夜は暗闇だけではない。
闇と静寂が支配する。それこそが夜の本質のひとつだ。
だが、夜はそれだけではない。
夜にも、光はある。
それは朝や昼のように降り注ぐ陽の光ではなく、淡く照らす月の光だ。
まるで指先で肌を撫でるような柔らかい光。
柔らかいが故に弱く、昼間ほどあたりを照らせるわけではない。
それでも夜の光はまるで見守るように、そして包み込むようにすべてを灯す。
闇の中にいて、それを忘れていたのかもしれない。
夜は闇だけではない。
深く鬱蒼とした森に閉ざされ、失念していた。今日は月の光はないものと、思っていた。
しかし月は忘れた頃に、気まぐれように指先を差し伸べてきた。
月の指先が辿る先に仄かに灯る光。
闇に慣れた目に、その光は鮮やかで鮮烈だった。
呂布は眼を開ける。
誘われるように、灯した光に両の瞼を思わず開けてしまっていた。
途端、瞼の裏にいた張遼の幻影は霞のように消え去った。
かわりに、朧気な眼の中に鳶色の姿が飛び込んでくる。
夢の続きを見ているのかと思った。
出過ぎた夢の続きが、未だここで続いているのかと思った。
夢の続きであるはずの張遼は微笑んでいなかった。
笑って欲しいなどと思ったのは、さびしい心が見せた弱みだったのかもしれない。
驚愕の顔をした張遼は、薄い唇を開いていく。
「……奉先殿っ!」
その声は、確かに呂布の鼓膜を辿った。
同時に今、そこにいる張遼が『現実』であることを知った呂布は何故、と眼を瞬かせた。
張遼もまた、深い森の闇の中で照らされた月の光に誘われるようにしてやって来たのだ。
赤兎に促された先へと進んだが、思う姿を見つけることが出来ない。
呼べば気付くかも知れないが、気付かれれば逃げられる可能性もあった。
だからただ黙って探していたのだが、どこまで進んでも続く森に焦燥感を募らせていたところだったのだ。
そこで、顔を上げた時だった。
月の光が灯った。
今まで暗闇だった森の中が、月の淡い光に照らされていく。
それはいっそ、幻想的な風景だった。
鬱蒼とした森が、静謐に。
静かであるのに、どこかその光に安堵するような心持ちがしたのだ。
ふらりとその光に誘われるようにして歩き出し、茂みを抜けた先。
張遼はついに、探し人を見つけることが出来た。
樹によりかかっている小さな姿。
それを見つけ、名を呼ぶと急いでその側へと駆け寄った。
近づけば寄りかかっているというより、ぐったりとしているのが見て取れた。
戦場でもこんなに消耗した姿を見たことがない張遼は慌ててその場に座り込む。
「奉先殿…!」
……文遠?
問いかけは、いっそ弱々しかった。
まるで言ってもいいのか、呼んでも良いのかと問うように小さく紡がれる自分の名前。
叩き落とした手は、この人をここまで苦しめていたのかと張遼はグッと奥歯を噛みしめる。
だが、自分の名を呼んだその声に張遼はゆっくりと頷いた。
「はい。私です……どこか、具合がお悪いのですか?」
ぐったりとして動かない呂布に、張遼は気遣わしげに手を差し出す。
その手が、ぺしり、と叩かれた。
叩いたのは呂布の手だった。
その衝撃の弱さに張遼は驚いたが、拒絶されたという事実のほうが張遼の心に重くのしかかる。
…何ヲシニキタ…
人の痛みを自分に置き換えること出来ない。
どんな痛みでも、人と自分では感じる痛み方がまるで違うからだ。
しかし、拒絶されるという痛みを張遼は知った。
胸に刃を突き立てられたような気分だった。
そして自分はこんなに酷いことをしていたのかと悟る。
痛む胸をそれでも無視して、張遼は口を開いた。
「…責ならばいくらでも受けます。あの時の私はどうかしていました。
あなたに……あのような、ことを言うなどと…」
イイ。
「奉先殿。」
言葉はしかし、拒絶だった。
いい、というのは何も言わなくていいということ。
容認ではなく、拒絶の意味合いを持って響く言葉に張遼は必死に訴える。
「都合の良いということも、自分勝手ということも全部、全部、わかっています…!
ですが、奉先殿。どうか、私の話を聞いてください…!」
イイ。
「奉先殿っ!」
イイ。俺ガソウ言ッテイル。謝罪ハイラナイ。ココカラ去レ。
訴えは届かない。
呂布はもうとりつくしまもないような状況だった。
去れ、の一点張りの呂布の言い方に張遼はどうしようもない焦燥感とともに、苛立ちを覚える。
苛立ちなどと甚だ筋違いだということは百も承知だった。
だがここまで言葉を受け入れてもらえないことに張遼は言いようのない感情を覚える。
「奉先殿、私の話を…!」
聞いてください、という言葉は声にならなかった。
思わず呂布の手を掴もうと出した張遼の右手。
その右手が、指先から一気に消えて無くなった。
音もなく、指先から掌、手首に至るまでが忽然と消えて無くなったのだ。
掴もうとした指先が無くなったことで宙をきる自分の右手……それがないが……があった場所を、張遼は愕然として見つめる。
呂布は言葉もなかった。
ただ、まるでそれが最初から知っていたかのように静かな眼で見ていただけだった。
消えた手に驚いて体を引く。
すると数秒後には掌が何事もなかったかのようにスゥッと元の場所に現れた。
確かめるように指先を何度も動かす。
感触を確かめながら、早鐘のように打ちつける胸のなかを張遼は聞いていた。
………ワカッタダロウ。
そうして落ち着いたところを見計らってか、呂布が静かに口を開けた。
何がわかったというのかと張遼が右手から視線を離すと、呂布はその言葉と同じように静かな顔をしている。
すべてをわかっている。
そんな顔だった。
俺ノ側ニイレバ、手ト言ワズ全部ガ消エルゾ。
こともなげに、そう言い切った。
それはつまり、呂布が今、張遼の身に起こったことを知っていると発言したも同じ意味だった。
驚愕し、目を見開く張遼を見て、呂布は瞼を緩やかに下げていく。
……忘レロ、文遠。
声は、穏やかさも含んでいた。
気遣うような、不器用で素っ気ない、けれど混じりけのない穏やかで告げられる言葉だ。
存在が丸ごと消される。
そのような状況に陥って冷静でいられるほど人は強くはない。
死ぬのではない。
存在が、消えてなくなる。それは未知なる恐怖である。
武人ならば死も受け入れられよう。それを覚悟しているのであれば受け入れも出来るだろう。
しかし、未知なる恐怖はまったく別問題だ。
それは生物の根幹を揺るがす異常事態である。
逃げたい、と思うはずだ。
逃げたいと願うのが普通だ。
最初は呂布もそう思っていた。すぐに諦めたのはこれが逃れられないと解ったが故に出来た覚悟であるのだ。
張遼は違う。
彼は逃げられる立場にいる。
ならば逃げるのが生物の本能であろう。それを呂布も咎める気はない。
何よりも、一目でも張遼に会えたことのほうが余程、呂布の心を慰めていた。
無くしたはずの記憶をどうやって取り戻したのかはわからない。
だが、その記憶もすぐになくなるはずだ。
自分が消えてなくなれば、そこですべてが終わるのだ。
張遼は何も知らぬまま(無くしたまま)日々を過ごしていくだろう。
そこに痛みはなく。過去の記憶への後悔も、恨みも、何もなくなるはずだ。
その根源たる自分が消えるのだから当たり前なのだが。呂布は思わず唇を歪めて笑う。
もう一度、名を呼んでくれた。
それは虚実でも、記憶でもない。本物の張遼の声だった。
ああ、やはりそれはこんなにも心を暖かく灯す。
痛みに悲鳴を上げ、血を流し続けていた胸の奥は、それだけですべてが鎮まった。
げんきんな話だ。
でも、それだけでもう十分だ。
十分だと、呂布は思う。心の底からそう思っていたので、他に何を望むのかと問われても彼は不思議な顔をして首を横に振るだろう。
「…………奉先殿。」
十分。
それだけで、他に望むものは何もない。
瞼を閉じた呂布は去っていくであろう張遼の気配を辿る。
見えなくても暖かいものだった。
緩やかに紡がれる声が、心地よかった。
動かない呂布に、張遼は腕を伸ばした。
伸ばした先から手が消えるのならば、腕ごと、と呂布を抱き上げ、胸の内に抱きしめる。
その思っても居なかった衝撃に、呂布は眼を開けた。
自分が何をされているのかわからず、だがくるまれている腕は真実、張遼のものであることがわかった。
張遼は抱きしめた小さな身体に、言いようのない懐かしさを覚えた。
昨夜。
ついこの前、抱きしめたはずのその身体は相変わらず温かくて、小さい。
子供のように小さい。
それなのに、胸をついて出てくるのは途方もないくらいのいとおしさ、ただそれだけだった。
何ヲシテイル…!
「はい。」
何ヲシテイルノカト聞イテイルノダ!
衝撃から戻ってきたのだろう。
怒ったように声を上げ、必死に身じろぎをして腕の中から出ようとする呂布に、しかし張遼は腕の力を解こうとしない。
ぐぃぐいと押し返される腕は、その小ささからは信じられないような力だったのだが張遼とて一介の武将である。
神速将軍を欲しいままにその両の肩に無為に携えているわけではない。
びくともしない張遼に、呂布は叫ぶように声を荒げた。
解ッテイルノカ!
「解っています。」
違ウ! オ前ハ解ッテイナイ!
「解っています。」
消エルノダゾ! 存在ガ、魂ガ、人ノ記憶カラッ、全テガ! 最初カラ何モナカッタヨウニ消エルノダ!
荒げる声は叩きつけるようであるのに、張遼はそれをどこか別のもののように聞いていた。
そしてふと、思う。
オ前ハ、何モ解ッテイナイッ…!!
ああ、まるで。
「良いんです。」
まるで、泣いているようだ。
一言で張遼は呂布の言葉を遮った。
その言葉を聞いた呂布の体が大きく揺らぎ、荒げる声もまた途切れる。
それを感じながら張遼は静かに口を開いた。
「いつか、私は言ったはずです。奉先殿、私はあなたとともにいたいと。」
思い出すのは、あの目も眩むような雪原の大地。
消えていく記憶のなか、それでも胸にあるのは懐かしくも遠い、あの雪の景色。
そして呂布と交わした、約束の言葉だ。
「共に、」
一度は裏切られた約束だった。
かつて、あの雪の戦いのなかで、交わされたはずの二人の約束は呂布の手によって破られることになった。
彼は張遼をひとり遺して、死んだ。
張遼を死なせないように細工までして、彼に何も語らず、そのまま戦場に消えた。
「あなたは言ってくださったではないですか。私を連れていく、と。その約束、忘れたとは言わせませんよ。」
その裏切りは張遼の心に深い傷を残した。
穿った穴は広く、暗く、新たに主人と仲間を得て、幾たびの戦場を越えても埋まることはなかった。
その穿った穴こそが、張遼を孤独にした。
「私はあなたほど優しいいきものではありません。あなたが望むことを、私は叶えることが出来ません。私自身の願いのために。」
けれど。
張遼は抱きしめていた呂布の体をそっと離す。
おとなしくなった呂布の顔を覗き込むと、澄み切った漆黒の瞳がこちらを見つめていた。
相変わらず魂の奥底まで覗き込むような眼だった。
それなのに、呂布は張遼の心を察してくれない。
「それに、あの約束はあなたも少しは望んでくれたはずでしょう?」
ならば、言葉にするだけだ。
伝わらないのなら、声にして伝える。
思ったところで万の想いは伝わらない。ひとつの声、それだけが相手に全てを伝えるために必要なこと。
見上げてくる大きな瞳を覗き込みながら、張遼は目の前の額にこつん、と自分の額を当てた。
そこから伝わってくるのは、仄かな暖かさ。
「私を、共に。」
そして改めて思い知る。
自分はもう、このひとを無くして生きてはいけない。
あの時はかろうじて生き残った。
いや、生き残れ、と酷い裏切りをした上に、無言でそれをつきつけた呂布の願いによって無理矢理に生きていただけだった。
それは諦めと打算の上に奇跡的に出来たもの。
もう呂布はいないのだという絶望と、ならば残された約束だけはと思いしがみつくように意地で出来ただけ。
だが、もう無理だ。
自分は、知ってしまった。
思い出してしまった。
無くしたはずのその場所を。
封じ込めていたはずの呂布への想いのすべてを、自分はまた手に入れてしまった。
そして呂布はそれに応えてくれる。
だったらもう、これを捨て去ることも忘れることも出来ない。
その想いさえ無くしてしまうのだからいいだろう、とか。
無くしてしまうのだから意味がないだろう、とか。そんな言葉は切り捨ててしまえばいい。
今、この瞬間こそが自分にとってすべてだ。
あの時のように、後悔して生きたくはない。
そんな生き方はまっぴらだった。
何よりも、
「何を遠慮しているのです。私がいい、と言っているんです。
そうしたらもう誰も、たとえどんな高見の人物だろうと、私をあなたから取り上げたりはしませんよ。」
何よりも、さみしいだけのこのひとを、失いたくはなかった。
その瞬間だった。
覗き込んでいた漆黒の瞳が、ぶわっと雫を盛り上げた。
潤み、またたくまに盛り上がった雫がぽろぽろと溢れ落ちていく。
始めてみた、呂布の涙だった。
雫は止まることはなく、あとからあとから溢れ出して止まらない。
大きく見開かれた眼からこぼれ落ちるそれを見ながら張遼は驚きとともに言葉をなくし、それからふわり、と優しく微笑んだ。
固まった表情から、湧き出るように溢れる涙の雫をこぼす目元に唇を寄せる。
雫を掬うとしょっぱくて張遼はこれが真実、呂布の涙なのだと改めて思った。
口づけを幾度か繰り返し、それから視線を感じて顔を離すと、ようやく我に返った呂布と視線がかち合った。
その瞳の奥にまだ僅かに浮かぶ疑問と疑念の言葉を見ることが出来る。
いいのだろうか?
本当にいいのだろうか、と声なき声がそう問いかけて、迷いを見せている。
張遼は安心させるように微笑みを浮かべたまま今度こそ呂布の唇に口づけを落とした。
「いいんですよ。」
触れるだけの口づけを離し、至近距離で笑いながらそう告げると呂布は顔全体をくしゃりと歪ませて不器用に笑う。
それが了承だと受け取り、張遼はもう一度、呂布を胸のうちに抱きしめた。
それから、
それから長いようで短い間、張遼と呂布はとりとめもない話をしていた。
いつものように頭の上ではあなたの顔が見えないです、と張遼が文句を言ったので、呂布は彼の膝の上に座り背を預けてもたれ掛かっている。
話したのはどうということはない。昔のことばかりだった。
張遼が無くしてしまったこともあったので、呂布が主に言葉を落とす。張遼はそれに頷いて応える。
喋ることが得意とは言えない呂布はとりとめもなく、それも途切れがちに様々なことを話す。
たまに張遼が覚えていることなら話を付け加えることもあったが、大抵は笑いながら聞いているだけだった。
ぽつり、ぽつり。
夜は相変わらず静かなままで、時折風に揺れる木々の音しか聞こえない。
月はその光を地上に降り注ぎながら、けれど黙して語らず、何の音もたてたりしない。
だが、やがて、呂布の呼吸が荒くなる。
言葉が途切れてしまったところで、張遼が視線を落とすと呂布の半身が今にも消えかかっていた。
肺が消えているのかもしれない。
もういいですよ、と静かに告げると呂布が視線を上げてこちらを見上げてきた。
「………いつか、」
その瞳に促されるようにして張遼は口を開く。
見ると、自分の足も消えていたがそんなことはどうでもいいことだ。
張遼の言葉に呂布は黙って先を促すように視線で訴えてくる。
唇を緩めたまま、双眸を月へと移した。
「いつか、帰りましょう。あの雪の大地に。」
それは、未来への約束だった。
消えていくはずなのに何を、と呂布は無言で問いかけるが、張遼は優しく笑いながら白い月に、あの大地を思い浮かべる。
「ふたりで。」
そう静かに告げ、視線を落とすと呂布は驚いたように目を見開いていた。
他にいったい誰と一緒に行けと、一緒に行くと言うんですか、と冗談めいて告げると、呂布は笑わず、だが緩やかに表情を変えた。
言葉もなく頷く。
それだけで約束は、紡がれた。
新しい約束が交わされたことに、呂布はいつかのあの泣きそうな顔ではなく嬉しそうに笑っていた。
何度も頷き、あんまりにも嬉しそうに笑うから張遼は呂布の頭を撫でようと手を差し伸べる。
そこで触れるはずの両手が消失していることに始めて気付く。
消失に気付いた呂布の表情が固まった。
だが、張遼は消えたことなど何ともないように緩やかに微笑んだまま、体を折り曲げて呂布の額に自分の額をくっつける。
ああ、暖かい。
まだ暖かいと感じることが出来ることに、誰かにはわからないが感謝したくなった。
額をくっつけたまま、瞼を閉じるとあの雪の大地が思い浮かぶ。
帰りましょう。
あの、雪の大地に。約束を交わした、あそこへ。
声なき声でそう告げながら、張遼は消えていく自身を感じる。
両足、両手と言わず残りの部分まで消失していく感覚は途方もない違和感と拒絶感をもたらしたが、すべては額に残る呂布の暖かさでかき消えた。
呂布は何度も自分と約束をする。
そして何度も自分を裏切り、張遼は裏切られて苦悶と憎悪の声を上げるのだ。
それでも、何度でも。
何度でも約束をしよう。
何度も、何度も。
いつか裏切られても、報われるときがくることを、あのとき亡骸のように生きていた自分自身に教えてやりたい。
そう思いながら、張遼はゆっくりと瞼を持ち上げる。
目前の呂布も眼を開けていて、大きな丸い瞳と眼があって、張遼は自然に笑みをのぼらせる。
自分は、今、報われた。
だから、
そこで張遼の意識はふつり、と途絶えた。
そして次に目覚めた時、張遼はひとり、朝のなかにいた。
<つづく>