それは稀なるひとの、たましいのおと。



 『人は、彼を鬼だという。
  人は、彼を死神だと、鬼神だという。
  人は、彼を裏切りの徒だという。

  人は、彼を『ひと』ではないのだと、いう。』

 −その境目はどこですか? その定義はどこですか? その定めは、どこにありますか?−




  思えば、昔から動物に好かれやすい人であった。

  赤兎を主たるものとして、馬も、犬も、あるいは鳥や猫、本当に様々な動物たちに、彼は無条件で好かれていた。
  最初は遠巻きにしている場合も多い。
  しかし、いつの間にか側に寄ってきている。

  我も我もとやって来て、側に寝っ転がったり、肩や手の上に乗ったりとお構いなしに集まって、寄り添ってくる。

  それを彼は別段気にもせず、側に寄りたければ好きにすればいい、と放っている。
  拒絶するわけでもなく、受け入れるわけでもない。

  ただ、好きだけそこにいろ、と自分の側にいることを許しているのだ。

  それは、ある種の最上の『許容』だ。
  だからこそなのかもしれない。

  遠乗りに出かけ、人々から離れて居るとき、休む彼の側には必ずといっていいほど動物たちの姿があった。

  (まあ、赤兎は彼の側、しかも特等席をけして他のものに譲ろうとはしなかったのだが)

  時折、思い出したように彼の大きな手が小さな動物たちの頭の上に乗せられる。
  撫でられると、動物たちも逃げたりせずにそれに身を任せていた。

  逃げる気配さえもない。

  捕らわれるとか、そういう思いが根こそぎなくなってしまったかのようだ。



  彼は、動物たちから無条件に好かれていた。



  ある日のことだ。

  その日、遠乗りに出かけた森のなか。
  ただ一人でいる姿を見つけた。

  どうしたのだろうか、と近づいていく。
  
  いつもならば側にいるはずの動物たちの姿がない。彼の傍らにいるはずので赤兎でさえ、いない。

  疑問に思い、近づいていくが彼の顔を上げようとしなかった。
  こちらの存在にはすでに気付いているはず。なのに、反応がない。
  ただ黙って、一点を見つめている。

  落とした視線の先。

  広い背中に隠された、掌の上。
  
  名を呼びながら回り込むようにしてそれを覗き込む。
  そして、言葉を失った。



  彼の掌の上に、小さな子猫の体が横たわっていた。
  その体躯はぴくりとも動かない。
  薄汚れた毛並み。明かない双眸。だらりと垂れ下がった足と、尻尾。

  完全に言葉を忘れてしまい、どう問いかければいいのかと思った。

  わからない頭の中で、ゆっくりと彼がこちらのほうへと視線を投げかける。
  その瞳は、驚くほど澄んで、静かな感情を讃えている。

  ……助からないことはわかっていた、と。

  そう、彼が呟く。
  片手に乗るほどの小さな身体の上へと、もう片方の手を伸ばし毛並みをゆっくりと撫でる。

  見つけたときにはもう何の手の施しようもないこともわかっていた。

  それほどに疲弊し、弱りきった状態で見つけたのだと。
  親猫の姿もない。
  他にいるはずの兄弟猫の姿もなかった。

  だからせめて寂しくなように。

  子猫を拾い上げ、掌の上に置いてやって、何度も何度もその体を撫でた。
  言葉をかけ、体温を分け与え、側にいた。

  その間、彼の側には『なにものも』側には来なかったという。

  まるで、彼の邪魔をしないかのように。
  


  そうして、子猫はゆっくりと、だが静かに、動かなくなっていったのだ、と。



  呟いて、彼はもう一度、子猫の体を撫でる。

  それから、もっと早くに見つけてやれば良かったな、と囁いた。
  その声を聞いた。

  聞いて、なぜだか彼が泣いているような気がして顔を上げる。

  だが、その瞳に涙の色はない。

  ただ恐ろしいほどに静かなものが、子猫をジッと見つめているだけ。



  それが、ただ、泣いているよりも、もっと。
  もっと、

  心の奥深くで、



  文遠、と声がして。
  視界のその先で、彼がこちらに振り返っているのが見えた。

  それから、こちらを覗き込むようにして顔を近づけているのにも気がついた。

  どうして、お前は泣いているんだ、と。

  言われて、始めて自分の瞳から涙が流れ落ちていることに気がついた。



  ぱたぱた、と。
  音を立てて滴が後から後から溢れ出してくる。

  滲む視界の先。

  歪む景色と、目の前の稀なる人の姿。



  文遠、



  呼ぶ、声が、余計に涙を止まらなくさせる。

  溢れ出しては止まらない。
  まるで堰を切った川の水のように、とめどなく溢れ出してくる。

  文遠、

  声が、自分を呼んでいる。
  答えなければと喉を動かそうとするのだが、それは嗚咽になって、言葉にならない。

  ただ、涙が止まらない。

  覗き込んでくるその瞳は、こちらの答えを待っている。

  それはわかっている。わかっているのに、理由もなく溢れ出す涙が止まらない。



  文遠、今、俺の両手は塞がっているんだ。



  だから、お前の涙が拭えない。

  そう呟く声に止まらなくなって、いいえ、とようやく答えることが出来た。

  いいえ、いいえ、構いません。

  だが、と声を返される。
  それでも首を横に振って、もう一度、構いません、と答える。

  いいえ、奉先殿。
  この涙は止まらなくて良いのです。
  これは、これだけは、止まらなくても構わないのです。

  ゆっくりと、だが言葉がきちんと伝わるように、一字一句違わぬようにそう答える。

  涙は未だに止まらない。
  ただ、彼は今度は何も言わず、視線を落として子猫の姿を見る。





  良かったな、と。

  優しく、やさしく、伝える声がして。





  こいつは、お前のために、泣いてくれる。





  その声に、また涙は溢れるのだけれど。
  それでも何故か心の奥が締め付けられるように、けれど何処か軽くなっていく。

  ゆっくりと、瞼を閉じる。

  その拍子に、また涙がこぼれ落ちていった。




  『おれはないてやれないから。』




 <終わり>