月が出ていた。

  西涼から急いで戻ってきたとはいえ、さすがに国越えともなる距離を走ってくるのは時間がかかってしまった。
  夕暮れは終わり、夜のとばりが静かに国中を包み込んでいる。

  赤兎たちを厩に繋ぎ、張遼と呂布が揃って帰路へつこうかとしたとき、外はもう月明かりがあるだけで他の明かりはほとんど無きに等しいほどだった。

  静かに、ただ静かに。
  夜は続いている。
  春先だというのに昼間の暖かさはなりを潜め、今は身震いしてしまいそうなほどの寒さが肌をさす。

 「……すっかり遅くなってしまいましたな。」

  張遼はそう言って静かに息を吐く。
  やはり故郷からの帰りと言うのは後ろ髪を引かれる思いがしていけない。
  戻ることは必然。
  それでも、懐かしさや胸をつく郷愁をどうしたって凌ぎきるのは難しい。

  予定よりも遅くなってしまったことに溜息をつきつつも、後悔の想いはほとんどない。

  ソウダナ。

  それは呂布もわかっているらしかった。
  いつものように腕に抱いて月明かりだけが照らしている夜道を張遼は進んでいく。

 「久しぶりの故郷でしたが、いかがでしたか?」

  ……別ニ。

 「楽しくないわけではなかったのでしょう? ご兄弟や、厳氏殿たち……それに、程遠志殿たちとのワラも随分とお楽しみだったようですし。」

  そう言いながら、前の訓練風景を思い出したのだろう。
  おかしそうに張遼は笑い声を零す。

  それを腕のなかで聞いている呂布は不機嫌そうに、ギィ…、と声をもらしたが否定はしなかった。
  確かに、楽しかった。
  こちら(魏)にいては組めないようなデッキが、あちらには多い。

  程遠志たちとの軍勢もそうだったが、獅子馬超と組む全突も身が震えた。
  あれはあれで違った軍の運び方、戦い方がある。
  それを体験できたことは呂布にとっては他にはない楽しみだと言ってもいいだろう。




  (ただ、)




  ただ、もう、帰れそうにない。
  
  もう一度、が、自分には残されていないだろうということを呂布は感じ取っていた。
  いや感じずにはいられない。

  『存在』が透ける。
  存在自体が危うくなっているような状態に頻繁に晒され、あまつそれにトドメをさしたのが呂姫のことだ。

  彼女は、呂布との記憶を無くしていた。
  無くしていただけではない。あの時は取り戻すことが出来た。
  だが、別れのあの態度。
  あれは呂布を、呂布という存在が彼女から抜け落ちていることを決定づけたと言っても良い。
  
  記憶を無くす。
  それだけでも呂布にとっては大きな衝撃と痛みを連れてきた。

  しかし、『存在』を無くすということは、それとはまったく別のものだった。
  
  痛みはない。
  痛いという範疇を越え、どうすればいいのかわからない。
  心も何も、その事実を受け止められずにいた。
  受け止めればその衝撃が自分にどんなものをもたらすのか、呂布は想像もしたくなかった。


  あれが呂姫だけに起こったことなどという、生易しいことを呂布は思わない。
  希望的な観測もしない。

  するだけ無駄であり、縋ったところで裏切られることがわかりきっていることをどうやって自分に信じ込ませればいいというのだろう。

  呂布は人知れず溜息をこぼす。
  そうなれば、こいつも、張遼もまた、自分のことを無くしてしまうのだろう。



  無くす。
  無くして、しまう。

  それを想像することが出来ず、呂布は無理矢理に思考を閉ざす。
  
 「……奉先殿?」

  存在が無くなる。
  いつかの夜、張遼と同衾をしていた時、始めて透けた掌を見たときが始めてだった。

  ナンダ。

  それから幾度も、存在はなくなっては元に戻りを繰り返していた。
  だが、その透けている時間も範囲も、少しずつ長くなり広がっていったのだ。

  まるで暗示のように。
  不治の病であることを見せつけられるかのように、静かに、音もなく蝕んでいくそれ。

 「いえ。ただ何か考え込んでいらっしゃる様子だったので、どうしたのかと。」

  別ニ何モ考エテナイゾ。

  一気にやってこない。
  少しずつ、少しずつ。
  まるで死に神の鎌を首に押しつけられたまま生きているような気分だった。

  処刑台の階段を、一歩一歩、踏み出しているのにも似ている。

  その先にあるものをまざまざと見せつける。

 「そうですか。」

  アア。

  ………それに抵抗しようとは、呂布は思わなかった。
  抵抗しようという意思が真っ先に削ぎ落とされてしまったのだ。
  存在を根底から無くす。
  そのことにどうやって抵抗すればいい?
  どうやって『存在』というものを固定させればいい?

  きっとそれは誰にも出来ない。

  (あるいはそう、     なら出来るのかもしれない、が)

  自分の力に対して理解と限界を知っている呂布は、それ故に抵抗の意思を真っ先になくした。
  自分の力を知っているからこそ、これが自分にはどうすることも出来ない範疇のことであることを知ったからでもある。

  


  ただ、そう、ただ。
  出来るなら、あともう少し、

  もう少し、




  約束を、

 「…今度は、いつ戻りましょうか。」

  置いていかない。
  一人にしない。

  文遠?

 「どうせまた、戻って来いと言われるのですから、そうなる前に戻る算段をしてしまいましょう。
  奉先殿。今度はいつにしましょうか?」

  約束を、一度は破った。
  ひどい裏切りをした。
  遠い昔に張遼と交わしたあの約束を、真っ先に破ったのは自分のほうだった。

  だからこそ、

  だからこそ、今度はもう少し長く、

 「奉先殿。」

  あともう少し、
  もう少しだけ、




  ……ああ、なんと浅ましい。
  なんとまあ女々しい考え方だと、呂布は自分で自分の思考回路を嘲笑った。

  これが人から鬼神と恐れられ、化け物と蔑まれたものの考え方かと、心の冷えた部分が自身を嘲笑う。

  なんと身勝手な。
  不相応なことを思っているのだろう。

  嘲笑う。
  侮蔑する。
  これでは自分が心底嫌っていた卑怯者たちとまるで変わらないではないのか。


  ……今度。

 「…はい、今度、です。」


  もう少し。
  それは未来への約束。

  決まり事などない、まるで子供の児戯である指切りの信憑性を疑うのと同等のものだ。

  それでも、『今度』。
  また今度。

  
  ああ、それはなんて、遠い約束。


  …………オ前ガ、

 「はい?」

  オ前ガ、行キタイト思ッタ時、言エバイイ。

 「……奉先殿。」

  
  そしてなんて、とおとい、約束。

  
  抱き上げられた腕の力が僅かに強まった。
  そしてギュゥと胸の内にくるまれて、頭の頂点に顔を埋められてしまう。

  熱い息づかいが髪を通って肌に感じられる。

  文遠。

  呼びかけても返事はない。
  
 「………はい。」

  やがて嬉しそうな、感極まった声が呂布の耳朶を擽った。
  陳腐な言葉なのに、どうしてこいつはこんなにも嬉しそうなのか呂布にはよくわからない。

 「はい、奉先殿。また、今度。」

  ただ、ただ。
  抱きしめられた腕の中、首を不自由に巡らせながら張遼の肩越しに呂布は空を見上げていた。

  月が出ていた。

  寒気がするほど青白い月が、自分を見下ろしている。

 「また、」

  未来への約束。
  その言葉が自分の胸に突き刺さり、バタバタと赤い血を垂れ流しているような気がして呂布は瞼を閉じる。

  







  あと何度、こうして張遼といられるのだろう。
  あと何度、こうしてあいつと『約束』を交わすことが出来るのだろう。


  たったひとつの約束でさえ守ることができぬこの身を、あいつは知らないのに。









  そして存在
を無くし、










てとてとてと。
一夜明け、朝。
昨夜遅くに部屋の前で別れ、自室(とは言っても客室である。すでに長いこと使っているのでほとんど自分専用の部屋と化しているのだが)で眠りについた呂布は、今朝、いつものように朝陽が出る前に目覚めた。

起きたあとはいつものように自己鍛錬をして時間を潰す。
そして人々がようやく朝の生活を始めて、しばらく。

呂布はいつものように城の中の廊下を進んでいた。
特徴的な足音が人影のない廊下に響く。

 てとてと、てとてと。

なんだか気の抜けるような足音だが、呂布はもう慣れたものだった。
慣れてしまえばこの音もどうということはない。

やがて、廊下を曲がったところで見覚えのある人影を見つけることが出来た。

金色の鎧。

それだけで他には見間違えようもないのだが、呂布は口を開く。


文遠。


呼びかけた。

だが、張遼の反応はなかった。
聞こえていないのだろうかと呂布は内心首を捻るのだが、いつもの張遼なら自分の声を聞き逃したりはしない。
どんな状態でも自分の声を聞いていてくれるという絶対の信頼で持って、呂布はもう一度呼びかけた。

文遠!

呼びかけながら、近づいていく。

てとてと、てとてと。

足音が進み、やがて張遼が振り返って、









その表情に、呂布は衝撃とともに足を止めた。

振り返った張遼に表情などなかった。
見たこともないような無表情さで、呂布を睨め付けるかのように見つめている。
心臓を氷の杭で撃ち抜かれたようだった。

ゾッとした感触に襲われ、心臓が早鐘のように打ちつける。


まさか、
まさか、まさか、
まさか!


兆候はなかった。
昨夜別れたとき、張遼に『あの兆候』はなかったはずだ。
いつものように別れた。
いつものように別れ、そう、いつものように、




いつものように、と何度も繰り返すうち、呂布は深く慟哭し、絶望に打ちのめされた。

あいつらは、自分をもっとも痛めつけられる方法を用いてきたのだと、理解した。
 理解し、そして後悔とともに深く、深く、深く、ただひたすらに深く、絶望する。

『張遼』は無表情のまま、ゆっくりと口を開いていく。
その顔にいつもの感情はなく、吐き捨てられるかのように一息に言葉は紡がれる。









「…お前は、誰だ。」










絶望はこいつの姿をしてやって来るのだと呂布は彼の言葉を聞きながら、思った。

(約束を違えた遠い日の記憶が、自分に剱の切っ先を向けているような気分だった)







<つづく>