ひどく寝苦しい夜だった。
特に熱いわけでもなく、寒いわけでもない。
だが、なぜだか眠ろうとすると胸のうちの何かが騒いで眠るのを邪魔していた。
瞼を閉じればまだ夜半近く。
遠く、夜鳥の鳴く声を耳にしながら張遼は観念したかのように息を吐くと、そのまま寝台から起きあがる。
裸足を床へとつければ、爪先から冷えていった。
それが余計に覚醒を促そうが、そもそも眠れないのだから関係もない。
そうしてそのまま立ち上がって、部屋を横切っていく。
ぺたぺた、と足音が静かな空間に響いていくのを耳にした。
扉へと手をかけ、ゆっくりとそれを開けていけば、廊下を挟んだ庭先から漏れ出る月光。
淡い月の光が見えた。
それを眼にしながら歩き出す。
眠れないのならば仕方ない。
夜の散歩にでも出かけようかと、扉から離れ、そのまま閉じる。
裸足のままであったが、城のなかならどうということはないだろう。
そう思いつつ、ぺたぺたと、歩いていく。
廊下を出てしばらく進んでいっても、窓からこぼれ落ちている月の光に変化はない。
その淡い光は、ゆっくりと、何よりも淡くその場を照らしている。
昼の陽の光ほどではないにしても、今日は光が明るい。
眼に優しい、焼いてしまうかのような苛烈なものではなく、あくまでも足下を仄かに照らすようなそんな光。
月が明るいから寝苦しかったのだろうか、と張遼は顔を上げて月を見やる。
視線の先には丸い月。
薄雲でさえも光に照らし、天上の月がそこにある。
だんでらいおん −このこえがきこえるだろうか。このこえがとどくだろうか。このこえが、−
視線を前方へと元に戻してから、そこで張遼の足が思わず止まってしまった。
視線のその先に、見慣れた姿を発見したからだ。
東屋の中。
吹き抜けのその縁に寄りかかって外を見ている人影が見える。
その姿を見て張遼は思わず溜息をついてしまう。
あんな軽装で、と思いつつ、止めていた足を動かして東屋へと近づいていった。
廊下で繋がり、城とはまた別棟として建てられたそこは、庭を見渡すことが出来る。
しかしそれ故に風の通りが良い。夜ともなれば肌寒くなるくらいだ。
おそらく寝間着一枚しか身に纏っていないであろう、その姿に張遼の足は止まらない。
ただ、
『偶然』にも出会えたことにさえ、嬉しくなってしまう部分が自分の中にないのか、と聞かれれば何とも言えないのだけれど。
裸足の足音が夜の静寂に響く。
それを耳にして、彼の長身がこちらへとゆっくり振り返るのを見た。
同時に、張遼も東屋へと到着し、彼のすぐ側へとやって来て足を止める。
「………文遠?」
ぽつりと字を呼ばれる。
疑問に感じるその呼び方に、張遼は苦笑を浮かべるしかない。
「…またこのような軽装で出て来られて。」
「オ前モ似タヨウナ服装ダロウ。」
「私は上に羽織っていますが。」
「ム。」
言葉を返せずにいる彼の顔を見ながら、やれやれ、と張遼が溜息をつく。
「どうしたのですか? もう月も高いというのに。」
そう言いながら上掛けを彼のほうへと差し出すのだが、呂布はそれを手で静止ながら、ウ、と呟いて頷く。
頷く意味がよくわからなかったのだが、張遼は仕方なく自分の上掛けを自分の肩へと戻して少しだけ視線を上げる。
視線の先には、少しだけ不機嫌な顔。
「…………眠レナカッタ。」
呟き、そのまま顔を上げる。
視線の先へと追うように張遼も顔を上げると、そこにあるのは先ほどまで見上げていた月。
月が、ある。
「…光ガ、明ルクテ。」
ぽつり、とその呟きを聞いて張遼が思わず眼を丸くした。
それからなんとなくおかしくなって堪えきれずに笑い声をたてる。
その声を聞いた呂布が不機嫌そうにこちらを見るのが見えたので、すみません、と先に謝りながら張遼は笑いを堪えて、口を開く。
「実は私も同じ理由でしたので。」
そう正直に白状すると、今度は呂布の目が丸くなって張遼を見た。
それから、くしゃりと可笑しそうに顔が歪む。
「ソウカ。」
「はい。」
「同ジダナ、文遠。」
子供のように笑うその顔に、張遼がつられるようにして笑みをこぼす。
本当に明け透けに笑う。
普段ならば、そして他の人間ならけっして見せようとしないそれ。
親しいもの。しかもほんお一握りの人間にだけ、呂布は笑みを見せる。
表情は拙く、不器用そのものだ。
怒るときは烈火の如き苛烈さを極めたもので発せられるものの、笑ったりするのは本当に不器用で。
それを覗かせるのは、本当に稀なこと。
「しかし今度から上掛けは忘れないようになさってください。」
「俺ハ平気ダ。」
「あなたがもしこれで体調を崩したりしたら、私はかなしいですよ?」
かなしい、
そう小さく問い返しながら、呂布は窺うような反応をみせる。
ええ、と頷きながら張遼はもう一度、
「かなしいですよ。それに、心配もあります。」
と、言った。そう伝えれば呂布はしばらく考え込んだあと、こくり、と無言で頷いた。
了承してくれたらしい。
その仕草でさえどこか子供のような印象を受けてしまう。
本当に不器用だ。
普段の表情の乏しさ、戦場での死に神のような『静けさ』。
それとはまったくといっていいほど別の姿を、呂布は見せる。
張遼が側にいるからこそのもの。
そのくらい張遼にだってわかる。わかるくらいには、もうずっと呂布の側にいるのだから当たり前であった。
とくべつだ、と。
まるで明け透けに、呂布自身はまったくそのつもりはないのかもしれないが、その無意識で差し出されるそれは張遼にとっては嬉しいものでもあった。
同時に、胸の奥のほうで締め付けられるものがある。
胸の奥、その奥の深いそこで、締め付けられて悲鳴を上げているものがある。
差し出されるたびに、見せられるたびに。
喜びと同時に痛みが、わき上がる。
「……文遠。」
どうした、と問いかける声。
気遣うような仕草に、張遼が視線を持ち上げて呂布を見る。
「奉先様。」
呼びかければ、窺うような視線が向けられる。
「奉先様。」
「…ドウシタ。」
問いかけられ、いつもならば自分の胸のうちを押し隠して、いいえ、と答えるつもりだった。
この胸のうちを明かすつもりはないのだ、と。
もうずっとそう思っていた。
伝えれば今のこの関係が崩れ去ってしまうような気がして、言えなかった。
呂布の好意は、真っ直ぐであるがゆえに純粋で、やさしい。
張遼の胸のうちに秘めるのは、純粋さも、やさしさも併せ持っているが同時にまったく真逆のものも存在している。
だから、言えない。
伝えることはないのだ、とそう思っていた。
張遼が答えようと口を開けて視線を上げる。
そこで唇が止まった。
呂布の背後。
見上げるようにしてみれば、そこに月が、在る。
天上の月。
こぼれ落ちるような、その光の帯。
それを背にして呂布は立っている。
唐突に、
胸の奥の何かが、音をたてて溢れ出すのが聞こえた。
希有であるがゆえに、何の切っ掛けかはわからない。だが、堰を切ったその思いは、止めることなど出来ない。
「……奉先様。」
止められない思いのまま、熱に浮かされるように張遼が呂布の名を呼ぶ。
どうしてそうなったのかは知れない。
だが、もしかしたら月が、
月が、そこにあって。
偶然にも呂布が居て、自分がそこへと導かれて、そして出会ったというのであれば。
導かれたというのならば。
「…奉先様。」
聞いて、くれるだろうか。
一度思いを決めてしまえば、後はもう張遼は考えようとしないことにした。
未だに、言ってはならない、やめてしまえと警告を告げる声が聞こえる。
だがそれを打ち消すように、伝えてしまえと叫ぶ声も、する。
届くだろうか。
「奉先様、」
視線の先には張遼の言葉を待つ呂布の姿。
そしてその背には月。
緩やかに唇が「あの言葉」を形作る。
そして同時に、頭のどこかで張遼は思い出していた。
月は、魔力があるのだと。
人の内なる部分を明かし、
秘めたるものを導き出す、そんな魔力を持っているのだと。
そんなことを思い出し、それを理由のひとつにするかのように張遼は胸の声を押しつぶす。
故に、『やめてしまえ』という声を、
「好きです。」
月の下、言葉は今、告げられた。
−『ダンデライオン』へと、続く−