ああ、なんていうことだろう。

  俺はその時、目の前の相手と『交わり』をかわしてしまったことを、心の底から後悔してしまっていたんだ。





  この手の先の、指先の、それよりもっと先のもの。
  −ああ、ああ、そうだ。人の心というものは、こんなにもあっさりと落ちるものなのだ。−





  無口なヤツだと、最初は思っていた。

  ケ艾、字を士載。
  
  何を語りかけても返事をしない。
  漆黒の瞳を上げて、ただ無言のまま頷いたり、首を振ったり、答えのかわりにと木簡を手渡されることだってあった。
  
  加えて、とてつもなく無表情だった。

  表情の動きがまったくと言っていいほどない。
  眉一つ、瞳孔すらも動かさない。
  それはさながら、精巧に作られた彫像を目の前にしているかのような印象を受ける。

  こちらが語りかけても何もない。
  語る言葉を持つだけで、答えがない。

  まわりからどんな陰口をたたかれても、表情一つ変えない。
  遠巻きに見られても何の影響さえも受けない。
  ただ淡々と、職務を遂行していく。

  だが、その職務の遂行能力こそが他の人間の遙か上をいっていたのだ。

  他の人間が足下にも及ばないような能力。

  それを見いだしたのが司馬家の人間であり、重用されるようになるまで田舎のただの小役人だったということが信じられないほどであった。
  
  だから、興味が湧いたのかもしれない。
  他の誰もが遠巻きにするなか、俺だけは気にかけて話しかけるようになった。

  年上。
  しかも相手は司馬家の人間の関係者。
  敬うべき相手ではあったのだが、それを気にせずに何とはなしに語りかける。

  その話題だってどうでもいいことばかりだ。

  仕事の話の他に、
  今日もいい天気ですね、とか。
  
  殿のご機嫌が悪いようですよ、とか。

  軒下に生まれたての子猫がいるんですよ、とか。

  そういう、本当にどうでもいい世間話が多かった。

  はじめはそれに反応さえ示さなかった。
  ただ黒い瞳だけが微かに動いているのを見た。
  だから答えがなくても話しかけるようになっていた。

  答えはなくても、言葉はなくても、返ってこなくても。
  
  飽きもせずに俺は何度も言葉をかける。
  何度も、何度も。



  そうしているうちにだった。

  ある日、いつものように話しかけている最中に、小さな音が聞こえたのだ。
  はじめは何の音だか理解できなかった。
  
  だがやがて、それが『声』であることに気がついた。

  驚いて話すことを止めて顔を上げると、あの漆黒の瞳が俺のほうを見据えていた。
  何もの侵入も許さない色。
  漆黒の、闇色。

  それが俺のほうをじぃ、と見つめていたのだ。

  そして改めて気付いた。
  その『声』が、驚くほど小さなその声が目の前のこのケ艾のものであることを。

  気付いて、それから驚くやら嬉しいやらで、俺は笑ってしまったように思う。
  
  俺の笑みに眼を丸くして、それから困ったように視線を横に向けてしまった。
  それがなんだか勿体なくって、俺は尚更言葉をかけるようになった。



  言葉少なに、
  途切れがちで、特徴的な話し方であったけれど、それでも俺の言葉に、『ことば』が返ってくるようになった。

  良い天気だと言えば、そうだな、と。
  機嫌が悪いようだと言えば、昨日文官たちとやりあっていた、と。

  軒下の子猫は無事に大きくなったのだろうか、と問い返してことさえあった。

  

  言葉は、届いていたのだ。
  それが尚更嬉しくてたまらなくなった。

  

  ゆっくりと、それでも確かに、言葉は交わされるようになって幾日もたった。
  そんな時に、俺のほうから言ったのだ。

  『まじわり』をかわそう、と。
  
  それは終生の友である証。
  輩であり、同輩であり、対等で在り続け、その背を守るというもの。

  そう伝えたとき、ケ艾は困惑していた。

  いつもは動かない表情が動き、眉を寄せて困ったような表情が窺うことができた。

  俺はふさわしくない、と。
  お前にそんなことをしてもらえるような、そんなものではない、と。

  申し出を断る言葉ばかりが紡ぎ出される。

  しかもそれは、俺が嫌とかそういうものではなくって、自分を貶めるような言葉ばかり並べ立てる。
  それがどうにもこうにも腹立たしくなっていた。

  どうしてそう思ったのかはよくわからない。

  だが、ケ艾の言葉がひどく癪に障ったのだけは覚えている。

  

  俺が、そうしたいのだ、と。
  

  
  そう強い調子で告げてしまっていた。
  相手は年上。
  しかも上官だ。
  不遜な物言いになってしまったのはわかっていたが、それでも止めることが出来なかった。

  ただ、その言葉にケ艾は言葉もなく、俺を見つめるだけとなる。

  薄く唇が開閉し、その奥の舌が微かに見え隠れする。
  言葉もなく、見つめ合っていた。

  それがどのくらいの時間だったのかは知らない。

  だがやがて、

  やがて、ケ艾の片手が持ち上がり、俺の手に気遣うような仕草で触れて、
  指先が、

  指先が、触れて、

  



  嬉しい、と。





  そう言って、ケ艾は笑った。
  俺がこの人と出会ってから始めて、本当に生涯で始めて見た、それが『はじまり』の微笑みだった。

  子供のように笑う顔。

  眼を細め、唇を持ち上げて。
  頬をほんの少し上気さえさせて、笑っていた。

  嬉しい、と顔全体から伝わってくる。

  無防備なままの、屈託のない笑顔だった。  






  それを見た瞬間、俺は自分の心がすとん、と音を立てて落ちたのを聞いた。
  耳の奥のそのまた奥。
  鼓動と一緒にあるそれが、その時確かに落ちたのを耳にした。

  ひとのこころは、いともたやすくおちる。

  それがどんなきっかけなのかはだれにもわからない。
  あるいは、そう、そのこころの持ち主でさえも。

  




  だから俺は後悔したんだ。
  その『まじわり』によって、俺はこの位置から動くことが出来なくなってしまったのだから。

  友という、立ち位置。

  唯一無二であるがゆえに、崩すことができないもの。




  ああ、と心の奥で呟いて、俺は目を閉じる。




  本当に、なんて、冗談。




 <終わり>