いくらなんでも………ねぇ?





 『注意書き 「いたずらはけいかくてきにやりましょう」』
  −そんな注意書きするくらいなら、悪戯なんてやめておいたほうがいい。ごもっとも。−






  冬の陽差しは、柔らかでありながら寒さをも和らげる力を持つものだ。
  空気は張り詰めて、ぴんと一本の糸でも引いたかのような静謐な寒さを相変わらず肌に感じさせたが、それでも日の光が差し込めば、その寒さでさえ和らぐような錯覚を覚えてしまう。

  いや、実際寒いのだが。

  はぁ、と息を吐くたびに空気は白くなって宙へと舞い上がる。
  廊下を静かに歩いていく陣宮は、とに寒くなったと体を震わせた。

  目に映るのは霜がなくなった庭。
  朝の白い霜がなくなっただけで、実際の寒さは少しも引いていない。
  後で火に当たるか、あるいは火鉢でも……とぼんやりと思いながら足を進める。

  そこで、

  陣宮は足を止めた。
  というより、止めざるを得なかったとも言える。

  庭先で見知った後ろ姿を見つけてしまったからだ。

  何をしているかはわからないが、この寒さだ。
  あんなところにいたら体が冷えてしまうと思い、溜息をつきながらその人物の側へと歩み寄っていく。

  廊下から庭へと降り、そのまま近づいていく。
  足音は聞こえているだろうに、彼の人はこちらに振り返りもしない。
  頑なに庭の一点を見つめている。

 「………将軍。」

  いつも通りの呼び方を口にする。
  瞬間、その後ろ姿がぴくりと動いたが、やはり陣宮のほうへ振り返ろうとしない。

 「将軍、どうかなさったのですか。」

  それでも根気強く陣宮は声をかけた。
  反応がないからと言ってそこで放っておいてはいけない。
  
  反応がないのは拒絶の意志の時もあるが、違う時だってある。

  その『別』の時が今なのだろう、と陣宮は判断していた。だから声をかける。
  そのくらいなんとなく解るくらいには軍師として近くに、そして長く仕えているわけである。そもそも、このくらいでどうのこうの言っていては、この主人の臣下などやっていられない。

 「…呂布殿。」

  そこでようやく、名を呼んだ。
  慣れ親しんだ臣下としての呼び方でなく、あくまでも近しいものとしての呼び方だ。

  膝を折り、顔を近づける。

  小さくなってしまったこの主人の近くにいくには、このくらいしなくてはいけない。
  それも別段、苦にしていない。
  呼ぶ陣宮に答えてか、ゆっくりと呂布が振り返る。

 「ここは寒い。」

  そこで陣宮が自分が羽織っていた肩掛けを外し、そのまま呂布をくるんだ。
  途端に寒さが着ている服から肌まで襲いかかってきたが、その寒さに眉をひそめる。
  こんな寒さのなかでどれほどここにいたのか。

 「私の室に茶と火鉢があります。ご一緒いただけますか?」

  くるんだ呂布の体の冷たさは尚のことであった。
  暗に「話を聞きますから」という意志を伝えて、陣宮が返答を待つ。

  呂布の反応は薄い。
  いつもならくるまれるということに嫌がる素振り(そうでなくとも、そういう扱いをすれば子供扱いするなと怒鳴りつけられもする)を見せるのに、今は陣宮のなすがままだ。

  おや、と陣宮は胸の内で首を傾げた。

  様子が違うのは見てわかるが、今回は根が深いらしい。
  不審に思ったが返事がないのは了承の意だということにして、陣宮が呂布を抱き上げる。

  ………陣宮。

 「はい、いかがなされました?」

  抱き上げて、さて歩きだろうとしたところで呂布がようやく口を開いた。
  重苦しい口調だった。

  ますます不審に思う陣宮だったが、反射的に返事をして答える。
  自分の腕の中を見れば、呂布は下へ俯いたままで顔が見えない。

  だが、ひどく悄げているのはわかった。

  呂布という人物は、感情表現がとてもわかりやすい。
  ただしそれは陣宮や張遼といった『付き合いが長い人々』だけが言うことであって、付き合いが浅かったり、深く付き合おうとしなければ呂布はとてつもなく感情表現がわかりづらい、と言われる。

  何を考えているのかわからない。
  いつも酷薄な表情を浮かべている。
  言葉数も少ない。
  
  ……それは呂布が心を開かない相手には興味がないからだ。

  心を開いている相手には、まるで子供のように感情の起伏がわかりやすく、上下だって激しい。
  それを見せてくれるのは大変なのもあるが、反面、嬉しくもある。

  だから呂布の近くにいる人物は彼から離れることが出来ない。

  何の損得勘定もない、真っ直ぐな好意を無下になど出来るわけがないのだ。

 「…このところ、呂布殿は執務も片付けています。」

  さくさくと庭を横切り、廊下へと戻る。
  呂布の口が重い。

  それは言いたくないことがあってのことなのだろうと解釈をして、陣宮は別の言葉を口にしていた。

 「貰い物の菓子もあります。それで体が暖まったら、赤兎のところでも行きますか。」

  私は遠乗りには付き合えませんが、と苦笑を浮かべて陣宮が声をたてる。
  陣宮も感情表現が下手な部類のほうだ。

  気難しい顔を思い浮かべるのが常だが、この感情表現豊かな主人の側に長いこといるせいか、似てきてしまった。

  声を荒げて怒鳴りつけ、
  悲しいと思ったら深く慟哭し、
  笑うときには声を上げて笑う。

  そんな風になってしまった。
  それを変化として受け止められるほど、陣宮の心は穏やかになっている。

  陣宮。

 「はい。行きますか?」

  …………陣宮……

  もう一度名を呼ばれ、陣宮が下へと顔を向ける。
  呂布は相変わらず俯いたままであった。

  どうやら気分はまだ回復しないらしい。

  今回は相当根が深いようだ、と陣宮は思った。

  ………張遼ニ、投ゲ飛バサレタ。

 「はぁ、そうですか…………って、は?

  そんなことを考えている矢先に呂布の口から漏れた話に、陣宮は思わず足を止めて素っ頓狂な声を上げてしまっていた。









  その日。

  呂布は上機嫌だった。
  朝からの寒さは相変わらずだったが、足取りも軽く廊下を歩いている。

  執務を片付けてきたのだ。今日一日の量を、余すことなく全部。

  呂布にとって執務は苦手だった。相変わらず。
  それでも交流を深めるようになった魏の軍師たちにあれやこれやと手ほどきを受けながら進めていくことによって、少しずつではあるがその執務能力が向上しつつある。

  だから今日一日、割と少なめだった執務はあっという間に終わってしまったのだ。

 『おお流石、呂布殿。』

  側にいた程cが感慨深げにそう口にして、呂布に餞別だと菓子を渡す。
  その菓子(饅頭だった)を口に頬張り、悠々自適に歩いている。

  今日はもう主立った仕事はない。

  兵達の訓練は高順がやっているはずだ。
  鍛錬に行くのもいいのかもしれない。
  魏の名だたる武将たちか、あるいは他にも招かれている客将たちに声をかけてみようか。

  そんなことを徒然と考えていると、廊下の先に人影があるのを見つけた。

  よく知った長身。
  鎧ではなく、落ち着いた色合いの服を身に纏っていたが、その伊達ぶりが板についている。
  
  上機嫌だった呂布は、その時、ふと心に思い浮かべたことがあった。
  菓子を貰い受けている女性陣たちから聞いた話である。

  それを話して聞かせたのは蔡文姫だった。

  話のくだりを思い浮かべ、呂布は上機嫌さも手伝って普段はけして実行に移そうとしないことを、この時、してみようと思った。

  文遠。

  声をかければ、聞き逃すことなく視線の先の彼が呂布のほうへと振り返る。
  そして呂布の姿を見つけると、唇の端を緩めるのが見て取れた。

 「奉先殿。」

  答える声が酷く優しい。
  眼差しも少しだけ柔らかくなっている。

  それを見るのが呂布は殊の外、気に入っていた。

  誰にも言わないし、この表情は自分だけが知っていればいいので言いたくもなかったのだが。

  軽い足取りのまま、ひょい、と呂布が欄干へと上る。
  ジャンプひとつで自分の倍の高さの欄干へと駆け上がったのは流石に一言につきる。

  それを張遼も待った。
  手助けなどなくとも、呂布がそのくらい出来ることがわかっていたからでもある。
  危ないとも思うのだが、言っても止まらないことくらいわかっていたのだし、もし足を踏み外してもすぐに対応出来る。

  文遠。仕事ハ終ワッタノカ?

 「いえ、私のほうはまだ少し……奉先様は。」

  俺ハ終ワッタ。

  得意げに語り嬉しそうに話す呂布に、張遼も和らげた表情のまま「そうですか」と言葉を落とす。
  そのまま何の気なしに張遼が呂布のほうへと片手を伸ばした。
  
  ゆっくりと呂布の頬に指先が触れて、そして頬を撫でる。

  頭を撫でるのはさすがに怒られるのでやめておいたのだが、張遼はよく呂布を撫でる。
  頬を撫で、掌をつければ呂布も嬉しそうにしているせいもあるのだが。

  撫でられた感触がくすぐったいのか、呂布が首を竦める。
  しかし嫌がる素振りなど露ほども見せずに撫でる指先に頬を寄せた。
  まるで小動物のようだ。

  撫でられるのが気持ちよいのだろう。
  実際、呂布は人から安易に触れられるのを嫌がる。だが、それが張遼などが相手になると一変してしまう節があった。

  だから張遼にも遠慮がない。

  撫でる指先をそのままにして、頬を包むようにして手を置く。
  呂布もいつもならなすがままだった。
  
  だが、今日はいつもと違った。

  文遠。

 「はい。どうかなさいましたか?」

  声が先にかけられたのだ。
  いつもなら言葉もなく触れるのを楽しんでいるのだが、今日は違う。

  呂布は両手を組み、何かを包み込んでいるかのような仕草を見せる。
  
  手の中に何かあるのだろうか。
  しかし先ほどは何も手にしていなかったはず、と張遼が考える。

  覗イテミロ。

 「………何かあるのですか?」

  イイカラ。
  
  早くしろ、と呂布は両手を差し出す。
  張遼はそれを不審に思いつつも、呂布は何も持っていないようであるし悪戯をするようなものだってない。
  (悪戯って。)

  何かの遊びだろうか、と考えながらも呂布の差し出した両手の中を覗き込もうと、顔を近づける。

  組んだ手の中を見ても、そこには何もなかった。
  わかったのは、そう、覗き込んだ瞬間に呂布の指先が解けたからだ。

  そうして小さな手が、張遼が何か言うよりも先に彼の頬に触れる。

  今の呂布は小さい。
  以前の珍騒動から脱却することも出来ず、しかしそれを当人も全然まったく気にしていないので、打開策もない。
  だからその小さな手は触れたことがあまりないもので、
  けれどその仄かな暖かさだけが、けして代わることがない。

  指先が肌に触れて、体温を伝える。





  その次の瞬間、指先とはまったく別の感触が張遼の頬に触れた。





  何をされたのか、張遼には理解できなかった。
  ただ自身の片方の眼の先に、呂布の顔がある。

  しかもその近さが、おかしい。

  すぐ先にある。触れそうな位置に。
  いや、実際のところ触れていた。

  頬の違和感に気付いたのも、その時が始めてだった。

  


  
  気づき、そして思考回路が自分の現在の状況を、いち早く張遼に教えた。

  固まる張遼をよそに、呂布の体は離れていってしまう。
  呂布は自分のしようとしたことが上手くいって上機嫌の様子だ。

  文遠。

  名を、口にする。
  その唇の動きで、張遼は我に返った。

  我に返ったと同時に、

  ぎゃぁ、と叫んだ。

  色気も何もあったものではないのだが、本当にそんな声を上げたのだからしょうがない。
  しかも叫んだのだ。

  吃驚した呂布が眼を丸くしたのとほぼ同時に、張遼は思わず側にいた呂布の体を、






  ぽーんと、宙へと投げ飛ばしてしまった。






 「……………………そりゃ、お前。」

  高順は呆然としていた。
  目の前でこれ以上ないくらいに落ち込んでいる元同輩の頭頂部を眺めながら(何しろ机に顔をくっつけた状態なのだ。顔は見えないばかりか、つむじしか確認できやしない)、なんてことしてるんだと言いかけた。

  しかしそれは口にできなかった。

  何しろ張遼が背後におどろおどろしい気配を抱えてそこに座っているのである。
  容易に口にしたら呪われそうな気さえした。

  そんなもので呪われてはたまったものではないので、あえて高順は言わない。
  代わりに、深い溜息をつく。

  鍛錬の最中にこの男が駆け込んできたのは一刻ほど前の出来事であった。

  兵達へと支持を与えていたところで、錯乱……ああ、そうだ。錯乱以外、あの状態を言い当てるものはない……した張遼が駆け込んできたのである。
  何かを早口でまくしたてているのだが、高順には何を言っているのかさっぱり理解できなかった。

  平素が冷静沈着、頼りがいのある上司として通っている張遼の姿に、兵達の間にも動揺が走る。

  ざわざわとざわつくその場を後目に、ここにいるとさらなる混乱を招くことになることを察した高順は、とっとと鍛錬の支持を与え、あとは各自で好きにやれと言い残して張遼を連れ去ったのはそれからしばらくしてのこと。

  室へと招き入れ、まあ落ち着けと言い宥め賺した。
  それからようやく落ち着きを取り戻した張遼から何があったのかを尋ねてみた。

  尋ねてみたら、

  阿呆みたいな話が返ってきたのだ。溜息もつきたくなるというもの。

 「仕方ないだろう…!」
 「いや、だからってなぁ、投げ飛ばすのはやりすぎだと思うぜ?」
 「私だって驚いたんだ!」

  いや、確かに。
  確かに呂布のしたことは吃驚するような悪戯だ。

  しかし所詮は悪戯なのである。

  歳を考えろと言ってやりたくなるのも本音なのだが、まあそこは呂布だ。しょうがない。
  しょうがない、と一言で片付けてから、高順は思った。

  悪戯なのだからそこまで過剰な反応をしなくたって良かったのではないか、と。



  ああ、でも。

  張遼という男は、こういうところがとんと不器用なのも知っていた。
  それは長い付き合いがもたらしたことであり、魏の陣営の中でも知っている人間は一握りくらいしかいないだろう。

  そしてそのある種の不器用さを、呂布はあまり理解していない。

  理解していないのだが、時折、張遼の心を酷く揺さぶる素振りをしてしまう。
  ……どちらかといえば、理解できていないからこそのものなのかもしれないが。



  それを思い出し、もう言いたいことも言えずにバカバカしくなって高順は明後日のほうを見る。



  ほぼ同時に呂布から事の次第をかいつまんで聞いた陣宮もまた、深い溜息をついていた。






  そうして不器用で、鈍感で、そのくせ騒ぎを起こしてしまう二人に、まわりは振り回されるのである。
  それは付き合いが長ければ長いほど多く、いつものこと、となってしまうので耐性も出来てしまうのだ。

  遠く、当事者を前にして陣宮と高順は、やはりほぼ同時に「どうしてくれようか」と考えていた。


  本当に、どうしてくれようか?






 <終わり>