「い、いやよ!!」

  じりじりと部屋の隅へと追い詰められる。
  前方には妖艶な笑みを顔に貼り付けた貂蝉。
  その横には優しそうではあるが絶対遵守を叩きつけるような強い気配を纏った厳氏。

 「いや、絶対にいや!」

  そんな二人に追い詰められた呂姫は首を左右に振るばかりで、抵抗らしい抵抗をする様子はない。

 「大丈夫、きっと似合いますわ。」
 「そうよ。私と貂蝉の見たてなのよ?」

  だから、ね? と笑顔でさらに前方の二人が呂姫に詰め寄った。
  さらに呂姫が後方に下がろうとするが、無情にもその背に冷たい壁の感触が跳ね返される。
  一瞬、驚いて後ろに振り返った呂姫だったが、すぐに前方に視線を戻す。
  視線を少しでも外せば、そのまま押し切られそうな気がしたからだ。

 「そ、そんなの、絶対に似合わない! 笑われるわ! 吃驚されるだろうし、きっと呆れられる…!!」
 「吃驚はされますよ。」
 「そうそう。呂姫の姿を見たらみんな見ほれて言葉も無くすだろうしね。」

  暖簾に腕押し。
  糠に釘。
  豆腐を押しても反動がない。
  そんなどこかで聞いたような単語やことわざ、ついにはついさっき自作した言葉まで頭を過ぎる。

  何を言っても勝ち目などない。

  それを察して(もう最初からわかりきっていたことなのだが)呂姫の顔が青ざめる。

 「さ、まずはその武胴着から脱ぎましょうね。」
 「そのあとはお風呂と洗髪よ。身なりは元から整えないと。」

  戦意喪失した彼女に、悪魔のように蠱惑的に微笑みながら、死刑宣告を貂蝉と厳氏が言い渡す。
  数瞬の後、後宮に常ならばけして聞くことの出来ないような呂姫の絹を引き裂くような絶叫が響き渡る。



  それを聞いていたのは、後宮の女性陣のみで彼女たちは自ら虎の穴に入るような真似はせず、何事もなかったかのようにそれをスルーしたという。






  私の精一杯の『全力』。−頑張る。頑張りたい。でも、無理なことだってある。−






  一方、その頃。

  西涼の主城。
  その中でも鍛錬場を見下ろすことが出来る軍師たち専用の櫓のなかで、張遼は眼下に広がる訓練風景を見つめていた。

 「……ふむ。さすがは全突騎馬隊だな。速さが違う。」

  まずは前方。
  紅白に分かれた全突部隊でもある騎馬兵が、馬超の合図を受けて一斉に速度を上げた。
  その速度たるや、神速将軍の名を各地に轟かせている張遼でさえも舌を巻くほどである。

 「まあな。以前の兄上殿よりもさらに速度が上がって、突撃だけで言うならお前にも引けを取らなくなった。」

  隣にいた馬超軍を指揮している賈クが張遼の発言に頷きながら納得の意を返す。
  
 「ですが、槍にも弱くなりましたな。一度刺されば即時に部隊は壊滅。」
 「ああ。槍が一本あるだけでも走らせるのには技術が伴う。」

  同じく指揮はしていないものの、今回の実施訓練を見学しに来た軍師でもある張角が髭を触りながら発言を加えた。
  その言葉に賈クは渋い顔をする。

  実際、今まさに一部隊が相手の槍部隊に思い切り突き刺さってあっけなく瓦解した。
  なんたること。
  あとであいつは説教ものだなと思いながら、賈クは静かに溜息をつく。

 「まー、いいんじゃねぇ? あれだ、騎馬とか弓ばっかりだったら強さはかわんねぇんだろ?」

  さらに賈クの隣。
  眼下の様子を眺めていた禰衡が戦局を見据えながら、何が楽しいのかはわからないがげらげらと笑い出す。

  よく見ると、言ったとおり他部隊に抑え込まれた槍部隊が一斉に突撃されて撤退する。
  
 「抑えたのはホウ徳殿か。」
 「さすがホウ徳だな。ヤツの人馬は槍に対しても牽制力がある。」

  さてここからどうするべきか、と溜息をついた賈ク。
  定石通りなら、相手の槍を封じた今、残っている部隊の全軍を上げての連続突撃が妥当だろう。

  しかし、

  一寸の不安要素が彼の脳裏を過ぎった瞬間だった。
  残っていた相手部隊が散開し、此処の部隊を抑えに入る。
  ほとんど自分から当たりに行くようなものである。実際、被害も甚大のようで兵士達の統率もままならなくなっている。

 「……ま、関係ないよなぁ。」
 「そのとおりですな。あの方がいれば、どんな英傑号令であろうと消し飛ばされるのが筋。」
 
  禰衡が予想通りで面白くないと肩を竦める。
  張角も、これ以上は見ていても無駄だと判断したのか手元の茶を新しいのに変え始めている。
  張遼は苦笑いを零した。
  
  それぞれの行動が、もう勝負は見えていると言わんばかりであった。

  そして実際。

 「ああ、走りを抑えられたんだ。そうなれば、もう馬超の号令も切れる頃。
  あとはもう、あいつの計略の餌食にされるだけ。」

  賈クは欠伸が出るような思いで言った。

  直後。
  鍛錬場に轟音が響き渡る。

  地を抉るような音と同時に、その震源地近くにいた兵士達が吹き飛ばされ、馬たちの恐怖のあまり恐慌状態に陥って甲高い悲鳴を上げる。

 「やはり妨害くらい入れておくべきだった。」

  そう言い捨てて、賈クは持っていた扇子を閉じる。
  眼下。
  そこに計略を発動させ、戦場を縦横無尽に暴れ回る赤兎の姿があった。

  その背に乗り、巨大な方天画戟を操る呂布の姿など、小さくなろうともわからないはずはない。

 「今回は私の負けか。」
 「ぎゃっはっは、ま、呂布の野郎を指揮してる陳宮が勝ちを譲るわけねぇもんなぁ。」
 「然り。」

  横のほうで禰衡が言い放ち、頷く張角を知らないふりを決め込む賈ク。
  張遼はそれを見てから、後方。
  相手方の陣地へと視線を滑らせる。

  遠く、訓練場を挟んで建てられた櫓の上に、小さく陳宮の姿がある。
  呂布軍を指揮していた彼は興奮気味の様子で、戦場に何やら檄を飛ばしている。

  訓練とはいえ、久々に呂布率いる軍を指揮できるのが嬉しいのだろう。

  もう戦闘は終わりに近いが、興奮冷めやらぬと言った感じだ。
  微笑ましい気分になって張遼が笑みを零す。

  今回の訓練の勝者は、時間切れにならずともわかりきったこと。







  訓練が終わったあと、張遼は櫓から降りて来た。
  実戦ではないとはいえ、片や全突。
  片や天下無双である。
  兵士達はそれなりに生傷を作っている様子だった。それは軍師達の指示により、手早く処置が施されている。

  その中を掻き分けるようにして進んでいく。

  すると、視界の先。
  馴染みの武将達に囲まれている呂布の姿をようやく見つけることが出来た。

  近づいていくと会話の内容が所々、聞こえてくる。
  程遠志が撤退してすんません、と呂布に頭を下げている。
  その肩を叩きながら裴元紹が、気にすんなってと慰めていた。
  あの迎撃がなければこちらが危なかったと、于吉が笑いながら補足する。
  そうだよ、気にしちゃ駄目だよ! と、幼い容貌の鄒がさらに程遠志を慰めた。
  
  それぞれが声を掛け合っているのを見ながらさらに近づき、そして口を開ける。

 「呂布殿。」

  声をかけると話の中心にいた呂布が張遼へと振り返る。
  張梁の肩の上に乗って、一度大きく瞬きをしてから、文遠カ? と驚いたように答えた。

 「あれ、張遼さん?」
 「なんでこっちにいるんです。」
 「いや、さっきまで訓練を見ていたのだ。」

  張遼が彼らの疑問に答えると、納得したように彼らは頷く。
  
 「しかし見事な展開だった。」
 「ほっほ。まあこちらの呂布殿ではないが、我らは元々『天下無双』と共にあったからな。慣れたものじゃて。」

  于吉が言うのはこの西涼にいる蒼天と本宮のことだろう。
  彼らもまた、呂布と同じ計略使いであるのだから、試合展開など心得たもののはずだ。

 「だが、反省点はある。程遠志、ちょっと向こうで説教だ。」
 「げ!」

  黙って彼らの会話を聞いていた張梁がそう言うと、今回はお咎めなしかと思っていた程遠志があからさまな声を上げる。
  張梁は肩の上にいた呂布を何も言わずに張遼へと差し出すと、そのまま裴元紹へと手を伸ばす。
  その首根っこ……は、なかったので、体に巻き付いていた皮を引っ張り、張梁がそのまま引きずるようにして向こうのほうへと連れて行った。
  連れて行く先は勿論、陳宮のところである。

  もっと乱戦しないように気をつけろときついお灸を据えられることになるだろう。
  それがわかっていたのか、うめき声とともに引きずられていく程遠志を横目に、鄒と于吉、それに裴元紹がでは我々もお小言を貰いに行こうかと歩き出していった。

  まあ、呼びつけられるよりも自主的に向かっていったほうが怒られる密度は低くなるかもしれない。
  それに、邪魔はしたくないのだ。
  それはその場にいた全員がわかっていたことだった。

  張遼と、その彼に押しつけられた呂布の二人である。

  邪魔などしていたら馬に蹴られるというもの。
  歩き去っていく彼らの背を見送り、張遼はしばらく呆然としていたがやがて、プッと小さく吹き出した。

  何ガオカシイ?

 「ああ、いえ、なんでも。」

  それでもくすくすと小さく笑う声は止められない。
  呂布が不満そうに眉を寄せる。

 「いえ。彼らはやはり彼らだと思いまして。」

  ? 意味ガワカラン。

 「離れていても、あなたとともに軍を動かしていたことはあるということです。」

  その言い回しが答えになっているはずなのだが、呂布は益々わけがわからずに首を傾げるばかりだ。
  首を傾げる呂布の頭を一度だけ撫でる。

  つまり、彼らは呂布への信頼があついということを伝えたかったのだが、言葉で伝えたところで意味などないだろう。
  こういうことは自分で気付かなければと思ったゆえに張遼の手であった。

  呂布の不満は収まるどころか増幅していたのだが、張遼がそれ以上、言う気がないのだということを察して不機嫌そうにそっぽを向いてしまう。

 「そう怒らないでください。」

  オ前ガ難シイコトヲ言ウカラダロウ。

 「難しいことでもないのですが……私が今言いたいことは、呂布殿ご自身でお気づきにならなければ意味がないのです。」

  ……ヨクワカラ。

 「それも必要なことです。」

  促すようにして頷くと、呂布はしばらく無言で眉間に皺を寄せていたが諦めたように息を吐いた。
  
  必要ナノダナ。

 「はい。」

  ナラ、言ワナクテイイ。

  そう言われて、張遼は、はいと答える。
 
 「そういえば、訓練を終えたばかりでしたね。水でも貰いに行きますか。」

  話題を変えようと張遼がそう言うと、呂布もやっと体を動かした後、特有の喉の渇きを思い出したらしい。
  喉を手で触り、顔を上げる。

  イル。

 「では水と……あとは何か腹に足すものを、」

  と、言いかけたところで、張遼は背後に誰かの気配を感じた。
  先ほどまで呂布の様子に気を向けていたので気付かなかったらしい。
  ここは西涼の地、敵なわけはないのだが、こうも近づかれて気付かないのは気が緩んでいた証拠なのかもしれない。
  張遼に抱かれていた呂布も、張遼が感じた気配を察知したようで、ピクリと眉を動かして視線を滑らせる。

  張遼が振り返る。

  そして、唖然とした。
  思わず目を丸くしてしまい、半ば半開きの口を閉じることも忘れてしまう。
  それは呂布も同じだったらしく、彼も無言で自分の視界に映っている光景を見つめていた。

  彼らの視線の先。

 「……お、お父様。」

  その声には聞き覚えがある。

  母である厳氏から受け継いだ銀の髪が、さらさらと風に揺れている。
  呂布の娘である呂姫だ。

  しかし、その装いはいつもの苛烈とも言える武道着とはまったく違っていた。
  まず髪型が違う。
  いつもの結い上げではなく、どこかの姫のように髪飾りをつけ、大きな花までさしている。
  顔もどことなく趣が違った。さしている紅は違う色のもので、うっすらと桃色。
  顔全体にも化粧を施され、まさに美姫と言って差し支えがなかった。

  服装も違う。
  豪奢とは言わないものの、細かい刺繍が施された衣装を身に纏っている。
  色は黒と赤を基調にしているが、けして下品ではない色遣いが施されている。
  頭の先から装いまで、完璧だった。

  どんな男も放っておかないような美姫が佇んでいるのである。

  張遼と呂布の衝撃は計り知れないものであろう。
  だが呂姫は、そんな二人の様子を呆れと取ったのか、顔を赤くさせたまま失望したように顔を俯かせる。

 「や、やっぱり、変よね。あたしなんかが、こんな恰好なんて……」

  しょんぼりと項垂れた呂姫に、いつもの苛烈さはない。

  
  話は先のことにまで遡る。
  董白によって呂布が連れ去られ、あまつ、誤解を満足に解けないまま(一応、呂布は自分が嫌われていないことを察していたのだが)馬超に邪魔された呂姫は落ち込んでいた。
  このままでは呂布に避けられてしまう。
  それどころか、嫌われてしまったらどうしよう、と。
  もし嫌われてしまったら絶望するしかない。
  二度と側に寄らせてもらえない。妹たちに優しくしている姿を、見つめるだけになるのかも……

  そうやって落ち込んでいた呂姫を見つけたのは、彼女の母親である厳氏だ。
  何かあったのか話を聞いた厳氏は、溜息をつくしかなかった。

  呂布がこのこを嫌いになんてなるわけない。
  それに誤解ならきっと解けている。
  気付かないのはこのこが呂布の娘たる所以なのか、とも思った。

  そしてどうにかこの状態を打開しようかと思いついたのが、『もうちょっと娘らしい恰好をしなさい』という提案だったのだ。
  着ているのは特別製の武胴着。
  確かに女性用にはなっているが無骨さは隠しきれない。
  それにこれを着ているから余計につんけんしてしまうのではないか。

  厳氏はそう言い、いつもと違う恰好すれば心次第も変わるはずだと娘を説き伏せた。

  呂姫も始めは抵抗していたものの、呂布に嫌われるのではないかという思いもあってか、ワラにも縋りたい思いでその申し出を最後には受け入れた。
  それを聞いた厳氏は、さっそく貂蝉にも手伝ってもらい、先のようなすったもんだの大捕物……呂姫の悪あがきとも言う……の末、娘を今の完璧な装いに仕立て上げたのである。

  今の呂姫は、どこの名家を相手にしても恥ずかしくないほどの美姫である。
  呉の周姫。魏の曹皇后。蜀の劉備の夫人方を相手にしてもけして見劣りしないだろうと太鼓判さえ押した。

  そして送り出した。
  
  大丈夫、きっと呂布は喜んでくれるはず。
  今からなら訓練が終わったあとだから差し入れがてらいってらっしゃいな。

  
  そして今に至る。

  呂姫はしょんぼりしてしまう。
  自分がこんな恰好をして、お前は俺の娘か、と呂布があきれかえっているのだと思ったからである。

  武神の娘がこんなことを、と思い、鼻の奥がツンとなった。
  引き攣るような感触がして、今まで感じたことのない衝動が胸を締め付ける。
  だが、それでもせめて、

 「…これ……」

  せめて、これだけは、と呂姫は下げていた籠を差し出す。
  中には水の入った竹の水筒。それに竹の葉で包んだ握り飯が入っていた。
  
 「訓練で疲れただろうから…差し入れ、なんだけど……」

  もごもごと、いつもの苛烈さがない呂姫の様子に、ようやく張遼が我に返る。
  どうやら彼女は自分たちの衝撃を悪いほうに受け止めてしまったらしい。
  なんとか弁解しなければと口を開きかけたところで、張遼は自分の腕に軽い衝動があったことに気がついた。

  小さな手が数回、腕を叩いている。

  視線を落とすと、呂布の頭が見えた。
  呂布は張遼のほうは見ていない。俯いている呂姫をジッと見つめている。

  張遼は合点した。
  
 「呂姫殿。」

  呼びかける。
  ぴくり、と呂姫の肩が揺れて、ゆっくりと顔を上げていく。
  その顔が、叱られた時の幼い彼女の顔とだぶって見えてしまい、張遼は苦笑いを浮かべながら呂布を彼女の腕へと差し出す。

  え? と呂姫の目が丸くなる。
  驚きに思考が追いついていないことを良いことに、張遼は呂姫の持っていた籠を手に取り、変わりに空いて胸元に呂布を押しつけた。

  ムギ。

  うめき声が聞こえたがこの際、我慢してもらわなければ。
  押しつけると、ほとんど反射的に呂姫が呂布を抱きかかえていた。

  困惑して顔を呂布や張遼のほうへしきりに動かしている彼女を後目に、張遼は持った籠の中から水筒のひとつと、握り飯を取り出す。

 「いただいていきます。」
 「え……ちょ、ちょうりょ…?」
 「あとはお二人でどうぞ。呂布殿、私は陳宮殿にお二人で休まれるのをお伝えしておきます。」

  ム。

  呂姫の思考が戻るよりも早く、主従の間で察せられたとおりの会話が交わされる。
  張遼は籠を呂布のほうへと差し出し、彼が手に取ったのを見届けたあと、さっさと踵を返して歩き出した。

  先ほどの于吉たちではないが、邪魔をするのは野暮、というものである。

  そのくらい張遼にだってわかる。
  わかって、小さく唇に笑みを昇らせた。





  姫。

 「な、なに、お父様?」

  それに、先に彼女に伝えるべきことを自分が言ってしまってはいけない。
  それも張遼は心得ている。

  衝撃を受けたままの呂姫が呂布に名を呼ばれて視線を落とすと、腕の中の彼の人がこちらを見上げていた。

  似合ッテイルゾ。

 「…………っ!」

  そして何の衒いもない称賛を受けた。
  短いが故の、真っ直ぐな言葉。
  声を無くし、顔を真っ赤にさせる呂姫を見て、呂布は目を細めた。

  悪カッタナ。スグニ言ッテヤレナクテ。

  腕を滑る、小さな掌。懐かしい体温。暖かさ。
  呂布の謝罪に、呂姫はしばらく言葉もなく見つめていたのだが、やがて小さく首を横に振った。

 「いいの。」

  唇が自然と持ち上がる。
  腕のなかの呂布を抱きしめて、呂姫は顔を彼の頭に埋めた。
  
  姫?

  呼ぶ声がすぐ近くで聞こえる。

 「いいのよ。」

  匂いがする。
  声が、呼んでいる。

 「いいの、お父様。」

  ありがとう、と呂姫はそう言って呂布に見えないように微笑んだ。




  
  抱きしめたままなのは、今、自分の顔を見たら呂布が驚いてしまうからという呂姫の心遣いでもあった。

  悲しいからじゃない。
  嬉しくても涙は出るのに、このひとはきっと、自分が泣かせたと思いこんでしまうだろうから。




 −つづく−