彼はもう何も覚えていない。

  呂布とともにいた記憶はすべて、根こそぎにされて無くなっているのだ。

  ともに遠乗りに出かけた記憶も。
  そこで見た、何処までも続く蒼穹の空も、燃え落ちるような夕陽も、降り注ぎそうな月と星も。
  狩りで、互いにどちらがより多くの獲物を仕留めるかで競った記憶も。
  勝敗で浴びるほど酒を飲まされたことも。
  ただ側にいて欲しいと、願ったことも。
  執務で陳宮との橋渡し役で苦労されられた記憶も。
  陳宮の怒鳴り声が聞こえてくる。
  後ろのほうで他人事のように豪快に笑う高順や、溜息をついている魏続たちのこと。
  二人で話をしていたことも。
  夜でも、昼でも、朝だったことも。
  長い、長い、話をした。その一言が、いとおしむような響きに包まれていた。
  
  張遼。

  呼ぶ声。
  呼ばれる声。

  文遠。

  様々な感情に彩られた声。
  彼が、はい、と答えたら、それだけで呂布は笑う。
  子供のような笑みだった。
  不器用で、それなのに自分の心まで暖かくなってしまうような不思議な笑み。

  戦いの記憶も、あった。

  様々な戦場を駆けめぐった。
  その背を守ろうと、夢中で足掻いたこともあった。
  そして守ろうなどと烏滸がましいのだと、思い知らされたこともあった。
  守るのではなく、背を預けられるように。

  背を向けていても、そちらを任せても大丈夫だと思っていられることが呂布には必要なのだと、そう思ったこともあった。

  だが、それを彼は無くした。

  約束の記憶。
  雪原で交わした記憶は、真っ先に食い破られた。

  彼にはもう、何もない。
  何一つとして残っていない。




  その、はずだった。
  はずだった、というのは、無くしたはずのその記憶というのが、『知っていれば』消せるというものだったからだ。
  知っていればということは、つまり、『知らなければ消せない』のと同等なのである。

  だが、そんなものはない。
  『世界』は全てを知る。
  それが絶対で、不変。

  けれど、知ることが出来るのは、その本人が『覚えている』ということが絶対条件なのである。

  だからこそ張遼は根こそぎに記憶を無くしてしまったのだ。
  彼にとって、呂布との記憶はそれほどに大切なものだったから。

  すべては、終わった。

  ………そう、そのはずだったのだ。















  張遼が眼を開けると、そこは赤い世界だった。

  見渡すかぎりの赤い色。
  そのあまりの赤い光景に息を呑む。
  鮮烈なまでの赤。紅。朱。あか。

  やがて、その赤い色が夕暮れに染まった世界なのだということに気がつく。

  夕暮れ。
  それはまるで燃え落ちた陽の色のようだった。

  世界は赤く染まっている。
  どこもかしこも赤く、赤く、目眩がしそうだった。

  あたりを見回しながら張遼はゆっくりと視線を滑らせる。
  その視線の先に、ひとりの青年が立っていた。
  今まで気がつかなかったのに、何故? と張遼は思う。

  その青年は張遼のちょうど五歩先に佇んでいた。

  体中がボロボロになっているのが見て取れた。一兵卒が着るような粗末な防具は所々摩り切れ、手も足も傷だらけだった。
  赤い血が流れているようだったが、その赤を見ることは難しい。
  その血の色でさえ、夕暮れの赤に呑み込まれているのだ。

  肌まで赤い。

  そんなことを思いながら、まるで吸い込まれるように張遼は一歩を、進んだ。
  二歩。
  三歩。
  四歩。
  そして、五歩。
  張遼は青年のすぐ側に立った。

  青年は傷だらけの躯を引きずりながら、それでも自身の足で立っている。
  荒い息を吐き、そして足下を見つめていた。

  張遼も釣られるようにして視線の先である足下を見る。

  赤い世界。
  赤い、赤い、世界。

  なぜ気がつかなかったのか。
  足下に広がるのは、数え切れないほどの骸の山だった。
  山賊か……いや、倒れ、すでに息のない骸たちが身につけているのは、やはり防具だった。
  どこかの兵士らしい。らしい、というのは、もうそれに張遼も、そして青年も興味がないからだ。

  死しているものに興味など何故あるというのだろう。
  意味のなどない行為である。
  僅かな溜息をどちらとももらし、この世界のあまりの凄惨さに胸を痛める。
  
  その時だった。

  微かな物音が聞こえてきて、青年が思わず顔を上げる。
  自分以外には誰もいないと思っていたようでその驚きは顕著だった。ほとんど反射のように、何の構えもなく体が先に動いていたのだ。
  張遼もそれと同時に顔を上げた。



  青年の瞳が大きく見開かれる。
  その鳶色の瞳いっぱいに、赤い世界が映し出された。

  そして、そこにある漆黒も。

  漆黒。
  そう、赤い世界にあってなお、黒いその影。
  たくさんの骸のなかに立ちながら、直立している姿。

  一目だった。

  一目、ただ一度、瞳に映しただけ。
  それだけで十分だった。



  ああ、ひとの心は、
  心というものは、

  こんなにもたやすく奪われるのか、と。

  その姿は、孤独だった。
  そしてその魂は、一目見ただけでわかるほどに孤独で孤高のものだった。
  
  青年は、心を奪われた。

  その孤独な魂に惹かれた。
  魂ごと、奪われた。

  理由などいらない。
  
  一目見た、それだけでもう十分だったのだ。他の理由など、ない。
  孤独だった。
  あまりにも孤独で、それなのに魂はどうしようもないほどに奪い尽くされた。

  嵐のような。

  いや、嵐など生易しい。
  豪雨も、吹きすさぶ風も、すべてが足下にも及ばない。

  それほどに鮮烈だった。
  瞬きも許されないような刹那に、青年は魂ごと奪われたのだ。
  孤独に。
  その孤独の持ち主に。



  名は知らない。
  ただひとり孤独の丘に立つあのひとの名を、青年は知らないのだ。

  だが『張遼』は、知っていた。



  そう、張遼は知っていた。
  今まさに運命というものに立ち会った青年の傍らに立つ彼は、自分の瞳に映るその先を見て愕然とした。

  青年は知らない。
  知らなくて当然なのだ。

  当時の『張遼』は、彼を知らない。

  だが今の張遼ならわかる。わからないわけが、ない。

  青年の視線の先。
  そして自分が映している姿の持ち主。

  忘れるはずもない。

  漆黒の姿。
  孤高の魂。
  孤独を抱えた、それ。

  それを張遼はよく知っていた……知らぬはずなどないのだ。その魂の持ち主は、もうずっと張遼の心にいる人物なのだから。



 「………奉先、殿。」



  途切れがちに張遼が口を開く。
  名を呼ぶと、『過去の映像』であるはずの彼がゆっくりと振り返るのが見て取れた。

  振り返れば見えた。

  魂の奥底まで覗き込まれるような漆黒の瞳。
  あの持ち主を、張遼は他に知らない。

  苛烈で、鮮烈。
  不躾で人の心の奥底まで覗き込むような強い瞳。
  それなのに、あまりにも純粋で。

  この瞳の持ち主を、張遼はもう『知っていた』。

  知らず、涙が零れた。

  目頭が熱くなり、鼻の奥がツンと痛くなって堪える間もなく、涙が溢れ出る。
  悲しみではない。
  それはもう、ただいとおしさ、それだけで流れ出てきた。

  いとおしい。

  叫びだしたいほどの愛おしさだけが、張遼の胸に溢れている。
  

  この、記憶は。


  この寂しくて哀しい…それでいて、愛おしく、狂おしいまでの感情に溢れるこの記憶のことを、張遼はもうずっと忘れていた。
  当たり前だ。
  青年は……過去の張遼はこの感情の意味を理解できなかったのだ。
  このくるおしさも、いとおしさも、許容出来るようなものではなかった。許容し、認めれば身を滅ぼし兼ねない。それほどに強い感情だった。

  だからこそ忘れた。
  抱えておくにはあまりにも苦しい、この想いを丸ごと張遼は忘れることにしたのだ。

  張遼自身も、呂布と始めてあったのはあの懐かしい廊下だと思っていた。
  まだ丁原が生きていて、呂布が彼の養子として自分は部下として居た頃。
  その時に、はじめて出会ったのが最初なのだと。
  そう思っていた。

  だが、それよりもずっと前に自分は呂布に出会っていたのだと、張遼は『思い出した』。

  名前も知らないようなそんな状態だったのに、あの時から自分は彼に心も魂もすべてを奪われているのだと、思った。
  この血のように赤い夕暮れのなか。
  
 「…私、は…」

  たぱたぱと、涙が溢れ出す。
  張遼の頬を伝い顎から落ちて、赤い世界に照り返す。

 「私はもうずっと前から……あなたを、あなただと知るよりももっと前から、あなたを……想って、いたのですね…」

  口に出せば笑えた。
  唇を持ち上げ、緩やかに弧を描く。

  それは嘲笑ではなく、胸のなかの感情に名前もつけられないような状態にあったのにも関わらず、呂布に惹かれていた自分を思っての笑みだった。

  そう、無くすことなど出来ない。
  出来るわけがない。
  忘れたところで、忘れたはずの思い出が食いつぶされることもなく、塗りつぶされることもなく、当時のそのままに鮮明にこの心に宿っていることがそれを物語っていた。
  (刻み込まれたが故に、忘れた。
   忘れなければ自身をも殺すような想いだった。)

  だって、もう自分はこんなにも彼を想っている。

  魂も心も、すべてはあのくるおしいほどの孤独を抱えた彼に奪い尽くされたことを、思い出してしまったのだから。



  あの孤独に惹かれた。

  あの孤独を癒したいなどとは言わない。
  孤独は彼そのものであり、それを否定することは彼自身をも否定することと同列なのだ。

  だからこそ。

  だからこそ、あの孤独に寄り添いたい。
  孤独は、埋めることが出来る。
  埋め尽くし、無くすことが出来るものなのだ。だからこそ、孤独、なのである。



  約束をした。
  遠い昔に、忘れられない約束をした。

  ただそんな約束よりも遠く、そして何よりも近く。

  自分は決めていたのだ。
  彼とともに在ることを。
  目も眩むような赤い大地ではなく、息も凍る雪の降る大地でもなくて。
  あの時に。

  彼に出会った、あの瞬間に。

  側にあることを決めてしまったのだから。


  張遼は静かに眼を閉じる。
  記憶はもう、これでいい。
  記憶など何の役にも立たない。過去の想いや、昔の思い出など何の役にも立たない。

  あの姿は自分だけが覚えていればいいだけの話なのだ。

  だからこそ、張遼は思う。
  今、自分のすべきことは何なのかということを。

















  たとえばそれが、呂布の願いを殺すことになったとしても、

 「……すまないな、ケ艾。」

  次に眼を開けたとき、相変わらず泣きそうな顔の後輩を見つめ、張遼は僅かに唇を歪めた。
  目の前でケ艾が、自分の声を聞いて驚いたように目を丸くするのを見ながら、張遼はゆっくりと自分の首にかけられた彼の手を取る。

 「迷惑をかけた。」

  痺れるような痛みをあげる頬を片手で拭い、張遼がそう呟く。
  ケ艾は下げられるままに手をさげたが、視線を張遼から離そうとしなかった。

  その瞳を見つめ、張遼は空いた方の片手をケ艾の肩に置く。
  ぽん、と一度だけ軽く叩いた。

 「だが……感謝する。」

  張遼のその瞳に、厳しさだけではないものが宿っていた。
  強く、それでいて人を惹きつける気品のあるものだ。
  
  それが彼特有のものだと思い出したケ艾が一瞬、目を丸くしたあと、打って変わって緩やかに笑みを浮かべる。
  それは喜びからくる笑みだった。
  ケ艾は、ゆっくりと頭を横に振る。

 「……いい、え。」

  自分はただ出過ぎた真似をしただけだ、と。
  そう存外にケ艾は伝えていた。

  張遼はその言葉に首を横に振って、それを否定する。

 「お前には心から感謝している。
  私は……もう少しで、何もかも失うところだった。失うことさえ、知らぬままだった。」

  だからこそ感謝を、と。張遼は言う。

  突然に交わされるケ艾と張遼の会話に、まわりは何が起こったのかと困惑している様子だった。
  だが、説明をしている暇はない。

  そんなことは二の次だ。
  
  今は、真っ先にやるべきことがある。
  何よりも優先すべきことがあって、張遼はそれを全てにおいて曲げるつもりなどない。

  一刻も早く、行かなければいけない。

 「………いってくる。」

  それだけで十分だった。
  ケ艾には感謝しているが、感謝しているからこそ彼がくれたこの『猶予』を無駄にするわけにはいかない。
  それに感謝は言葉ではなく、行動でこそ示すべきなのである。

  外套を翻し、張遼はその場から踵を返すと勢いよく歩き出した。
  まだ硬直状態の人々を後目に、一心不乱に歩みを進めていく。

  その背を見送りながら、ケ艾が笑みを浮かべたままゆっくりと頭を垂れた。

  深々と。
  それは願いだった。懇願にも似た、願いの姿勢だった。

 「いって、らっしゃい。」

  今度、帰って来るときは……張遼の傍らに呂布がいることをケ艾は願った。
  
  好きなひとたちがしあわせでいられるように。
  
  すでに呂布という存在を無くしかけているケ艾だったが、そのことにはもう何の恐れも抱かなかった。
  食い破られていく記憶の痛みを感じながらも、それを恐れる必要がないからこそ、ケ艾は逆に笑っていた。

  大丈夫だ。
  今、自分が『彼』のことを無くしたとしても、きっと張遼がすべてを元通りにしてくれる。

  だからこそ最後に、

  ケ艾は頭を下げたまま、そっと瞼を閉じた。
  何もかも塗りつぶされていく記憶。すべてが閉ざされる最後の瞬間に、ケ艾は思い出す。
  それは、好きなひとたちが笑っている光景だった。

  呂布も張遼もしあわせそうに笑っていて、思い出すだけでケ艾の胸がほっこりと温かくなっていく。

  そしてケ艾の視線に気がついた呂布がこちらに振り返り、名を呼んでくれる声。

  ――ケ艾!

  その声を聞いて張遼もこちらに振り返って、柔らかい笑みを見せてくれる。
  こちらに来い、と無言で誘われているのがわかってケ艾は記憶のなかで一歩を、踏み出す。





  その一歩が最後だった。

  次の瞬間。ケ艾はすべての記憶をなくしてしまう。
  自分が何をしていて、何を考えて先ほどのような恐慌に及んだのかということを忘れてしまったのだけれど……心には、理由のない暖かさが転がっているのが感じられた。
  暖かった。胸の奥に灯が灯るというのはこういうことなのかもしれない。
  そして、その暖かさに心は穏やかになった。
  待っていても(何を待っているのか、わからないのだけど)大丈夫だという、思い。

  それが何となく嬉しくて、ケ艾は笑った。
  相変わらず不器用なものだったのだけど、硬直状態から解けたはずの陳泰をもう一度硬直させるくらいには破壊力のある柔らかい笑みだった。






  ……たとえばこの願いが、呂布の願いを殺すことになったとしても、

  止まらない歩みをそのままに、張遼は思い出す。
  取り戻した記憶はあまりにも少ない。
  少ない、と思うのに残りの多くの記憶たちは虫食いのように食い破られ、墨汁で真っ黒に塗りつぶされたままなのだ。

  そして、今もなおそれは止まることを知らない。

  取り戻したはずの記憶たちが再び侵食されているのを感じながら、張遼はそれでも足を止めない。
  やらなければいけないことがあるからだ。

  ………無くしていたとはいえ、自分はなんと酷いことを口にしたのだろう。

  いや、無くしたなど言い訳にもならない。
  あの時……朝に呂布と相対していた自分を殴り殺したいほどの感情を覚える。
  あの言葉は呂布のこころを痛めつけた。
  刃を振り上げ、柔らかな果肉に幾度となくそれを振り下ろしたのと同じことだ。
  血を吹き出し、その痛みを想像することさえ恐ろしい。自分ならきっと耐えきれない。
  耐えられず、血を流した心を抱えたままどうすることも出来なくなってしまうだろう。

  だからこそ、行かなければならない。

  張遼は自分の空いた手に視線を落とす。
  何もない手だ。
  この手に何も掴めないのだと、どこかの誰かが断じているような気がした。

  だが、この手は、

  思い出す。
  小さな掌。
  握り返したその暖かさを、思い出す。

  この手は、あの掌を掴むためにある。

  一度は叩き落とした手をもう一度掴みたいなどと、何と勝手な願いだろう。
  けれど、
  けれど、

 「奉先殿。私は、あなたほど優しいいきものではありません。」

  やさしくなど、出来ていない。
  相手の願いを叶えるために、自分の願いを殺すなど。

 「できません。」

  出来ない。
  出来るわけがない。

  どんなに自分勝手でも、傲慢で、強欲で、どうしようもないくらいに陳腐だとしても。

  だからこそ行かなければいけない。
  いいや、行きたい、と願った。

  傍らに立ちたい、と心の底から思う。






 「約束を。」






  約束を、覚えている。
  食い破られていく記憶のなかで、それでもなおこの胸に残る約束を思い出す。

  共に、
  どこまでも、共に。

 「いま、いきます。奉先殿。」












あなたのもとへ、『全力』でいきます。



 <つづく>