夕陽に暮れる海原を眺めていた。
寄せては返す波の音。
打ち返す水音は一定の間隔で刻まれ、聞こえてくるのは風と波だけ。
息をする度に鼻腔に潮の香りが広がっている。
広い野原、血生臭い戦場、険しい山道。いくつもの場所を主人とともに駆け抜けてきた赤兎であったが、海の風景というのはあまりない。
しかも、こんな風に自身は腹を地に着け、主人がもたれ掛かったといったような穏やかな時間というのさえ珍しい。
呂布は、黙って海原の地平線に沈んでいく赤い夕陽を見つめていた。
その横顔はあくまでも静かで、穏やかだ。
赤兎がその横顔を眼で見て、小さく嘶く。
すると主人が夕陽から視線を移し、赤兎のほうを見つめて小さく首を傾げた。
「どうした、赤兎。」
暇か、と問われてながら鬣に手櫛を入れられる。
ゆったりと鬣を梳かれて赤兎は気持ちよさそうに目を細めた。
違う。
いや、違わないのかもしれない。
暇だった。
何もせず、ただぼんやりと一人と一匹…いや、ふたりが揃って、何の言葉もなくこうして時間を無為に過ごしている。
時間を押し潰す。
木の実でも潰すかのように、指の腹で一つずつ。
それはとても無意味であろう。だが、この時間を無意味だとは、赤兎は思わない。
時間の使い方は色々とある。
長い命の時間(あるいは、またたきの間であろうと言うものもいるかもしれないが)。
その中でこんな風に命の砂時計を使うのは、けして無意味などではないはずだ。
あってもいいのだ。
それに赤兎は、戦場で主人であるこの男と駆けめぐるのも好きだったが、こうしてふたりきり、のんびりと過ごすのも気に入っていた。
何より、今は赤兎が主人を独占状態だ。
ひとつ甘えるように嘶きながら、鼻先を呂布へとこすりつける。
呂布がくすぐったそうに喉の奥を鳴らして、また鬣を指で梳いてくれた。
最近、呂布は大人気だった。
いや、元々、呂布軍の人々には程度の違いや種類はあるが好かれているのが彼だ。
孤高の魂。高潔な生き様。
その呂布に惹かれるものだって、少なくはない。
なのに最近、その人数がとみに増えている。
呂布軍へと招かれた客人たちがそうだ(ある程度、押しかけてきた面々もいるのだが)。
先の戦を終わらせた前田慶次や本田忠勝。
彼らは武という接点もあってか、呂布の本質に近いものを持っている。
人好きがしやすく、ひとたらしの異名を持つ秀吉にも匹敵するような自由奔放で、それでいて人を惹きつけてやまない慶次は、その持ち前の気安さで呂布の周囲にずかずかと入ってくる。
忠勝は自分の武に匹敵する好敵手という存在に、武人として心躍るものを感じているらしい。
慶次ほどではないが、忠勝が彼らの輪に入っている姿を赤兎は幾度も見かけている。
政宗、関平、それにガラシャもそうだった。
政宗は元々、遠呂智軍で呂布とともにいたこともあってか発言に遠慮がない。
目の前で呂布と舌戦を繰り広げ、馬鹿め! と怒鳴りつけたことだってあった。
それを始めて聞いた陳宮は、あまりの衝撃に意識を失ったらしいが今は慣れたもので、二人の口げんかにあきれ顔で溜息をつけるまでになっている。それでも二人の仲はあくまでも良好だ。
そんな政宗と仲の良い関平も、最初はおっかなびっくりで、しかし今ではすっかり呂布にも持ち前の真摯さで向き合っている。
ガラシャは「わらわは呂布殿の大ふぁんじゃ!」と言って飛び込んでくることもあった。
少々複雑な間柄もある。
義経がその筆頭であろう。
彼は、元々は呉の孫堅達のところにいたのだが、戦の折に呂布の武に見入られたようで、争乱が終わってしばらくしてから呂布軍へとたった一人で赴いてきたような人物だった。
彼の思いは、呂布の武という面だけではないようで、赤兎はこっそり溜息をつく。
「赤兎?」
不思議そうに問われて赤兎が意識の海から我に返ると、呂布が自分を見つめていた。
「どうした。やはりもっと遠くまで駆けていたほうが良かったか。」
そうではない。
伝えようとして赤兎はまた鼻先を呂布へとこすりつける。
はたしてその思いは呂布に伝わったようで、彼は、そうかと呟いてまた視線を夕陽へと戻した。
呂布は、まだ気付いていない。
自分が人々に好かれているという実感がない。
向けられている思いにも、鈍感な節がある。
董卓に贈られてから呂布の元にいるようになった赤兎は昔のことはあまり聞かないし、呂布自身も語るようなことはないのだが、彼の半生は好意というモノに関して不遇なものであったらしい。
好意、好かれているということ。
悪意や殺意には敏感に察する呂布であったが、その反面、そういった感情に疎いところがあった。
慣れていないのかもしれない。
向けられる感情を受け入れてはいるものの、隠されたものには気付くことはない。
だからこそ義経の、あの全身でぶつかってくる想いの底を知らない。
あるいは古参である張遼のことも、知らない。
それがいいのか悪いのか、赤兎にはよくわからない。
ただ、そう言った事情を差し引いても、最近の呂布は大人気だ。
常に誰かが側にいて、赤兎が蚊帳の外に置かれてしまうことだってある。
そのことに嫉妬するわけではない。
呂布が誰かに好かれているというのは赤兎にとっては喜ばしいことなのだ。
だが、だがしかし。
しかし、限度、というものもある。
赤兎だって、呂布のことを好いている。
唯一無二のこの魂の持ち主を、たったひとりのあるじ、と心に決めているくらいには、赤兎は呂布に心酔している。
だから、あまりにも持っていかれてしまうのは心に寂しいものを連れてくるのだ。
「今日は随分と甘えたじゃないか。」
喉の奥で笑いながらも、その表情も指も優しい。
穏やかなその面影を見るだけで赤兎の心は満たされる。
呂布が今、『満たされている』のだと実感出来るからだ。
不意に、赤兎は思い出す。
あの寂しくて、それでいて全身から拒絶しそうなほど強烈な魂の持ち主でった、遠呂智の存在を。
遠呂智は、もういない。
この世界を作った主である遠呂智は、呂布の手によって滅びのときを迎えたからだ。
あの戦いを赤兎は一番近くで見ていた。
松風も慶次の側にいたのだが、遠呂智と一騎討ちを果たした呂布の側にいたのは自分であり、彼の魔王が倒れたその瞬間にも立ち会っているのだから。
あのときのことは、今でも心の奥に仕舞われている。
さらさらと『存在』から崩れていく遠呂智を、満身創痍でありながらも呂布は黙って見ていた。
遠呂智もまた、滅びを受け入れたいた。
『………奉先。』
そして最後の最後。
穏やかに、遠呂智が呂布の名を口にした。
他には何も言っていないのに、その名だけで全ての感情を込められたような、重く、そして胸を締め付けるような声だった。
呂布もそれに気付いていた。
ぴくり、と唇が動く。
だが、それ以上は動かなかった。
ただ、視線が交わされる。
永遠で、刹那の、そのとき。
『………………』
一声、だった。
呂布は遠呂智に応えた。
その声は、その言葉は、
『…もう、いいのか?』
生涯、赤兎は忘れることは出来ないだろう。
やさしい、今まで聞いたこともないような、呂布のやさしい声だったから。
それを聞いた遠呂智は、唇を緩やかに持ち上げ、そのまま二度と動かなかった。
さらさらと崩れて、消えて、宙へと消えていってしまった。
呂布はそれを黙ってみていた。
多くの歓声を背後にして、消えた遠呂智をずっと見つめていた。
かなしくはない。
かなしいとは全然の別のものだ。
呂布は、遠呂智に満たされていたから。
だからこそ、今の姿があるのかもしれない。
そう思いながら、赤兎も暮れる世界へと視線を移した。
太陽はもう、地平線へと消えかけていた。
暮れる、世界。
昼の世界が終わりを告げ、夜の闇がやってくる。
呂布はそれを見ている。
あの時のように。
そう思って、赤兎はああ、と気がついた。
気がついて、少しだけ妬けた。
嫉妬はしないと、そう思ったはずだったのだが、やはり少しだけ妬けてしまうのはしょうがない。
呂布は今、遠呂智とともにいるのだと。
暮れる世界に、彼の存在を思い浮かべているのだ、気がついてしまった。
気がついた。
けれどそれは、遠き日の思い出に心を寄せるようなもの。
かなしみを、呂布につれてくることはない。
ただ、思い出しているだけだ。
そう思い、赤兎もまた、あの孤独な魂の持ち主へと思いを馳せる。
静かに、ただ、静かに夜が完全にやってくるまでふたりはそうして海原を見つめたまま、動くことはなかった。
死は、二度来ると赤兎は聞いたことがある。
一度目は、肉体の死。
鼓動が止まり、そして二度と動かなくなったとき、一度目の死が訪れる。
二度目は、魂の死。
人々の心や思い出から忘れ去られたとき、二度目の死が訪れる。
遠呂智はまだ、『ここ』にいるのだろう。
だからかなしくはないのだ。
ここにいるのだから、かなしいと思うのは筋違いであるのだから。
本当にかなしいのは、
かなしいとも思わなくなったその瞬間だからだ。
赤兎は瞼を閉じる。
ただ、少しだけさびしいと思うのは、
くれない世界へ、あなたとともに。
−おわり−