匂いが漂ってくるのがわかる。
何なのだろうかと訝しみながら曹昴が、そっと廊下から下を覗き見る。
すると下で。
そこで、しゃりしゃりと音をたてて誰かが何かを囓っているのが見て取れた。
いや。
誰、というのは一目見て曹昴はわかった。
何しろ特徴的なその人は、曹昴でなくてもこの魏の国、この城に住まう人々の誰もが知っているのだから。
「………呂将軍?」
声をかけると、ぴくり、と肩が揺れて、囓る音が止んだ。
顔を上へと仰ぐのを見て、曹昴が眦を下げた。
「やはり呂将軍でしたか。」
曹昴カ。
ぱちりとした真ん丸い瞳が小動物を思わせる。
思わず緩んでしまう口元をなんとか引き締めようとしつつも、曹昴は端の欄干に手をかけ、足をかけてから庭へと降り立った。
降り立ったそこに呂布が磨かれた石で作られた椅子に座っている。
その手には、先ほどから香ってくる匂いの元。
ドウシタ。
「いえ、これの匂いがしていたものですから。気になったんです。」
これ、と言って曹昴が指を指す。
呂布の両手に収まっているもの。
それから、その横にも置かれている淡い色の物体。
桃の実であった。
そういえば今日送られてきた品物の中にこれもあったな、などと曹昴は思い出す。
一応、品物の類には目を通していたのだ。
その中に、この近隣から送られてきた桃があった。
取れ立てで瑞々しい。
「呂将軍はこれをどこで?」
今日の昼間にでも振る舞われたのだろうと曹昴は軽い気持ちで問いかけた。
しかしその問いに呂布はふい、と視線を横へと持っていってしまう。
その様子に曹昴が不思議そうに目を丸くして、首を傾げた。
「将軍?」
再度問いかけるようにして呼ぶと、なんとなく呂布の様子がおかしい。
何か言いにくそうというか、こちらの顔色を窺っているな、というか………
そこまで考えて、曹昴は何となく思い出す。
今とは関係のない古い記憶。
しかもその先にいるのは呂布でなくって、曹昴の弟たちの姿。
今よりも幼いその姿。
「……将軍、」
曹昴が口を開こうとした。
しかし、それは言葉にならなかった。
「桃が盗まれたぞーっ!!」
「殿にお出しする特別製のやつだっ!」
「しかも一番美味そうなヤツだけ持っていきやがってるっ!」
「探せ探せぇ!!」
………声と、慌ただしい足音。
それだけですべてを察することが出来た。
曹昴は続く言葉を失って呂布のほうを見つめている。
いや、まあ、先ほどの言葉から察するに(こちらは見えていなかったようだ。ちょうど廊下の下だから気付かなかったのだろう。)余りあるものがある。
視線を逸らしたままこちらを見ようとしない呂布に、曹昴は何とも言えない気分になった。
懐かしい感覚が蘇る。
失礼な話であったが、今の呂布を見ていると曹昴は小さかった弟たちの姿を思い出す。
あの頃は悪戯盛りだったなぁ、などと思っていると、ほんの少しだけ胸の奥が暖かくなった。
懐かしさに自然と笑みがこぼれ落ちる。
その笑みは、曹彰たちはおろか曹丕までも速攻で黙らせてしまうと噂の優しい微笑みだった。
見るものを掴むそれは、父親である曹操とはまた違った意味での最強さを秘めている。
曹昴の沈黙に堪えかねて、ちらりと視線を上げた呂布が一瞬で言葉を失うほどの威力を誇っているのだから、そのあらゆる意味での凄さがおわかりいただけるはずだ。
(デジャヴを感じる。
いつか、これをどこかで見たことがあるような。)
そんな呂布の心情はつゆ知らず、曹昴は小さく息を吐き出してから、何も言わずに石の椅子の上へと腰掛ける。
隣り合うようにして座って曹昴を見上げる呂布に、やはり笑ったまま、曹昴はしぃ、と人差し指を唇へとつけた。
「秘密、です。」
……秘密。
「はい、私と、呂将軍の『ないしょ』です。」
クスクスと笑いながらそう言うと、呂布はやっと合点がいったのか、ゆっくりと頷いた。
つまり、今曹昴と呂布の間にあることは『秘密』。
曹昴は何も見ていないし、知らない。誰にも、何も言わない。
幼かった弟たちの悪戯のことが頭を過ぎる。そう言えば、よくこうやってつまみ食いをしていたなぁ、と曹昴の口元が綻んだ。
「呂将軍。証拠隠滅してしまいましょう。」
インメツ?
「まだ誰も気付いていないみたいですから、『桃がなくなったら』誰もわかりませんよ。」
ね? と曹昴が含むように言葉をかける。
つまり、今、呂布が持っている桃を全部ここで食べてしまおうという相談なのだ。
その申し出に呂布は目を丸くしていたが、見つかって小言を食らうのは嫌だった。
面倒だし、それに………今、もし見つかれば曹昴も同じ責を負うことになる。
言い出したのは曹昴であるにしても、それはなんとなく呂布も気になった。
ので、しばらく考えた後に、こくりと一度頷く。
「では剥きますから、こちらに。」
曹昴は笑いながらそう言って、呂布の両手にあった桃をそっと取り上げた。
取り上げたというか、そのままで食べるのは良くない。
口の中にいがいがが当たって痛いし。
まぁるい桃の実。
触ると産毛がちきちきとして指先から感じ取ることが出来る。
俺ハソノママデモイイ。
だから早く返せ、という呂布をやんわりと遮って、曹昴は椅子に腰掛けたまま、下げていた短刀を鞘から取り出した。
しゃく、
音を立てて桃の実に鈍色の刃が沈みこんで、その瞬間、ふんわりと芳醇な香りがあたりに広がる。
甘い匂い。
呂布が、すん、と鼻を鳴らしてそれを嗅いだのを見て、曹昴はさらに双眸を崩す。
呂布の様子が、やはりというか先ほどから幾度となく過去を思い出させるからだ。
琥珀色の髪の毛の弟も、目をキラキラさせて桃の皮を剥いてある間、匂いを嗅いでいたな、とか。
落ち着いた雰囲気の黒髪の弟は、上の兄ほどではなかったのだけれど、楽しみで仕方ないという表情で頬を赤く染めていた、とか。
記憶の奥深くにある、彼にとって愛して止まない可愛い弟たちの姿が過ぎる。
ああ、でも。
「…………そのままで食べると、喉の奥に皮が当たって痛くなるんです。」
さく、しゃく、しゃくり。
音を立てて剥かれていく桃の実。
八等分にされて、持ってきた懐紙の上に広げられると、もう呂布は待ちきれないと言わんばかりにそわそわとし始めた。
曹昴はそれを黙って見つめながら、桃の実をひとつ指先に取り上げて、呂布の目の前に差し出した。
ああ、でも、すぐ下のあの弟は、桃が好きだったくせにそれを表に出そうとしないへそ曲がりだったな、と。
そんなことをぼんやりと思い出しながら、まるで弟たちにしていたように呂布の口元へと桃を差し出していたのだ。
曹昴はそれはすでに弟たちや妹たちに向けてやって来たことであったので、身に染みついた癖のようなものであった。
だからはじめ、曹昴は何気なく、本当に自然な動作そのままで差し出していた。
しまった、と思ったのは、呂布が目を丸くして曹昴を見上げていたからだった。
いくら身は小さくなったとは言え、呂布は一角の武将。
しかも戦神。武闘の申し子。最強とさえうたわれた猛将だ。そして年上である。
なんてことを、と曹昴の表情が一瞬にして曇る。
それどころか青くなっていく様子に、呂布は敏感にそれを見て取った。
「す、すみません…! 私はなんて」
無礼なことを、と曹昴が慌てて謝罪の言葉を口にしようとする。
それから指先を引っ込めようとした。
だがそれは寸でで叶わなかった。
ぱくり
音を立てて呂布が差し出された桃にかぶりついたからである。
その出来事に驚きで呆然とする曹昴を後目に、呂布は唇を離してもぐもぐと口の中で桃を租借している。
口の中の桃は、やはり甘い。
嫌な甘さではなかったのだが、身の底からわき上がるようなくすぐたったい甘さがある。
確かに先ほどまで皮を剥きつつとは言え口にしていたのだが、やはり丁度良い大きさの桃の切り口はまた格別であった。
甘い匂いが鼻腔の奥まで広がっている。
……甘イナ。
口の中いっぱいの甘さに、ぽつりと呂布が呟く。
そのまま呂布もあまりの桃の甘さに、普段は見せないような面痒い笑みが顔に広がっている。
下がる眦をそのままにして曹昴を見上げれば、その笑みに曹昴はまた目を丸くしている。
しばらくパチパチと何度か瞬きをしていたのだが、やがて、顔に笑みが戻っていく。
「甘いですか?」
アア。
「では私も……」
そう言いながら曹昴も切り分けた桃を一つ指先につまんで、口の中に放り込んだ。
歯が果肉に沈み込むとそれだけで何とも得ない芳醇な香りと甘さが、呂布の言ったとおりにいっぱいに広がっていく。
「ん………っ」
甘さに曹昴が思わず目を閉じて声を上げる。
それから、くすり、とおかしそうに笑い声を上げた。
「甘いですね…っ!」
ソウダロウ。
「でもなんだか甘すぎて……ふふ……甘っ…」
水が欲しくなってしまいます、と言って曹昴は堪えきれなくなって満面の笑顔をみせた。
なんだかおかしくってたまらない。
懐かしさと、それから呂布の思いがけない気遣いと……青くなったり笑ったり、忙しすぎて、曹昴は最後にやはり笑っていた。
明るい笑い声がひそやかに響く。
甘い桃の匂いと混ざり合って、なんとも言えずそれが無性におかしくなって、曹昴は声をたてて笑っている。
それを見ていた呂布も何事かと首を傾げていたのだけれど、つられるようにして仕方なさそうに苦笑を浮かべていた。
笑イスギダ。
「ふふ……すみません…あ、呂将軍。もっと食べないと証拠隠滅できませんよ。」
オ前モ付キ合エ。
言い出しっぺだろうと呂布が横に置かれた桃をひとつ手にとって差し出す。
曹昴もそれを笑いながら受け取って、口の中に入れた。
目の先には緑の庭。
ひみつという、懐かしさと、ちょっとした発見と。
「あとで何か飲み物でも飲みましょうか。なんだか甘さで喉の奥までやられてしまいそうですし。」
俺モカ?
「はい。」
こくりと頷いて笑いかけると、不器用だけどそれを返してくれるという、こと。
春の庭の小さな秘密は、もう少しだけ、長く。
<終わり>