世界など、とおの昔に千切れて、砕かれてしまった。
目の前に横たわるのは、灰色の残骸。
色など真っ先に失われた。
音はない。
匂いもない。
触れば、そこから崩れ落ちていく。
世界は砕かれた。
あの時に、
あの人を『無くした』瞬間に、粉々に打ち砕かれた。
その残骸にしがみつき、それでもなお生きていたのは、その残骸の中で立ちつくしていたのは、すべて、あのひとのため。
あのひとの『 』を叶えるために。
ただそれだけだった。
それだけが残されたすべてだった。
残骸を無理矢理に形作り、
色がないなら、と無理矢理に色を塗りたくり、
音をつけ、
匂いはどうだった、と思い出す。
崩れるのならその崩れたものを直す。
元通りにならなくとも、何度でも、何度でも。
たとえそうした先からまた崩れ去っていき、元の形でさえなくしていくのだとわかっていても、それしか縋るよすべはなかったのだから。
そうして、重ねた。
重ねて、重ねて、重なって。
時間と日々を重ねて、世界は、そうしてまたいびつな形を造り上げる。
目の前にあるものを見る。
そうしなければ、叶えられそうもなかった。
だからそうした。
それだけだった。
それだけがすべてだった。
そのはず、だった。
あのひとに見(まみ)えた、その瞬間。
一度は塗り固めた『せかい』が音を立てて崩れ去っていくのを、確かに私は聞いたのだ。
あなたにハナムケのことばをおくる。 前編
−舞い落ちる欠片。崩れ落ちる音。落ちて、堕ちる。すべてが堕ちて、あとには何も残らない。−
世界のすべては闇の女神の腕の中。
しん、と静まりかえり、生命といういのちの全てが静止してしまったかのような、耳が痛くなるほどの静寂が続いている。
鳥は鳴かない。
風もない。
ただ、夜の中にあって尚、光を放つ月があるだけだ。
天空の上にあって、その淡い光を地上へと降り注いでいる。
それはまるで、闇に住む何かでさえも手を出せない、絶対的な力のような。
儚いが故に、触るのを躊躇われ、そして儚いが故にその光はとても弱い。
触れれば消えてしまいそうな月光が、あたりを照らしている。
窓を開け放ち、ぼんやりとその光景に見入っている1つの影がある。
部屋の片隅。
窓の側へと椅子を近づけ、縁へと体をもたれ掛からせた姿勢で、庭を照らす光を見続けている。
投げ出された手に掴むものはない。
薄着と思しき衣だけで、身じろぎもせずにただ眼に映るすべてを見つめていた。
世界は静かに沈黙し、その様をただ瞳に映し込んでいる。
そうやって何もなく、時だけが指の間からこぼれ落ちる砂粒のように落ちていく。
そう、思われた。
「………………奉先殿。」
だが、
静寂は破られた。
呂布が呼びかけに反応して顔を上げる。
ゆっくりと瞳を持ち上げて、ガラス玉のように無機質に景色を映し入れていれたそれに、かすかに光が宿る。
かすかだが、凛とした光。
力強く、光り輝く。
その視線の先には部屋の扉。
音もなく気配もなかった。しかしいつの間にか開かれたそこで、穏やかな顔で立っている一人のひと。
……ちょうりょう。
その人物を見ても呂布は驚きもしなかった。
当たり前のように、呼んだ。
呂布の唇が緩く動く。
その低く、小さな音を余すところなく聞き取って、張遼は笑う。
唇には笑みを上らせて、やさしく、やさしく、あまやかすように微笑んでいる。
そうして微笑みをみせて、それが特別なものである証のように呂布に『渡して』、張遼は呂布の背後にある窓へと視線を向けた。
鳶色の瞳に、月が。
月が、ある。
「…こんな夜ですね…あなたの、その『呪い』が解き放たれるのは。」
満月ではなく。
三日月でもない。
ただ、風もなく、生命の音もしない、静寂だけで支配する。
闇の女神の気まぐれによって生まれる、刹那。
呂布は『呪い』から解き放たれる。
窓辺にいたのは確かに、元の姿をした『呂布』であった。
時折。
本当に、何のきっかけかはわからないし、呂布自身にもわからないが。
夜の、それもほんの短い時間にだけ、呂布の姿は『元に戻る』。
小さなあの姿ではなく、元の姿に。
まるで神か何かの気分次第。
気まぐれなそのひととき。
そんな時間があることを呂布は誰にも言っていない。
故に、誰も知らない。
ただ、張遼だけは知っている。
実際にその場面に遭遇したから、というのが大きな理由だ。呂布は、随分と前からあったその変化を張遼にも言わなかった。
元に戻ったとしてもそれはほんのひとときだけ。
夜が明ける前にはあの姿になってしまう。だから言っても仕方がない。
それが呂布の言い分だった。
(それを聞いた張遼に三刻ほど説教を訥々と聞かされる羽目になったのだが、それはどうでも良いことだ。)
だから張遼ももう既に驚く様子もなく、足を一歩、部屋の中へと進めた。
ゆっくりとした動作で張遼は扉から中へと入り、静かにそれを閉じる。
ぱたん、と小さな音だけが静寂の中に響く。
そうしてそのまま音もなく室内を歩き、窓辺へと近寄って行った。
そこにいる呂布へと近づく。
微かな足音が静寂の落ちる室内に響く、それを呂布も待った。
やがて月の光に、その姿が映し出されていく。
闇の中から浮かび上がるそこには、より柔和な表情が浮かんでいるばかりだ。
張遼は数歩進んだだけで呂布のすぐ側に立っていた。
顔を覗き込めば、彼の人の鳶色が呂布の姿を映して月光の下で煌めいているのが見て取れる。
「…今日は寒いですよ。」
マダ秋ダゾ。
「底冷えするではありませんか。現に、ほら。」
そう言って張遼が呂布の頬へと手を伸ばす。
指先で触れれば、それはひんやりと冷えてしまって張遼の指先のほうが熱いくらいであった。
指先から伝わる体温に微苦笑を張遼は浮かべる。
「こんなに冷えてしまわれて…」
体温を分け与えるかのような仕草で指が頬を撫でる。
呂布はなすがままだ。
触れることを許し、そして身じろぎもせずに受け入れている。
それが心を許している証のように。
張遼もそれがわかっているのか、遠慮無く、けれど大切な何かを触れるように柔らかく指先が動く。
だが、冷えた秋の風が窓から流れ込んでくるのを感じて、顔を上げた。
「さぁ、窓を閉じましょう。」
指先を離し、張遼が窓を閉じようと手を木枠のほうへと伸ばす。
呂布は何も答えない。
ただ、ジッと座ったままの姿勢で張遼を見上げている。
それが了承の合図と受け入れて、張遼は窓へと手をかける。
普段ならば、元の姿なら二人の身長差は張遼のほうがほんの少し低い。
視線が上へと持ち上がり、張遼が呂布を見る。だから呂布のほうが張遼を見上げるということは、ほとんどない。
あの『呪い』を受けた姿ならば、見上げるどころか足の膝ほどしか大きさがないのだからそんなことも言ってられないのだが。
そんな当てもないことを呂布はぼんやりと考えていた。
考えていたら、いつの間にか張遼は窓を閉じてしまって、部屋の中は薄暗くなってしまう。それでも僅かに闇に慣れた目が張遼の姿を捕らえていた。
張遼は、笑っているようだった。
闇に浮かび上がるのは、粗野ではなく、どこか武人としての気品さえ漂うような凛とした笑み。
そして呂布に見せるほのかな優しささえ滲ませている。
「奉先殿。」
確かに、笑っていた。
それを呂布も見た。視線を上げて、真っ正面からそれを受けた。
瞬間だった。
呂布は激しい『違和感』を感じる。
胸のあたりにわき上がる染みのような。
それはほんの小さな傷。だが小さいのに消えない。
それが違和感を連れてくる。警告のように、何度もその存在を声高に叫んでいた。
目の前にいるのは張遼だ。確かに、『張遼』なのだ。
姿形も、声も、指先の温度もすべてが、張遼のもの。それは呂布にだってわかる。
わかって、それでもなお激しいほどの違和感が呂布の中で生まれて消えない。
「奉先殿。」
笑う、顔が。
まるで幽鬼のような薄暗さを隠している。
それを呂布は見た。確かに見た、と思った。
………………誰ダ…!
口からついて出た言葉に、張遼の体が止まる。
だが、笑みだけは消えない。
顔に貼り付けた能面のような優しい笑みだけが、消えようとしない。
呂布は視線を上げたまま睨み付けるように視線を強くした。
その目はいっそ鋭ささえ讃えていて、まるで触れれば斬ってしまうような錯覚を相手へと与える。
それは張遼も感じていたはずだ。
それでも張遼の笑みは消えない。身を探り、切り伏せられそうな気配を与えられながらも、微塵も動揺する気配を見せない。
切り刻まれるのならそれも良し、とさえ、言いたげに、自らを刃の先へと突き立てる。
「貴方は、」
張遼の、唇が動く。
その声は優しい。だが、体の芯から凍りつくような、背筋に寒気さえ覚えるやさしい声など、呂布は知らない。
言葉を紡ぐ。
それは、絶対的な確信を持って、呂布に告げた。
「『私』を、斬れないでしょう?」
キュゥ、と三日月の形に唇が持ち上がった。
見たこともないようなその笑い方に、呂布の違和感は最高潮に達する。
姿形は『張遼』のもの。
言葉も、声も全部、呂布の知っている彼のもの。
だが違う。根本から、何かが『ねじ曲がって』しまっている。
元通りにならないほどに、そのねじ曲がった先から何かが生まれ出でているのを感じた。
思わず身を退こうと体を動かすが、それは敵わない。
手が、触れたからだ。
頬へと伸ばされた手が、呂布の行動を止めた。
止めてしまった。
「私は“張遼”ですよ、奉先殿。」
触れた指先は熱い。
その内に隠された灼熱を伝えるかのように熱い。
触れた先から焼け爛れていくかのような、熱を含んでいる。
「私を、呼んでください。」
そうして触れた箇所から全部が、熱くなっていく。
張遼は微笑んだままだ。
たとえばそれが、作り物の笑みだとしても。
造花の笑み。
永久に枯れもせず、いつまでもその姿を保ち続けるそれに似た。
けれど造花は、本質がない。
生きていないのではない。
『なかみ』がないのだ。
くつり、と音をたてて笑う。
「『奉先様』。」
告げる声ですら、造られたもの。
張遼の顔で、張遼の声で、張遼の言葉で、造られるもの。
それが呂布に対して、絶対的な力を持つことを知っているかのような。
ぶん、えん。
動かせない視線のまま、呂布が呆然として名を呼ぶ。
それは、『彼』の呼ぶ声。
…オ前ガ、ドウシテ此処ニイル…!!
「ああ、やっとわかってくださったのですか?」
呂布の言葉を聞いて、張遼が……いや、彼と同じであり、同じではない『彼』が、笑った。
「私が『同じもの』だから、気付かれなかったのですね。」
笑う顔は、張遼の面影はない。
呂布の知っている彼は、こんな風に笑ったりなどしない。
呂布の片割れにいる彼は、違う。
「本当はもう少し早く気付かれると思っていたのですよ?」
そうすれば、と唇が動く。
月の下。
風はなく、虫の音もなかれば、何の音もない。静寂だけが世界に横たわり、全てを覆い尽くしている。
そう、
何が起きても、誰も知らない。
「私を呼んでください。」
オ前ハ……
「私を、呼んでください。奉先様。」
何度も、何度も。
まるで懇願のように、まるで呪詛のように張遼は何度もささやき続ける。
椅子に腰掛けたままだった呂布が動こうと体を持ち上げる。
しかし、それさえも張遼は止めた。
力などいらない。
抑えつける力など、必要ない。
止めるのは、この掌ひとつ。
それだけで呂布は動けない。呂布は、『そういうふう』に出来ていてしまっているから。
「私を、」
片方だけだった掌が、もうひとつの頬を包む。
両手で触れれば熱はそれだけで高まった。
熱い、と。
その感覚だけに集中してしまい、呂布は自分の目前の闇がさらに深まったことに気付くのが遅れてしまった。
覆い被さるようにして、目の前に伏せられた瞼があるのが見て取れた。
そして唇に感じる別の熱。
触れただけの感触が一瞬、自分の身に何が起こっているのかを呂布に知覚させるのを妨害してしまう。
触れたのはその一瞬。
すぐに離れていく張遼の体に、自分が何をされたのかを呂布は瞬時に悟った。
貴、様………!!
目の前が一気に赤く染まる。
怒りで。
いや、それだけではない。もっと別の、何かよくわからない熱が呂布の胸に生まれていた。
勢いのまま手を上へと振り上げる。
それはそのまま下ろされるはずであった。
音を立てて張遼に炸裂する、はず、だったのだ。
しかしそれすらも張遼は止めた。
うっすらと笑みを浮かべて、殴られる前に呂布の後頭部へと手を伸ばす。
後はもう勢いだけだった。
力任せに引き寄せられ、完全に勢いにのまれた呂布の体が前方へとつんのめった。
そのまま、もう一度唇が合わせられる。
がつり、と音をたてて歯がぶつかり、鈍痛さえした。
だが張遼は気にも止めず、呂布の唇を自身のものと合わせたまま動かない。
視界の闇が濃くなる。
闇を連れてきたのは、張遼だった。
いや、連れてきたのではない。
元々、その身に宿している。だから、闇は来る。
重ねられた唇。
はね除けようと呂布は暴れた。しかしどういうわけか張遼の体を退けることができない。
がっつりと抑えられた状態で、合わせられいるだけだというのに、吐息すら許さない口づけが続く。
呂布は混乱していた。
今までにない状況に混乱し、頭を動かせず、体さえままにならない。
椅子に抑えつけられているとはいえどうすることも出来ない状態に、頭の中で火花が飛ぶ。
ぶつぶつ、と音を立てて何かが切れていく。
切れたその音を耳の奥で聞きながら、呂布は何とかしようと唇を開けた。
それを感じ取った張遼が瞳を開けるのが見えた。
同時に、獰猛に瞳の奥が笑みを刻むのも見た。
見た呂布が本能的に自分の行動の過ちに気付く。だが、気付いたときにはもう。
遅かった。
コロン、と。
軽い音を立てて歯に何か固いものがあたる。
口移しで何かを呑まされたのだ、と呂布は瞬時に察知した。
だが拒むことは許されない。
唇をそのまま押し開かれる。
舌が侵入しているのだと感じたが、拒むことが出来ない。
噛み千切れ、と頭のどこかが声高に叫ぶ。
このままこいつの好きにさせていいのか。噛み千切れ、食いちぎれ。今なら出来る。今なら、簡単に。
その声に、呂布はできない、と空白の声で答える。
出来るわけがない。
噛み千切ることも出来る。だが、それを呂布は実行に移せない。
移せば、傷つける。
(………もう二度と、傷つけない、と。
そう誓った。
『 』を、あいつは叶えてくれた。だから、もう、二度と。)
それがどんな後悔を生むことになるか、
呂布は知らなかった。
彼は、酷いことをしない。呂布はそういうふうに出来ている。
人外と呼ばれ恐れられてきた彼は、『ひと』とは違うが故に好きなものに対してひどいことを決して実行しようとしなくなってしまう。
大切であればあるほどに。
心を埋め尽くす相手ならば、それだけ、酷いことをしようとしない。
けれど、『ひと』は違う。
『ひと』は、己が望みを叶えるためになら、誰をも傷つける。
それが自分の『大切』な相手であっても同じこと。
いや、大切であるがゆえに、傷つける。
張遼は、『ひと』だ。
だからこそ、己の望みを叶えようとする。どんな形であれ、それがどんな結果をもたらすのか予想すらしているというのに。
ごくんと呂布の喉が鳴った。
そして口の中にあった何かを、飲み込んでしまっていた。
張遼がそれを聞き、つ、と唇を離す。
その瞬間、呂布は椅子を蹴倒して後ろへと逃げた。
瞬歩さながらに張遼との間を開け、空間を作る。
上がる息のまま、濡れた唇を手の甲でグイグイと力任せに拭った。
「……血が出ますよ。」
煩イ……!!
怒りの視線を投げかけられても張遼はそよとも感じないと言いたげに表情を変えようとしない。
唇は笑んだまま。
ただ愛おしそうに、笑っている。
その瞳が凍るように冷たい。触れればその先から凍りついてしまいそうな、そんな感覚さえ連れてくるかのようであった。
ぞくり、と呂布は自分の背筋に寒気がまた走ったのを感じる。
笑う。
笑う。
張遼はただひたすらに微笑んでいる。
何ガ可笑シイ。
呂布が呟くと、それを聞いた張遼が数度目を瞬かせ、それからおかしそうに、くつり、と笑う。
「…いいえ、何も。」
ダッタラ、何故オ前ハ、笑ッテイルンダ!
「簡単なことですよ。」
笑う。
「あなたが『私』にやさしいのが、嬉しくて仕方ないんです。」
ほうせんさま、と笑いながら張遼は呂布の字を口にする。
その笑みはどこまでも優しい。
優しいまま、凍りついた瞳で。
「わたしを、よんでください。」
わらって、いる。
<後編につづく>