頬に流れる滴は、あなたとともに埋めてきた。
だから、この瞳の奥にその泉などもうないのだ。
【涙のふるさと】
〜ささやくこえはとおく、きこえない。そばにあるものも、みえない。〜
「ご報告致します。」
ぽたり。
「敵方部隊の殲滅に成功。」
ぽたり。
「殿がご所望のあの城も、すぐに落ちることとなるでしょう。」
ぽたり、ぽたり。
ぱたり。
「………ああ、ご苦労、張将軍。」
血の香り。
噎せ返るような濃密な鉄錆の匂いがあたりに充満している。
いや、その血の香りはある一点を中心に室内へと広がっているのだ。
室内にいる誰もが眉を染めて鼻の奥まで浸食してしまいそうな香りの中で、その主は微動だにせずに絶っている。
手には刀。
その刃先から、ぱたぱたと血が流れ落ちている。
だが、それだけではない。
特徴的な黄金の鎧を真っ赤に染め、顔や手、あるいは髪先にまでも血をしたたらせている。その姿たるや鬼か、あるいは羅刹。
伝承にのぼる鬼のほうが余程易しいのかもしれない。
鬼には表情がある。
大抵は威圧のあるもの。それとも憤怒か、そういう激しいものであることが多い。それは人へと『鬼が恐ろしいもの』であることを伝えるためのものでもあるのだ。
しかし、張遼には表情がない。
表情は彫像のように冴え渡り、眉一つ、瞳孔のひとつ、動かない。
まったくの無表情。
何の感情もないその顔は、それゆえに底冷えのするような寒さを連れてくるのだ。
その表情を、視線を流しながら見つめていた曹操であったがやがてため息をひとつついて、もういい、と言葉を落とす。
「下がっていいぞ。恩賞はおって連絡する。」
「…………はい。」
曹操の言葉に張遼はそれだけ言うと、礼をしてから踵を返して歩き出す。
ぱたり、
ぱたぱた、ぱた、
その歩くあとから後からから、血の痕が残る。
だが張遼がそれを見返ることはない。足下から落ちていく血のすべては己の血ではない。
戦場の返り血。
敵を斬り、人を斬り、鎧を断ち、肉を切り、骨を断ち、すべてを切り伏せていった。その返り血なのだ。すべては。
その後ろ姿を見送りながら、曹操はあからさまな息を吐く。
片手を額へと押し当てて、難しそうに眉を顰める。
「……見ておられんな。」
その呟きは小さなものであった。謁見室にいたほとんどのものは聞くこともできなかったし、聞いたところで理解ができるものでもない。
ただ曹操の側に控えている夏候惇たちが顔を上げて彼を見る。
浮かべている顔は曹操と似たものがあり、何か言いたそうな唇の動きさえ見られる。しかし曹操はそれを見ようともせず、ただ手をひらりと宙へと浮かべてから、
「放っておけ。」
と、ただ一言言い切った。
「……今のあいつには、何を言ったところで届くわけがない。」
そう、届くはずがない。
あるとすればたった1人だけいるのだろうけれど、その人物はもうどこにもいない。
この世界のどこにも居ない。だから、届かない。
(……まだ足りない。)
自分の手のひらへと視線を落としながら張遼は無言で言葉を吐く。
(まだ、足りない。)
謁見の間を辞したあと、返り血を浴びた姿のまま自分の住む城へと帰ってきたのだ。数少ない使用人達は帰ってきた主人の姿を見て絶句したが、それでも甲斐甲斐しく血をぬぐい、鎧を取り、髪についた血の一滴でさえも洗い流した。
その間中、張遼は一言も口を開かなかった。
ただ、足りないと。
(まだ、届かない。)
そう、思っているのだ。
その一点のみに意識を奪われたまま、何一つとして喋ろうとしない主人を残して使用人達は部屋から出て行っていった。
彼らなりの配慮であるということはわかる。
ただ、それにかける言葉が、今の張遼には持ち合わせていなかっただけで。
(少しも、足りない。)
そうして一人残された張遼は、開け放たれた窓辺へと腰を下ろし、部屋の外を眺めるわけではなくただ己の手のひらを眺めていた。
飽くことなく、ただじっと見つめている。
「………あなたに、届かない。」
やがて乾いて白く皮の浮かんだ唇が声をもらした。
言葉は誰に紡がれているのかわからないものであった。
少なくとも、使用人達には主人がいったい誰のことを口にしているのか予想さえもできないだろう。
ただ、曹操たちが聞けば、やはりな、と呟いてため息をつくはずだ。
「……いったい、いつになればあなたに届くのでしょう…」
だがここには張遼の他には誰もいない。
だから張遼は飽くことなく手のひらを見つめ続け、言葉を落とす。
幽鬼のようながらんどうの瞳が、かすかに動く。
「いったい、いつになれば……」
生きているのか、死んでいるのか。
もしそれを定義できるものがあるのだとすれば、張遼はどちらになるのか。
鼓動があるから、生きている?
此処に在るから、生きている?
………そんなもの、何の証明にもなりはしないのに。
「あと、幾人斬れば…あなたに、足りるのでしょうか……」
呂布どの、と。
空白の声がかの人の名前を口にした。
静かな部屋の中にかすかに響いて、止まる。
その声に何の答えもない。
張遼が顔を上げて天を見上げる。開け放された窓の上には、暗雲とした黒い色がある。
あの日の空は、もっともっと、白かった。
答える声は聞こえない。
側にある姿は見えない。
そんなものは真っ先に塞いでしまったのだから。
だから、
「………あなたに、あいたい。」
たったひとつの願い事でさえ、届かない。
【おまえに、あいにきたんだ。】