森は暗闇に包まれていた。
暗い森のなかでは、風に撓る枝の音とたまに聞こえてくる夜鳥の声しか聞こえてこない。
夜露に濡れる大地と草を、馬の蹄が踏みしめていく。
静かな森のなか、それに混じって蹄の音が混じる。
暗闇のなかでもなお赤い肌。
普通の馬が貧相に見えてしまうほどの巨体。
中華では知らぬものはいない。赤兎馬である。
赤兎は夜のなかを進んでいく。
静かに、静かに。
時折、不安そうに背中へと馬面を向ける。
視線に言いたげなものを乗せるが、普段なら真っ先に気付いてくれるはずの赤兎の唯一無二たる主人はそれに答えようとしない。
手綱を握ったまま、視線を赤兎の首あたりに固定して一瞥もくれない。
言葉もないのだ。
朝頃、厩にやって来た頃からこの小さな主人の様子はおかしかった。
尋常ではないと言っても良い。
取り乱しているわけではない。静かすぎた。
静かで、平坦で。
心に暗い何かを抱え込んでいるのだということは赤兎にもわかった。
それくらいわかる。それほどに側にいたのだから当たり前だ。
どうしたのかと言葉に出来ずとも視線に乗せて問いかけたのだが、朝も、そして今も、主人からの返答はない。
鞍をつけ、背に乗り、手綱を握って……魏の城を出た。
もうすっかり慣れ親しんだ厩を出て、主城の門をくぐり抜け、道を進んでいく。
あてどもなく。
行く宛も知らぬかのように、ただ進んで行くだけだった。
遠乗りに出かけたのなら赤兎もこんなに不安になるわけはなかった。
だが、今回はおかしい。
何も語らぬ主人も、何もかもが。
それは赤兎にもわかった。
だが言葉をくれなければ赤兎にも検討がつかない。
赤兎はかしこい馬である。だが喋ることは出来ない。主人の心を察することは出来るが、隠された奥底のものを知ることは難しいのだ。
朝の陽が昇り、天空を通り、山の向こうへと沈んでも、赤兎は宛もなく道を進んでいた。
この森に入ったのはいつのことだったか。
道無き道をただひたすらに進んでいく。
帰り道がわからなくなってしまいそうだった。
そう思って、赤兎は冷えた思いに捕らわれる。
帰り道がわからない。
……主人は、帰る場所がないのか、と。そんなことを突然、考えた。
帰る場所ならある。
あるはずだ。それを赤兎も知っている。
だが不安は胸から去ろうとしない。
逆にその存在を声高に叫び、大きくなっていく。
赤兎はもう一度、背の主人へと振り返ろうとした。
嘶きながら首を巡らせようとしたところで、
赤兎は突然、足下から崩れ落ちる。
地面を蹴っていたはずの足が突然支えを無くし、巨体が支えきれずに横凪ぎに倒れる。
驚いて眼を向けた先の光景に、赤兎は自分の考えが正しいということを思い知ることになる。
赤兎の足が、なくなっていた。
蹄の下から足の中程まで、右足の前一本が消失していたのである。
それを見た赤兎は、主人の突然の行動の全てを察した。
察したが故に、そのあまりの事態の重さに目の前が真っ暗になる思いがした。
傾いていく体を止められず、そのまま地面へと倒れ伏したのだった。
あてどもなく道を進んでいた。
張遼が自分のことを忘れたということは、他の人間も誰も呂布のことを『覚えていない』だろうということを呂布は悟っていた。
ならばそこにいる理由はない。
そもそもあそこには張遼がいたからこそ厄介になっていたのである。
……他には何もないのかと問われれば、即座に呂布は首を横に振っていただろう。
あそこには、あまりに長く居すぎた。
様々な人物に出会った。
元々の世界で闘った武将たちもいれば、後世で出会うはずのなかった者達にも出会うことになった。
曹操お抱えの軍師達に囲まれ、あれこれの指摘を受けながら陳宮の持ってきた仕事を片付けたこと。
蔡文姫といった女性陣たちに菓子を与えられついでに攫われたこともあった。
曹家の次代の子供達と交流を持ったこともある。よくよく考えてみれば、自分を殺した男の子供達と懇意になるというのも、おかしな話ではあるが。
夏候惇たちと手合わせをしたこともある。
ケ艾といった者達と親しく話をするまでになったことも、ある。
そのどれもが呂布にとっては味わったこともないような経験だった。
まるで春の陽の光のように穏やかなあの時間。
戦場を忘れたわけではない。
あの戦慄たる場にいることこそが自分の武将としての本懐なのは解っている。
けれど、ぬるま湯のような穏やかさは自分にたくさんのものを連れてきた。
…だからこそ、誰にも会わずに国を出た。
張遼の言葉や態度だけでも、自分にとっては刃を振り下ろされたような気分だったのに、これ以上はもう耐え切れそうにない。
耐えきれない、などと。
おかしな話である。
呂布はそう思って自嘲を込めて唇の端を歪める。
我は鬼神。
唯一人、天下無双たる呂奉先なのである。
化け物と蔑まれ、恐れられ続けた。
心など、とおの昔にないものとされた。
ひとのこころを、化け物が持つはずがないのだと、断じられた。
自分にひとのこころはない。
だが、今もなお、この胸の奥にある何かが血を流し、悲鳴を上げ続けている。
随分と弱く成り果てたものだった。
弱く、弱く……その弱さが歯痒かった。
歯痒く、腹立たしい。
それなのに、この心を捨て去ることも出来ない。
捨てることが出来れば楽になれることはわかっていた。
わかってはいたが、捨てればすべてを無くしてしまう。
あの穏やかさも、柔らかな日々も……呂布にとってはすべてが新鮮で、それでいてそれが当たり前だと教えられたものだったのだ。
そして何よりも。
何よりも、張遼のことを忘れることが出来ない。
心はもう捨てられない。捨てようとも、思えない。
どんなに痛くとも、苦しくとも、この心がなくなれば今までのこと全てを虚実としてしまうから。
手綱を掴んでいた手を見つめ、その片方を離す。
小さな手。
その掌が無くなった。
指先から手首。そして肘のあたりまで音もなくスゥッと消え去った。
範囲が明らかに増えている。
消える速度も、長さも、広さも、その全てが前よりも尋常でない速さだった。
まるで堰を切ったように、もう終わりは近いのだと言葉もなく告げられているような気分だった。
だが、もう終わってもいいのかもしれない。
心をなくすことが出来なくとも、この血を流し続ける心を抱えたままひとりきりで過ごすにはあまりにも痛みが酷い。
恐らく、心が先に死んでしまうだろう。
そうでなくては生きていられない。
自分がなかなか死ねない身であるのはわかっていたので、呂布は死んだ心を抱えたまま生きていくことのほうが余程耐え切れそうにもなかった。
だからこそ今、消えるのが良い。
そう思い、自嘲気味に唇を歪めたところで、突然、乗っていた赤兎の体がガクンッと崩れ落ちた。
赤兎が平衡感覚を失うことなどない。
どんな戦場であろうと歩みを止めない。それが赤兎だった。
それに慣れ親しんだ呂布も、倒れるということが信じられず思わず受け身も取れず、宙に投げ飛ばされる。
手綱を握ったままだったせいか、投げ出されたところで引き戻され逆に痛いほど地面に叩きつけられた。
呻き、痛みで顔を上げたところで突然姿勢を崩した赤兎のことを思い出し、呂布が体を起こす。
赤兎!
名を呼び、近づく。
怪我をした様子はないが、赤兎は何か驚いたように動揺している。
瞳に落ち着きがなく、あちらこちらに動いているのを見たところで、呂布は何が起こったのか確認しようと赤兎の体を手で探った。
そして倒れた足を見たとき、呂布は衝撃で言葉を失った。
慟哭し、深く深く、瞼を閉じる。
赤兎の右足の先が無くなっていた。
怪我をしたわけではない。その状態を呂布もよく知っていた。
無くなっているのだ。
本当の意味で、足の先がまるごと無くなっていた。
……自分の状態が他のものにまで影響を及ぼすとは思いもしなかった。
だが、近づけば影響が出るということを呂布は思い知った。
思い知れば、これ以上赤兎を連れていくわけにはいかない。
……赤兎。
いつの間にか震えていた手を握りしめ、呂布は赤兎を呼んだ。
その声に何かを感じ取ったのだろう。赤兎が嘶いて顔を上げる。
呂布はそれに答えないまま、赤兎の背に近づきつけていた鞍の皮に手をかける。
身に結んでいたそれを片手でたやすく引き千切るとそれを赤兎の背から外す。
赤兎。
名を呼び、外した鞍を投げ捨てると、赤兎の体を軽く叩いた。
行ケ。
一言だった。
だがその短い言葉に絶対の意思が込められていることを察して、赤兎が嘶きながら首を横に振る。
嫌だ、嫌だ、と声なき声で呂布に願った。
呂布はしかしそれを許さない。
行ケ。オ前マデ付キ合ワセルワケニハイカナイ。
静かな声で告げる。
赤兎は泣きそうな声で鳴きながら、鼻先を呂布に押しつけた。
嫌だ嫌だ。共にいる。共にいたい。自分も一緒に、と。
赤兎はひたすらに訴える。
呂布もそれを見るのが辛かった。
しかし情に流され、この賢く尊い輩を自分とともに消え去るような運命には巻き込めない。
相棒であるからこそ、出来ない。
(その時、脳裏に過ぎったのは自分と共に死ぬことを願った陳宮と高順のことであった。
彼らの姿を思い出し、呂布の胸がさらに痛む。)
呂布は赤兎の鼻面に一度だけ腕を回した。
ぎゅぅ、と抱きしめると、その意味を察した赤兎が余計に鳴いた。
オ前ハ、良イ相棒ダ。
だからこそ、
戦場デハナイ、コンナトコロデオ前ヲ失ウコトハデキナイ。
戦場であるのなら。
ここがあの血煙の舞う戦場であったのなら、命と命を奪い合うあの場であったのなら死というものを赤兎にも架すことが出来ただろう。
それが呂布と赤兎という、鬼神という存在であるなら尚のことだった。
だからこそ、戦場ではなく、存在そのものが消されてしまうということに、赤兎を巻き込むわけにはいかない。
抱きしめた腕をゆっくりと放す。
呂布は改めて赤兎の瞳を見つめ、ゆっくりと言葉を告げた。
行ケ。コレハ主人トシテノ命令ダ……赤兎。
絶対の意思を乗せて、赤兎に告げる。
告げられれば赤兎はもうそれに逆らうことは出来なかった。
赤兎は呂布の輩であり、相棒であり…そして、彼の馬でもあるのだ。
主人の命令には逆らうことが出来ない。
それが主人の曲がることのない願いなら尚更のことだった。
赤兎は一度だけ哀しそうな声で嘶き、それからゆっくりと立ち上がった。
消えたはずの足はいつのまにか元に戻っている。
足が地面を踏みしめ、赤兎はその場に立つと一度だけ顔を呂布のほうへと下げた。
呂布は手を上げない。
それが拒絶を意味していることはわかっていたが、赤兎は一度だけ顔を呂布の胸に押しつける。
押しつけたそこから主人のあたたかな体温が伝わってきた。
それが哀しく、赤兎は顔を離して踵を返してその場から歩き出す。
歩きながら、それでも何度も立ち止まった。
立ち止まり背後から呂布の足音が聞こえて来ないかと待ったが、主人は動かない。
何度も、何度も、それを繰り返し。
そして赤兎の姿は完全に夜の闇に紛れて見えなくなった。
呂布はそれを黙って見つめたまま、その場からしばらく動かなかった。
風が木々を揺らす音に耳を傾ける。
やがてゆっくりと息を吐き出すと、より森と闇が深いほうへと歩き出していく。
闇に紛れる。
森の闇に消えていく。
ああ、今思えば張遼から離れることが出来て良かったのだと、呂布はそんなことを思った。
側にいて、その存在にまで影響を及ばせてしまうのであればこうなったことのほうが良かったのだ。
息を吐き、唇を歪めて笑うとそのまま森の奥へと進んでいった。
もう思い残すことはない。
あとはただ、消えていくだけなのだから。
あなたと最期の夜を。
張遼は馬を走らせていた。
夜の闇をひたすらに進み続けているが、一向に呂布を見つけることは出来なかった。
ケ艾と別れてから城の中をくまなく探してみたがその姿はなく、最後にと思って覗いた厩で繋がれていたはずの赤兎がいないことにようやく気付いたのである。
急いで自分の愛馬を繋いでいた縄を解き、その後を追って今に至る。
張遼の愛馬は赤兎によく懐いていた。
他の馬たちは赤兎の尋常成らざる気配に怯えるか逃げ出すかが関の山だったのだが、張遼の馬だけは赤兎に物怖じせずに接することが出来ていた。
最初は確かにおっかなびっくりのようなところもあったが、共に良く駆けていたせいもあるのだろう。
気がつけば、顔を合わせた赤兎に自分から鼻面を押し当てるくらいには良く懐いていた。
そして張遼の馬は、赤兎の気配を察することは出来た。
不思議なことに、遠乗りなどでどんなに離れた場所にいても愛馬は赤兎を見つけ出してくれる。
どうやら二者の間で知らない何かが交わされているらしい。
だから今、呂布とともにいるはずの赤兎を見つけ出すことが出来るのはその馬だけで、張遼は今、進むままに足を走らせている。
幾度の道を通り、野を駆け、丘を駆けたかもう忘れてしまった。
陽はもうすっかり落ちて、あたりには濃密な夜の香りが漂っている。
気がつけば、森の中にいた。
あたりは鬱蒼としていて、真っ暗で気配と言えば風に揺れる木々の音くらいしかない。
そして時折、夜鳥の声がするくらいで他には何の姿も見つけることが出来ない。
本当にこの場にいるのかと不安にもなったのだが、今は自身の愛馬の直感を信じる他はない。
森の中の道なき道をひたすらに進んでいく。
夜鳥が、鳴いた。
その声が闇に響いて消えていく。
今はただ、早く、一刻も早く。
呂布に会いたかった。
会ってどうしたいのか、と問われれば、即座にわからないと張遼は応えていただろう。
わからない。
本当に何をしたいのかわからない。
謝りたいのか、縋りたいのか、自分のしたい行動が見あたらない。
だが、会いに行かなければならない、という自身の思いだけが張遼を突き動かしていた。
会いたい。
会いに。
その思いを彼の愛馬も酌み取った。
自身が出せる全力を持って、赤兎の気配を追い続けているのだ。
だが、闇が、
闇が、広がっていく。
それがまるで何かを暗示しているようで、張遼は目を伏せた。
呂布がいなくなったのは、おそらく自分のせいだろうということはわかっていた。
だが、そのいなくなり方があまりにも突然すぎた。
一番始めに見た彼の使っている客室は、今朝出たままだということを如実に感じられるくらい乱雑としたものだった。
彼が使っている用具のすべてが元の場所のままにある。
もし、出て行くつもりならば準備のひとつでもしたのだが、それらしい形跡がまったくといっていいほどなかった。
だからこそ張遼は最後に厩を探したのである。
今にして思えば失策だったのだが、何の準備もせず呂布が飛び出すはずがないと思っていたのだ。
結局、それは間違いだったのだが、そのことが逆に張遼の胸に不安の影を落とす。
突然。
そのことがひどく胸にひっかかった。
乱雑な室内を思い出す度に、張遼の胸に小さな棘が突き刺さる。
そしてその棘は声高に存在を主張し、張遼の心を代弁するかのように言うのだ。
呂布は、このまま帰ってくるつもりも、どこかへいくつもりもないのだろいうこと。
残したすべてのものが不要になるのではないかという、不安だった。
そんなことあるわけがないと思うのだが、その棘は刺さったままで抜く術がない。
やがて棘が刺さった先から血が流れ出す始末だ。
張遼は痛む胸を思いながらも、そんな胸の内の声をすべて否定した。
私は、会わなければいけないのだ、と言い聞かせる。
そこで、突然、愛馬の足が止まった。
突然のことに張遼が驚いて手綱を引くが、馬はそこから動こうとしない。
ブルブルと首を横に振るばかりで、張遼が先に行こうと促すのを嫌がったいた。
「どうした…!」
今はそんな駄々をこねている場合では、と言いかけ、張遼は自身の愛馬が何かを察したのではないかと気付く。
言いかけた口のまま視線を落とすと、愛馬はそのまま顔を上げ、森の一点を見つめている。
張遼も森の暗闇へと目をこらすと、やがてその森の茂みがガサリと音を立てて揺れた。
何だと驚くよりも早く、そこから一頭の見覚えのある姿が見えて、張遼は驚いて眼を丸くする。
「赤兎!」
名を呼び、馬から飛び降りるようにして降りると、そのまま森の中から出てきた赤兎の側へと走り寄る。
張遼が走り寄って見てみると、赤兎の背に焦がれたあの姿はなかった。
そのことに僅かに落胆するが、すぐに持ち直して張遼は赤兎の顔を撫でる。
「赤兎、どうした……ひとりか?」
問いかけはまるで人間に対するようだった。
しかし赤兎は正しくそれを理解し、僅かに顔を垂れてみせる。
その眼が悲しみに彩られていることを察して張遼はここに呂布がいないことを知った。
おそらく呂布とともにいたことは確かなのだが、呂布の元から離れてしまったらしい。
赤兎が呂布の側に自分から離れていくということはありえなかった。だから、赤兎を促したのは彼自身なのだということがわかる。
撫でた手から張遼の感情が伝わったのか、赤兎が自分から張遼の手に顔を押し当ててくる。
「…赤兎?」
名を呼ぶと、赤兎は顔を上げ、今自分が来た方角へと首を巡らせる。
何かを言いたいということは張遼にも伝わってきた。
眼を見開き、赤兎のほうへと振り返ると視線がぶつかり合う。
その眼は澄んだ色をしていた。
同時に何かをしきりに訴えかけるようなものも感じることが出来る。
赤兎は馬だ。
人の言葉は喋らない。
しかし、頭の良いいきものなのだ。同時に、思慮深い性格でもある。
何かを訴えたくて仕方のないという無言の言葉を聞き、張遼はそれを正しく理解した。
「………奉先殿が、この先にいるのか?」
呟きは、嘶きによって肯定された。
そうか、と張遼は呟く。
呟き、赤兎が来た方向をジッと見つめる。
暗闇がぽっかりと口を開けて待っているように見えた。
無論、それが目の錯覚なのはわかっていたが、迷っている暇などない。
迷いはない。
張遼は顔を上げた。
「ありがとう、赤兎。」
顔を上げ、一心に先を見つめている。
その瞳には決意があり、迷いはない。
それを見つめていて安心したのだろう赤兎が一度だけ嘶く。まるで頼む、と言っているようだった。
張遼はそれに頷いて答え、後方に控えたままだった自身の愛馬を手招く。
手招きに気付いた愛馬がゆっくりと近づいてくるのを見て、張遼はその首を軽く叩いた。
「お前はここで待っていろ。この先へ案内されているのは、私だけだ。」
赤兎が促したのは自分だけだった。
ならば、この先へ進むのも、託されるのも自分だけだろう。
そう思っての言葉だったが、愛馬もそれを了承したようで、自分から張遼の側を離れると赤兎のほうへと歩み寄っていく。
赤兎は近寄ってきた張遼の愛馬を受け入れ、互いに互いの鼻面を押し当て合う。
まるで慰め、慰められているかのようであった。
それを見つめ張遼は軽く赤兎に頭を下げる。
それは純粋な感謝からくる自然な動作だった。
馬に何を感謝などと言われてしまうそうだが、張遼は本当に赤兎に感謝していたのである。
感謝していたからこそ、行動に出した。
ただそれだけのことだ。
やがて顔を上げ、寄り添う二頭を見たあとに張遼は方向を切り替えて歩き出す。
赤兎の示したほうへと、真っ直ぐに歩みを進めていく。
その先にはただ森の暗闇が広がるだけだが、張遼の歩みは止まらなかった。
最後には歩けなくなった。
ひたすらに森の中を進んでいた呂布だったが、やがて手と言わず足まで消え始めていたのだ。
消えた足が歩きづらく、さらに今まで感じなかった体の違和感や苦しみが呂布に直接牙を剥き始めていく。
歩けば歩くだけ体は消え、苦しみに押し潰される。
それでも森を進んでいたのはもう意地だけだったのかもしれない。
だが、やがて両足が消えた。
何の前触れもなく、スゥッと消え去ったことで呂布は平衡感覚を失い、その場に頭から転げ落ちた。
転げ落ちたところで歩く気力は完全に失せた。
今、呂布は歩けなくなった体を偶然側にあった木の幹に寄りかからせている。
その樹の枝が、風で揺れる。
枝が撓る音を聞きながら呂布は、何もせずただ視線を宙に流したままだった。
風に時折、葉が舞い落ちてくる。
だが暗闇の森のなかではそれを見ることが出来ない。
たまに顔や体に落ちてきてそれを知ることができる。その程度だ。
呂布はその葉を手に取ることもなかった。
手に取ればそこから手が消えてしまうことが目に見えてわかっていたからである。
ザァザァと、木々が揺れる。
暗闇は長く、永く、ながく、あたりを静謐に包み込んでいた。
最期が戦場ではなく、こんなところでだというこに呂布は何となく笑えてしまう。
唇を歪めて無理矢理に笑うと、がらんどうの体が乾いた音を立てて共鳴したような気がする。
すべては、夢だった。
穏やかな日々も、ぬるま湯のような平穏もすべてが一瞬の夢の出来事のように思えた。
化け物の自分が出過ぎた夢を見ただけ。
ひとのこころを持てばどうなるかわかっていたはずだった。
化け物がひとのこころを持ったところで、化け物に変わりはない。
まわりから蔑まれ、恐れられ、化け物と罵られるのが関の山だったのだ。
だが、夢はあまりにやさしかった。
終わりがわかっていても、もうすこしだけと願ってしまうくらいに呂布のこころを弱らせていた。
だが、すべては夢だ。
出過ぎた夢。
ならばもうこれも閉じようと、呂布は瞼を閉じる。
さいご
その三文字の言葉が頭を過ぎる。
消えていく体が苦しかった。
肺までも消えているのかもしれない。内蔵のどこかが、機能しなくなっているのかもしれなかった。
今まで苦しいとも思わなかったのだが、直接息を吸ったりするところだとやはり苦しいのか、と呂布はそんなことをぼんやりと考える。
もうすぐ、すべてが終わるのだろう。
消えて。
自分という存在が消えて、それですべては終わるのだ。
もう誰も自分のことなど覚えていないだろうから、『世界』が困ることはありえない。
誰も悲しまない。
誰も泣かないし、誰もおいていったりしていない。
誰も連れて行かなくて済む。
遠い昔。
あの雪の日。
共に連れて行ってしまった陳宮と高順のことを思い出す。
あの二人を、自分は連れていくつもりなどなかった。
誰も連れてなどいきたくはなかった。
戦場で散るのは仕方ない。
だが、自分の終わりは処刑というものだ。戦場での終わりではなく、人の手にかかり、多くの人の前で死ぬのだ。
戦いがあっても、その終わりは本意ではない。
満足しなかったのかと問われれば首を横に振っていただろう。
自分は十分に闘った。
そのせいで負けたのだから、処刑されることは仕方のないこと。
それが世の常であり、戦いの常。
けれどあの二人は、違う。
あれは本当は生きていてしかるべき人々だったのだ。
(張遼のように、)
だが、連れて来てしまった。
(張遼のように、)
(彼のように、自分の願いを優先しようとは思わなかった。
彼らの思うとおりにしてやろう、と呂布は思った。
それが余計に彼自身を苦しめることになるのがわかっていたのに、それでも、)
今度はひとりだ。
そのことだけは感謝すると、呂布は思う。
あとはもう消えるだけ。
だが自分の体が消えるというのは見ていて気持ちの良いものではない。
呂布は眼を閉じたまま、それを受け入れることにした。
どうせもう幾らの時間も自分には残されていないのだから。
ただ目を閉じると、その瞼の裏で懐かしい姿を思い出すことになった。
図らずも、呂布は終わりに向けて、その姿をもう一度見ることになる。
瞼の裏に思い出すのは、鳶色の瞳だった。
優しい瞳。
同じ男であるのに、優しいなどと笑える表現なのだが他に呂布は彼のその瞳を表現できる言葉を知らない。
だが、思い出すと胸が締め付けられた。
なくしたはずの臓腑が痛めつけられたような気がして、呂布の喉がヒュゥッと音をたてて空気を呑み込んでいく。
今朝見たようなものではなく。
いつも、常に見ていたような姿を、思い浮かべる。
思い浮かべたら、あとはもう止まらなかった。
笑顔を思い出す。
気品のあるものから、普段はあまり見せないが顔中が笑っているようなものもあった。
そのどれもが自分に向けられていた。
自惚れと蔑まれても構わない。
もうないのだと思うと、余計に思い出す。
あの顔もあの声も、もう聞けないのかと思う。
さいごに、出来るなら、最期に。
思い出すのなら、いつもの彼のものがよかった。
切り裂くような言葉ではなく、名を呼ぶ声を思い出したかった。
――奉先殿。
どんな言葉でも、その名を呼ぶ声には叶わなかった。
たくさんの思いが詰められた、名前。
自分の名前であるのに、まるで宝物のように響く声。
思い出す。
思い出して、それからやはりもう見れないのかと思うと胸が苦しくなった。
こんなときまでこころは捨てられないのか、と自嘲気味に笑った。
彼がすべてを忘れてくれて良かったと思うのに、それとは裏腹の声が自分の心にはあって。
だがそれを消すことも出来ず、呂布はひとり闇に体を横たえていた。
やがて闇に月の光が照らし出される。
雲に覆われ、暗闇に捕らわれていたその淡くも白い光が闇を照らし、呂布のもとへと降り注ぐ。
それは、月の気まぐれだったのかもしれない。
呂布はしかしその光に気がついて閉じていた瞼をゆっくりと開ける。
朧気な視線の先。
暗闇であったはずの森に浮かび上がる白い月の光。
「……奉先殿……っ!」
かくして、話は終わりへ向けて。
<つづく>