はじまりがなんだったのかは、よくおぼえていない。

 ただ、憧れていたのかもしれない。
 目標にしていたのかもしれない。

 合肥の鬼神 張文遠。

 その武名は幼い頃から知っていた。
 魏国の子供たちの憧れの的の一人でもあったのだから、仕方ないのかもしれないのだけれど。
 田舎の片隅で細々と暮らしていた自分のもとにもその噂は伝え聞くことが出来たくらいだった。
 噂は噂を呼び、やがて従軍するようになるとその噂は現実となって自分のまわりに集まり始めることになる。

 憧れた。
 そのときのことはよく覚えている。
 あれはそう、憧れだったのだ。

 その姿を見ることはほとんど出来なかったのだけど、遠くで見たことがあった。

 ………誰にも言わない。
 言えるわけもなく、自分も口にすることはきっとない。
 その姿が、ひどく孤独に見えた。

 囲まれている。
 戦友にも、仲間にも、部下にも、たくさんの人たちに囲まれているのだけど、あの人は孤独だと、頭のなかでそう誰かが囁いた。
 直感だった。
 理由などわからない。それはもう本当に、直感のようなもので何故そう思ったかなんて自分にもわからないのだ。

 近づくことは躊躇われた。
 そんなことがあっても、仮になかったとしても自分は人と接するのは得意ではなかったから。
 話をすると言葉が絡む。
 喉の奥で、言いたいことが口から出てこない。
 そして生み出されるのはどもりがちの、聞き取りにくいものだからなおさらだった。

 憧れだった。
 憧憬にも似た。ただ遠くで見ていればそれで満足するようなものだったのだ。
 
 自分にはけして関わりはないだろう、と。
 同じ魏の国に属していたとしてもこの距離に変わりはないのだと。
 そう、思っていた。

 思っていたのだ。

 あのときまでは、



 世界はかわる。
 世界は変容し、そして人々の生き方もまた、変わっていく。

 変わりゆく世界で、自分は一人のひとに出会うことが出来た。




 はじめて出会った衝撃は今でも覚えている。
 三国の生きた伝説。天下無双を欲しいままにして、その名に冠までつけることが許された唯一の存在。
 その彼と出会えたのは偶然で、本当に思いもしない出会いだった。

 魏の国に客将として招かれているとは聞いていた。

 ただやはり自分には関係ないだろうと、思っていた。
 思っていたのに、出会いは偶然で……唐突だった。

 明るい陽のある庭の片隅。
 そこで出会えた小さな彼のことを、自分は今も昨日のことのように思い出すことが出来た。
 小さい。
 本当に小さかった。
 幼い子供くらいしかない身長。
 丸くてふかふかとしたほっぺた。

 それなのに、それとは裏腹に強くて深く吸い込まれるほど透き通った漆黒の瞳。

 天下無双、呂奉先。
  
 その名はもう伝説だった。
 それはそうだ。自分が生まれたときにはもう彼はなく、彼の活躍していた時代は遠い記憶の話だったのだから。
 おとぎ話のようなその強さのことを聞かされていた。
 それは本当に、遠い遠い存在。
 だからこそ出会いは衝撃で、偶然。

 だけど、

 だけど、

 話をしていて、一息に彼のことが好きになっていた。
 好きになるなどおかしな言い方なのかもしれないが、本当に一息に呂布のことを好きになっていたのだ。
 彼は優しい。
 そんなことを言えばまわりからは失笑されるか驚かれるか、熱でもあるんじゃないかと疑われるのが関の山だったが(実際、三人の友人たちはそれを見事に当てはめてくれた)それでも、そう思ったのだから仕方ない。

 どもりがちな言葉を待ってくれた。
 自然に。それが当たり前だから待つのだと、こともなげに言ってくれた。

 待つ。
 聞く。
 話を、聞いてくれる。

 そんな当たり前のことが嬉しくて仕方なかった。自分にはそんな風に接してくれる人間は少なかったから。

 好きになったらあとはもう一気だった。
 懐いた。
 この好意をどうやって伝えればいいのかわからないから、まずは話した。
 話すことが苦手なのは自分でもよくわかっていた。このどもりのせいで人から信頼を失ったことだって、少なくはない。
 それでも話した。伝えたいことを伝えたかったから、懸命に。

 そんなに頑張らなくてもいい。
 ちゃんと待っていてやるから。

 幾度目かの邂逅のあと、そう言われてますます好きになっていた。
 
 嬉しかった。
 嬉しくて、でもそれが伝えられないことにもどかしさを感じたことも少なくはなかったのだけど、本当に嬉しかった。
 話した。
 出会い、少しずつ近づいていくと、呂布が伝説で聞いていたような人物ではないことをより知ることになった。

 裏切りの代名詞。
 父親殺し。
 ひとでなし。
 化け物。

 違う。
 彼は、本当に優しいひとだった。
 やさしくて、それでいて一途で。不器用だから自分の力の加減ができない。制御が、できないのだろう。
 故に自分の正直すぎる彼が疎まれたという事実に、胸は痛くなった。

 痛いはずのその傷跡を、おくびにも出さない。

 いや、出す必要がなかったのだろう。
 呂布の側に近づくようになってわかったことがある。
 彼は、ひとりではなかった。その傍らには張遼がいたのだ。

 呂布が笑えば、その目前にいる張遼も笑みを返す。
 張遼が何か怒ったような口ぶりだった時もあったのだけど、呂布はそれを平然と受け流して彼を呆れさせることもあった。

 そのどれもが自然で、当たり前のこと。
 
 当たり前という単語が思いつかないほど、二人は、二人でいて当然のように見えた。
 二人とも、お互いが側にいるときは自然な顔を見せている。
 笑う顔も、怒る顔も、呆れる顔もあった。
 色んな顔を、そのまま、気持ちのままに出すことが出来る相手であったということだ。

 張遼も、呂布も、互いがいて、それだけで満たされているようだった。

 存在するというだけで、互いが互いに満たされる。
 それがとても羨ましく思えた。
 羨ましくて、それでいて納得してしまっていた。

 二人は、互いに互いでなければそんなふうになるはずがないのだ。
 他の誰も、互いのかわりになれるはずはない。
 二人が、二人であるという事実だけが重要なのだ。


 それを見ているのが好きだった。
 呂布のことは好きだった。
 歴史のとおりであるなら、有り得るはずのない出会いに心から感謝するくらいに。
 出会えたことを喜んで。この出会いが奇跡そのものだと断言できるくらいに。

 あの二人は、二人が揃って立っているからこそあんなに優しい顔が出来るのだということがわかっていたから。

 何も言わなくても、顔を見て笑えばもう片方が笑い返してくれる。
 そんな、しあわせな光景を見るのが好きだった。

 それを陳泰たちに何となく言ってみたことがある。
 杜預は呆れ果てた顔をしていた。
 羊祜は(杜預の後頭部に拳骨を振り下ろしてから)、まああなただから仕方ないですねぇ、と苦笑していた。
 陳泰は、なんだかとても複雑そうな顔をしていた。

 見ているだけでいいだなんて、そんなことあっていいのか?
 と、いうのが陳泰の意見だった。
 俺にはその言葉がよくわからなかった。だって、二人がしあわせでいるところが一番好きだったのだ。
 
 他に何を望んだりするのだろう。

 そう思って首を傾げていると、三人が顔を見合わせて、溜息をついた。
 なんだか呆れ果てたような、でも、自分の言ったことに少なからず同意を示してくれるという色合いを含んでいた。

 二人がしあわせでいてくれるなら良かった。
 自分は、しあわせでいてくれるのを見ているのが好きだったから、当たり前のことだった。
 たまに自分を呼んでくれる。
 側で見ていることを許してくれる。それだけで十分だった。

 自分がこんなことを望むのはおこがましいということはわかっていたのだけど、それでも願わずにはいられなかった。

 それはもう、張遼も呂布も、鄧艾にとって憧れなどではなく好きになっていたという事実から湧き出た思いだった。
 好きなひとたちにしあわせでいてほしい。
 そう望むことは自然で、当たり前のことだから。






 『全力』の感謝をあなたに。

  その日、鄧艾がいつものように目覚めたとき感じたのは違和感だった。

  何の? と聞き返されたら首を捻るだろう。
  何と聞かれたら明確な答えを返すことは出来ない。
  ただ、胸のなかに何かモヤモヤとしたものがある。

  それをどんなものかと聞かれても鄧艾にはどう言葉にしていいのかわからなかった。

  その靄みたいなものが何かを覆い隠しているようだった。
  中にある何かを隠して、気付かないようにしているのではないかという思いが鄧艾の頭をもたげる。

  だがどうしていいのかわからず、いつものように鄧艾は朝議に出るための準備を整える。
  そのまま自分が暮らす家から、主城へと向かう。

  ただ、その道すがらもずっと鄧艾は考えていた。

  胸の中にある何かを。
  その形を知る術はない。

  それを気持ち悪いとは思わなかった。
  しかし、そう思えないということに、鄧艾は逆に恐怖を覚えた。

  自分のなかに何か得体の知れないものがある。
  
  それなのに、『自分』はそれを当たり前のように受け入れようとしているのだ。
  胸の靄も、それも、すべては当たり前のこと。
  受け入れてしまえば、あとはただそこに何かがあったということも忘れてしまうのだということがわかった。

  わかったからこそ、鄧艾は尚更考えた。
  
  『忘れない』ためにはそうするしかなかったからである。
  歩いている。その一歩の間にも、靄は次第に薄くなっていく。
  薄くなるということは靄が消えているということと同時に、その靄のなかにあったはずのものまで無くなってしまっているのだ。
  
  薄く、薄く、消えていく。

  それをどうにかして止めたいと思うのに、どうすれば止まるのかさえ鄧艾にはわからない。
  だから考える。
  靄の存在を、その中にあるはずのものに思いを馳せる。

  そこにあったのは自分にとって大切なものであったはずなのだ。
  それが何かはわからない。
  大切なものであったのかさえ、説明も出来ない。
  けれど、無くしてはいけないと自分のなかの何かが声高に叫んでいる。

  だから考えた。
  考えることで靄を繋ぎ止め、掴もうと足掻いた。

  主城につくと、まわりの人々に変わった様子は見られなかった。
  自分の姿を見つけた陳泰が声を掛けてきてくれたときもそうで、鄧艾は胸のなかの違和感を聞いてみようかとも思った。
  しかし、それを口に出すことはなかった。

  どう伝えればいいのかわからないものを、ただでさえ口下手な自分が言ったところで陳泰が察してくれるかどうかもわからない。
  伝えたところで混乱させるだけだということはわかっていたので、あえて口には出さない。

  ただ、陳泰と話を進めている間も胸の奥にあるものを思うことにした。

  その間にも、靄はどんどん薄くなっていく。
  薄くなって、今にも消えてしまいそうになるのを感じながらそれをどうにもできないことに、鄧艾は焦燥感を覚えた。
  
  口に出さなくとも顔に出ていたのかもしれない。
  僅かな違和感に、陳泰が心配そうに鄧艾の様子を問いかけてきた。
  顔に出すのは少ないが気付いてくれた友に、鄧艾は返答しようとする。

  しかし、それは言葉にならなかった。



  応えようとして顔を上げた鄧艾の瞳に、張遼の姿が映ったからだ。
  黄金の鎧。
  鳶色の瞳と、髪。

  仲間たちに囲まれながらも、孤独を抱えた魂。

  それを感じ取った瞬間、消えかかりそうだった靄が突然形を成した。
  がちゃり、と鍵穴に鍵が差し込まれたときの音が脳内に響き、形を失いかけていた靄が一気にその姿を、内包していたものを露わにする。



  それは、後ろ姿だった。
  小さな後ろ姿。
  子供の背丈くらいしかない、そのひと。

  鄧艾が、彼自身が好きだったひとのこと。

  その彼が振り返る。
  後ろ姿ではなく、振り返ることでその顔を見ることが出来た。

  彼は言う。

  口を開き、不器用そうに表情を歪ませて笑ってみせてくれる。
  鄧艾が一番好きな、彼の顔。

  ――鄧艾。

  呼び名が、耳の奥で響く。

 「………はい。」

  鄧艾はそれに答えた。
  空白の思い出に、声を出して答えることが出来た。

  無くしかけた記憶が一気に巻き戻っていく。
  (その端から、記憶が次々に消されていくのも感じているのだけど)

 「はい………はい、呂、布殿。」

  呼ばれると嬉しかった。
  名を呼んで貰える。側にいることを許してくれる。
  話を、してくれる。

  名を呼ぶことを許してくれる。それこそが鄧艾にとって奇跡のような出来事だった。

  取り戻した。

  どうして無くそうとしていたのだろう。無くしてしまうのを、許そうとしていたのだろう。
 
  突然、何かを呟いた友人の姿に陳泰は怪訝そうに顔を歪めていたが、それを意に介さず鄧艾はゆっくりとその場から動き始めた。
  一歩。
  一歩。
  その一歩で、先にいる張遼の側へと近づいていく。

  近づいていくと、張遼がこちらに気付いて振り返るのが見て取れた。
  その視線が何処か冷たい。
  確かに武人として、厳しい点はあった。自分にも、そして他人にもいくらかそれを敷いていた人だったから知っている。

  けれど、この眼は違う。

  冷たい。
  触れれば指先から凍りつきそうな冷たさを滲ませている。
  その冷たさにゾッとした。あのひとが傍らにいたときは、こんなもの感じたこともなかったのに。

 「……張、将軍……」
 「………鄧艾か。どうした、何か用か?」

  用がなければ去れ、と存外に言われている。
  それはわかっていたのだけど、聞かずにはいられなかった。
  おもむろに鄧艾は口を開く。

 「………呂布、殿は……どう、されたの…です、か?」

  常に張遼の傍らにいた。
  彼がいるときの張遼の空気の柔らかさを知っている。
  厳しさを含んでいても、それを上回って気安さのほうが大きかった。

  実際、彼はよく慕われていた。苦労していた、ような部分もあったのだけど。

  だが、鄧艾が『その名』を口にした瞬間、張遼の体を包む空気が一気に変わった。
  表情も変わる。
  無表情ではなく、苛立ちを含んだものに。瞳には灼熱の憎悪を込めている。
  そんなものを、どうしてと鄧艾は瞠目する。
  ここまで変わるということは、張遼は呂布のことを、そういう風に感じているという証だったからだ。

 「……呂布?」

  口に出すのさえ腹立たしい。
  そう言わんばかりの口調だった。
  
  その態度でわかった。

  張遼は、彼を無くしている。

 「お前もあの『生き物』の知り合いなのか?」

  少なくとも張遼は、鄧艾の知っている張遼は呂布のことをそんな風に言ったりなどしない。
  侮蔑を込めたような物言いを、けしてしない。するわけがない。

 「あのような珍妙な生き物に関わるとはな。お前も、おかしなヤツだ。」

  だが目の前にいる張遼は違っていた。
  それどころか呂布のことを嫌悪していた。

  言葉の端々からそれを感じることが出来る。表情だって、厳しい。

 「だが付き合うものを選べ。お前は魏の武将なのだから。」

  愕然とした。
  言葉が出ない。

  言葉を失い、ただ張遼を見上げるだけしか出来ない。

  同時に思い出す。
  あの後ろ姿を。それは見ているだけで寂しくなるような、姿だった。
  あんな姿を鄧艾は見たことがない。
  鄧艾が出会ったときには、もうそんな姿を見せる必要がなくなっていたから。

  



  二人が、互いという存在であるだけで満たされる。
  それを見ているのが好きだった。

  けれど時折、呂布が寂しそうな顔をするのを知っていた。
  
  鄧艾は知っていた。それは彼が、遠巻きに彼らをずっと見ていたからこそわかったことだった。
  張遼の側にいる時、呂布はどこか諦めたような顔をしていた。
  側にいるからこその、顔だった。

  もし口にして解決出来るようなものだったら、呂布が遠慮などするはずがない。
  
  口に出さないということは、言葉にしても解決しないことだから。
  言葉にしても誰かを苦しめるだけだと、思っているから。

  それがひどく寂しかった。

  自分が彼の力になれないことを鄧艾は知っていた。
  呂布の真意を知りたいとか、そんなことを考えていたわけではない。

  ただ、そうただひたすらに、鄧艾は呂布にも張遼にも、しあわせになってほしかったのだ。

  だからあの寂しい姿が悲しい。
  あれはしあわせも何もかも、諦めてしまっているようだったから。





  かなしい。
  かなしい。

  ただ、ただかなしくてたまらない。

  だからこそ、



  呂布のことをなくしている張遼に、鄧艾は激しい感情を覚えた。
  それは怒りではなかった。

  激しいのに、それはもう悲しいだけだった。
  悲しくて、哀しくて、かなしくて、それで心がいっぱいになった。





 「……おい、士載!!」

  気がつけば、後方に控えていたはずの陳泰に肩を掴まれていた。
  同じく、その傍らに羊祜と杜預がいるのもわかった。

  二人とも必死に自分を止めようと声を掛けている。
  見れば、まわりは騒然となっていた。
  
  なぜ、と思う暇はなかった。

  鄧艾は、自分が今、何をしているのかようやく気がついた。


  前方で、張遼が頬を抑えて蹲っている。
  それを見たときにようやく、拳が鈍い痛みを発しているのを感じることが出来た。
  固めた拳に視線を落とす。

  この独特の痺れには覚えがあった。

  ああ、自分は、張遼を殴ってしまったのだと、まるで他人事のように考えた。
  だが、それだけでは収まらなかった。

  肩を掴んでいた陳泰の手を払い落とす。

  後に続こうとする杜預や羊祜達を後目に、早足で張遼に近づいていった。
  すぐ側に鄧艾が立つと、張遼がちょうど顔を上げた。
  その頬が鬱血していた。

 「…鄧艾、いったい、何を…!」

  唇の端から血を流している。
  謝らなければとか、無抵抗の人間に手を上げてしまったとか、そんなことは置き去りにした。

  顔を上げる張遼の襟元を掴む。

  そのままつかみ上げると、張遼が苦しそうに声を吐き出すのが聞こえた。
  つかみ上げたその動作のまま、鄧艾は力任せにその体を、壁に叩きつける。

  ガァン! という音がして、まわりは一気に混乱状態に陥った。

  彼らは自分のしていることがわからないはずだ。と鄧艾は思う。
  乱心したのかと、思うことだろう。

  責なら後でいくらでも受ける。

  罰も、何もかも、後でならば喜んで受けよう。
  ただ、今は。今は邪魔をしてくれるな、と鄧艾はそれだけを願った。



  壁に叩きつけられた張遼の襟首をもう一度掴む。
  顔を近づけると、鳶色の瞳に自分の顔を見ることが出来た。

  こんなことをしているのに、どこか泣き出しそうな顔だった。
  それを見ている張遼も、こんな理不尽なことをされているのに、相手の泣き出しそうな顔を見て困惑しているようだった。

 「………出過ぎた、真似だと…いうことは、わか、って、いま、す…!」

  今にも泣き出しそうな自分に叱咤をする。
  歯の根が浮き出しそうになるのを気力だけで堪えて、鄧艾は言葉を口にする。

  言葉は、思ったところで伝わるわけがない。
  伝えるには、言葉を声にしなくてはいけないのだ。
  声に。

 「でも…! でも、俺は……! 俺は、この、まま、の、ほうが……かな、しいっ!」

  なくさないでほしい。
  思い出してほしい。

  もしこのまま、張遼がすべてをなくしたままで、呂布がすべてを諦めたままなら、二人はきっとかなしいままだろう。

  だからこそ、声に。

 「なくさ、ないで……く、ださい。」

  だからこそ、思いを声に乗せる。

 「失わないで、ください…!」

  なんて陳腐な言葉だろう。
  要点は何も伝え切れていないし、何を伝えたいのかもわからない。

  本当に感情のままだった。それだけの、意味不明なだけの言葉だった。
  でも、伝えずにはいられない。

 「かな、しい!」

  かなしい。
  かなしい。
  かなしい、かなしい、かなしい、かなしい、かなしい!!

  あのさみしいひとを、さみしくさせないのはこの人しかいない。

 「………張、将軍…っ」

  どうか、なくさないで。
  
 「あのひとは、あなたを……まって、いるん、です…!」




  あの寂しい後ろ姿を知っている。
  
  けれどその姿が、張遼が側にいるだけでなくなっていくのも知っていた。
  一瞬、一秒。
  刹那かもしれない。

  瞬きさえも長い、そんなもののなかで。

  彼らはしあわせそうだった。
  互いのすべてをいとおしむ、その一刹那でさえも抱え込むような、そんなやわらかな時間だった。

  
  まっている。


  それはきっと、鄧艾自身の希望であり、ただのひとりよがりな願いかもしれなかった。
  呂布はそうは思っていないのかもしれない。
  彼はすべてを覚悟して、もう誰も動かせないところに立っているのかもしれない。

  それでも願った。
  願わずにはいられなかった。

  さみしいあの姿を、終わらせて欲しい。


  思いを乗せる。
  思いを、伝えて、ぶつける。




  それは独りよがりだった。
  傲慢で、どうしようもない。ただひたすらに惨めな足掻きだった。



  けれど、






  何かを動かすためには、そんな無様でも、惨めでも、たったひとつの貫くように純粋で強い想いが必要なのだ。

  そして、その想いは、繋がった。






 <つづく>