老人は語る。
  この『世界』のルールを。

  ルールとは、世界を成り立たせるために必要な処置である。
  世界が成り立つためには、ルール、制約、制度、それらの一定の基準となるものが必要なのだ。
  自由とは、『何をしてもいい』というものではない。
  もし、本当の意味で全てが野放しにされれば、その世界は一気に崩壊するのだ。

  崩壊をとどめるための縛。

  鎖で繋ぎ止め、崩壊を押しとどめるために必要なもの。
  それこそが、ルールだ。
  世界を維持するために必要な、そして自由に生きていくために必要なものだ。

 「我らの存在とは不確定なものでな。」

  老人はそう言って口にしていた湯飲みを傍らに置いた。
  老人は語る。

 「儂を語ればそうであろう? 儂は『演義』の人間。
  正史という、本来あるはずの過去の歴史では、存在できぬはずのものだ。」

  だが、と、老人は黒い尻尾をゆらゆらと揺らしながら、人を食ったような顔で笑う。

 「儂は存在している。『演義』と『正史』。『歴史』と『神話』。それらは表裏一体のものでもある。
  そもそも、遙か過去のことなど、お主らはそれが本当に真実なのか確かめる術はないじゃろう?
  儂は、ここにいる。
  ここにいるという真実こそが、お主らにとっては重要で、あらゆる意味で『本当』じゃろうて。」

  例えるならば、神。
  聖人が語れば、神は存在するものである。
  悪とされる者が語れば、悪魔は異端である。

  だが、それを真実だと知るには自分自身がその事実を知らねばならない。

  そうでなければ、いったい誰がそれを判断できるというのか。

 「……儂が語る世界は、そんな曖昧なものを抱えながら作られている。
  まあ、だからこそ、『同じもの』が平然と存在しているのだろうがな。」

  同じもの。
  同じ『名』を持つもの。
  同じ『魂』をもつもの。

  ただし、同じであって同じものではない。同じものであり、同じではない。

  個々に存在しているからだ。
  
 「そう、あの世界では同じ名を持つものは『血縁者』として存在している。
  それはあの世界の矛盾を埋めるための処置なのだろう。随分と面倒なことをしているようだが、それもまた世界の形じゃ。」

  例えば、

  同じ『蜜柑』でも、同じではない。
  蜜柑という区別はあっても、個々に蜜柑という区切りがありながらもひとつとして同じものはないようなもの。

  存在はそんな不確かなものの上で成り立っている。

 「そして時間。
  これもまあ面倒なことで……まあ、元々この世界を作られる切っ掛けとしてあったものでは、時間も国の壁も随分と取っ払ってしまったようじゃしな。
  だが、世界として存在する上で不都合なことが起きた。
  それが、『時間』。」

  老人はそう言って、手を上げて指をひとつ、折り曲げてみせる。

 「何しろ前漢から普の国の時代まで、それはもう随分と盛り込んだしのぅ。
  その時間があれば出てくるであろう? 
  『相手』の歴史を知るという、矛盾が。」

  さらにひとつ、折り曲げる。

 「その歴史は先だ。過去でありながら未来でもある。
  あるものにとっては『未来』のものを、あるものは『過去』として知っている。しかも、その人物の終わりというものを。」

  さらにひとつ。

 「終わりは、死だ。
  その死が穏やかなものであるものは少なかろう。苦悶のうちに死んだかもしれぬ、志なかばで倒れたかもしれぬ、裏切られ、憎まれ……そもそも、終わりを知って、そのことを受け止められるものなど、少ないものよ。」

  さらに、

 「だからこそ、人々は知らぬのだ。『死』というものを。
  それが相手のものであれ、自分のものであれ、例外なく。死を忘れ、この世界の時間の中にいる。永久の平穏と、恒久の久遠の上に成り立つ、穏やかなこの世界で。」

  そして最後のひとつ。
  それを折り曲げて、老人は静かに嘆息を零す。

 「じゃが、例外が現れた。」

  思い出すように、老人は語る。
  語るその瞳に微かな同情と哀れみの光を宿し、静かに、静かに。

 「それが彼の鬼神よ。
  あれは自分の『死』を知っておる。他のものの『死』は知らぬようじゃが、問題は『死を知っている』という事実じゃ。」

  ゆらり、ゆらりと尻尾が揺れる。

 「この世界において、死は触れてはならぬ禁忌。
  世界の制約に違反し、なおかつ綻びを生み出す要因になるやも知れぬのじゃ。」

  ゆらりゆらり。
  暢気そうに尻尾を揺らしているが、その声はあくまでも静かで、

 「知らぬはずのものを知っている。
  それは世界の成り立ちまで脅かす。
  あるいは、他のものにもそれを及ぼすかも知れぬ……死という、記憶を。」

  それに耐えきれぬものはあまりにも少ない。

  死とは、それほどまでに恐ろしい。
  いくら今、この瞬間、生きているという事実があっても、その『記憶』は自分にあるのである。

  恨みを生むかもしれない。
  憎しみを生むかもしれない。
  あるいは、
  あるいは、

  そうやって綻びが生まれていくかもしれないのだ。
  成り立つはずのものを成り立たせなくしてしまう。この世界でさえ、脅かすかもしれない、と。

 「じゃがまあ、あいつはそんなものに興味はないじゃろうがな。」

  そう言って老人は可笑しそうに笑った。
  思いだし笑いのようだった。
  どこか穏やかで、顔全体で緩やかに微笑んでいる。

 「『世界』はそうは思わなかったらしい。じゃからこそ、今、あやつの身にあの変化が訪れておるのだ。」

  老人は知っている。
  誰も知らぬはずのものを、知っている。

 「言っておくが、ここにいる『儂』はあやつを小さくなどしておらんよ?」

  

  そもそも、



 「あれが『本当』に儂などという保証が、どこにある。」

  あれは呂布が語ったこと。
  呂布から伝え、聞かれたことなのだ。

  自身で確かめたものでは、ない。

 「つまりは、そういうことだ。世界など、その程度の観点しかない。」

  だからこそ、と老人は続けた。

 「不安定であり、不確定であるからこそ、制約で縛り付けねばならぬのだ。
  禁忌に触れるものがあれば、罰する必要があるほどに。」

  故に。

  だからこそ、念入りに。

 「…小さくなったのは、その前兆のようなもの。
  世界が人を消すには、念入りな下準備が必要であったのだ。例えば、『消える』という異常なことの前兆であるためのものであるように。」

  念入りに、準備をする。
  理を、静かに、音もなくねじ曲げていく。
 
  世界の上に立つ人々が前兆に気付かぬように。
  異変に、異変を重ねていく。

 「木を隠すなら森とはよく言ったものよ。
  そうしてまずは記憶から。
  次に存在を消していこうとしている。
  ……記憶をなくしたことを気付かぬように。存在がなくなっていくことを知らぬように。」

  ゆっくりと、あくまでもゆっくりと。
  まるで真綿で締め上げるかのように、その首にかかった縄に誰も気付かないように念入りにだ。

 「なぜ存在を消すか?
  ……異端なものを抱えていられるほど、世界は甘くはない。『世界』という自身が根底から存在をねじ曲げられるかもしれない要因を生かしておく理由など、あれには存在していないであろう。」

  そう。
  世界を守るために、異端を排除する。

  ちょうど、ひとが病気に冒されればそれを駆除するのと同じ原理なのだ。

 「記憶を消すのは、存在を消し去るのにそれを覚えていれば『軋み』が生まれるためだ。
  その軋みをなくすには、存在と記憶、その両方を消さねばならぬ。」




  無慈悲で。
  それでいて、当たり前のように。

  老人はそう呟いて静かに息を吐いた。
  顔を上げればそこには、




 「今起きていることは必然。
  じゃが、もし……」

  そこには、僅かな光がある。
  
 「もしも、」

  そう呟いた老人の姿が静かに闇に呑まれていった。
  呟く老人の声は聞こえなくなり、だが唇だけが上下を繰り返している。

  何かを語っているのに、それを聞き取ることが出来ない。




  理はあらねばならない。
  制約もそれに然り。

  だが、もし、

  もしも、






  そしてすべては闇に消えていく。


 『無題』






 <つづく>