その時というか、その日というか。
緑の芝生の上で、主と一緒に午後の陽差しを浴びていた赤兎は混乱していた。
馬の身であったし、元々感情を表に出すほうではないので(そもそも馬なので表情の変化はとても乏しい)何も言わずにその場にいた。
体の横には呂布。
相変わらず張遼が何度言ってもやめようとしないのだが、赤兎の体にもたれかかって午睡を貪っている。
くぅくぅ、と静かな寝息が赤兎の耳の鼓膜を微かに揺さぶっていた。
いつものこと。
そう、いつものことだ。
呂布が赤兎をこっそり(え)連れていくのも、芝生の上で昼寝をするのも。
午後の陽差し。
木々の漣。
梢を謡う声。
そんなものを耳にし、眼にしながら赤兎は困っていた。
混乱し、そしてほとほと困り切っていた。
そんな赤兎の微妙な馬心など知るよしもなく、その場に座り込んだままの青年は手にした木簡へと視線を落としている。
主も表情の動きが乏しいのだが、この青年はそれがさらに酷いように見受けられる。
眉一つ動かすことなく黙々と木簡に見入っている。
いつ瞬きをしているのだろうかと疑うくらいだ。
そのくらい見入っている。
黒墨の髪を後ろ手に撫でつけているのに、それは光に透けて漆黒の光を見ているのかよう。
瞳はそれと同じ色をしていたのだが、こちらは玉というよりも闇に近い。
そう、闇色。
何の色も侵入を許さないもの。
それを見つめながら、赤兎はさらに混乱を深めている。
同時に、やはり困り切っていた。
どうしたらいいのだろうか、とここにいない誰かにさえ助けを求める始末だ。
馬だから喋ることが出来ないので伝える術もなかったのだが、今なら念じるだけで出来るのではないかと思うくらい、切羽詰まっていた。
しかしやはり馬である身なので、誰にもわかってもらえなかった。
主である呂布も眠ったまま眼を醒まそうとしない。
……ああ、と赤兎は人知れず遠い空を見上げる。
今日も良い天気だ。
憎らしいほど蒼い空の下で、赤兎はほとほと困り果てていた。
<第三次待機中 裏> −赤兎さんはこんなことを思っていました。馬なので推測でしかないんですけどね−
そもそもの始まりは、こんな中庭で呂布が昼寝など始めようとしていたからだ。
よせばいいのに。
こんなところで寝ては風邪をひくから、とどんなに赤兎が追い立てようとしても、全然効果はなかった。
横たえた体の横。
そこに背を預けて呂布は、こっくりこっくりと船をこぐ始末。
ああ、こうなればもう付き合うしかほかないだろう、と赤兎も諦めた。
それに庭にいれば誰かに見つかる。
そしてこれを一番初めに発見するのは、あの苦労性の彼に違いないはずだ、とも思ったという。
そうすれば呂布をどうにかする。
部屋に連れて帰ってくれるはず。
そう思い、赤兎はその望みに賭けてみることにした。
得てしてすぐに中庭にやって来る人影を見つけることになる。
やって来てくれたか、と赤兎は顔を上げた。
そして、驚いた。
「……呂、将軍。」
そこにやって来たのは思い浮かべていた『彼』ではなかったのだ。
ぽつり、と小さな声で名前を呼ばれて、眠りかけていた呂布の瞼が少しだけ開く。
うぅ、とうめき声を上げて、顔をめんどくさそうに上へと持ち上げた。
「呂将軍……」
……とー、がい…?
何とも舌っ足らずな呼び方だ。
もしも彼が……張遼が聞いていたら卒倒しそうな呼び方である。
しかしここには赤兎しかいなかったし、呼ばれた『とーがい』という青年も、その呼び方にあまり顕著な反応を示さなかった。
何を考えているのか読めない表情をして、青年はサクサクと大地を踏みしめて歩いてくる。
その音を耳にしているのに、呂布の意識は覚醒する気配を見せない。
うとうととしたまま、眠たそうに何度も瞼を下ろしたり開いたりしている。
そのことに赤兎は衝撃を受ける。
呂布は、他人の前で『眠ったり』しない。
無防備な姿をさらそうとしないのだ。
親しいもので、しかもほんの一握り、数で数えるなら片手で足りるほどの人間の前でしか呂布は眠ろうとしない。
だが、今の呂布は眠たそうにしたままだ。
「……呂将軍…こん、にち…は…」
アア…
「……眠いの…です、か………」
アア………
「…呂将軍……?」
眠イ………
ケ艾は困ったように眉根を寄せる。
視線を動かし、ちらりと赤兎のほうを見た。
赤兎は思わず身構えてしまうのだが、ケ艾のほうはそんな素振りも見せず、しばらく赤兎を眺めたあとに、また呂布のほうへと視線を下ろしていた。
とーがい……
「はい…」
何ノ用ダ……
「……呂将軍…を、見つけた………から……少し、話…」
ぽつりぽつりと紡がれる言葉には、探すような気配はあっても『迷い』はない。
恐らく、呂布と話しがしたいというのは本当のことなのであろう。
ただ、呂布がひどく眠たそうにしているから言い出せないだけで。
…後デ…
「…はい……?」
後デ、聞ク……
そう言い残して完全に呂布は『落ちた』。
すこー、と寝息をたてて寝てしまっている。
いわゆる完全敗北というヤツだ。
いくら赤兎がいるからと言って、見も知らぬ(赤兎にとっては)青年の目の前で眠るなど考えられないことであった。
しかし、もう既に呂布は深い眠りに落ちている。
赤兎は弱り切って顔をケ艾のほうへと向ける。
ケ艾はすでに赤兎のほうを見ていなかった。
眼を丸くして呂布を見つめている。
その仕草は、まるで子供のような錯覚さえ受ける。
そうこうしているうちに、ケ艾が動き出した。
ああ、ここから去っていくのだろう、と赤兎は思った。
しかし、そんなことは全然なかった。
そしてその行為こそが、赤兎を驚かせ、困らせ、弱り切らせる結果へと繋がっていく。
ケ艾は脇に抱えていた木簡を芝生の上へと転がす。
そうしてその場に座り込んでしまったのだ。
何をしているのだろうか、と赤兎が不思議に思って彼をまじまじと見つめてしまう。
するとケ艾も赤兎の視線に今度は気付いたようで、顔を上げてみる。
「呂将軍、が…起きる…まで、待って……い、る…」
そんなことを言った。
言われた赤兎は驚くばかりだ。
馬の身なので非常にわかりづらいだろうし、表情ひとつ変えていない。
「…俺が……話、たい…だけ……なん、だ…」
だから、待つと。
そう言って静かにケ艾は持ってきていた木簡のひとつを手にとって、紐解く。
ぱらりと木簡は開かれ、ケ艾は黙ってそれに目を通していく。
………ああ、この青年は、
なんて不器用で、真っ直ぐで………
そう思い、赤兎は人知れず溜息をつく。
こんな寒いところで待たなくても、と思った。
呂布には自分自身がいるのだし、風よけはちゃんとしてある。
だがケ艾は寒いはずだ。
寒くない、はずがない。
だから赤兎は困った。
呂布も「ここで待っていろ」などと言ったわけではない。
だから赤兎は困っていた。
この青年に、それをどうして伝えたらよいのかわからなくて。
そのまましばらく赤兎の苦悩は続く。
それが打ち破られるのは、もうすぐそこへやって来る苦労性の『彼』がやって来るまで出来そうもない。
だからしばらく、本当にその間だけ、赤兎は青年の側に黙って身を横たえることになる。
<終わり>