花はいずれ朽ちていく。
  それは、生命あるものの宿命。
  いのちあるものに限りはあり、終わりは等しくやって来る。

  春は芽吹きの季節。花々がそこかしこに咲き乱れる時期とはいえ、満開だった桃の花はもう見頃を過ぎようとしていた。
  ちらほらと降る花吹雪は日を追う毎に少なくなり、今では日に一度見られるかというほどにまで少なくなっている。

  枝にあるのは桃色ではなく、葉の緑。
  
  かわりに別の花が見頃を迎えてはいるが、それでも時間の流れを感じずにはいられない風景だった。
  あれほど美しかった景色も、終わりを迎える。

  時間は止まることはなく、過ぎていくだけのもの。

  ただ、それだけではないのだけれど、





 「もう行ってしまうのね。」

  呂姫はそう言いながら、自分の馬に荷物をくくりつけている張遼の側へと歩み寄っていく。
  声を掛けると、荷を縛る縄をくくり終えた張遼が振り返り、軽く頷いた。

 「はい。休暇の期間も、もう終わりですので。」
 「もっと居てもいいんじゃない?」
 「そうは参りません。『私』は魏の将ですから。」

  西涼の地に里帰りをしていた張遼の休暇も、もう日を幾らか残す程度になっていた。
  確かに西涼で過ごしていた日数を思い返せば結構な日にちをこちらで過ごしていたのだが、呂姫にとってはまるで彼が帰ってきたのがついこの間のように思えてしまってならない。
  
  もう少しいたらいいのに、というのは本音でもある。
  懐かしい彼の帰還が嬉しかったというのも、多少なりとはあるのだから。

  呂姫の言葉に、張遼は困ったように眉を寄せた。
  その顔は昔からよく見ていたもので、優しい色合いを讃えている。

 「……そうね。あなたは確かに魏の国の人間。」
 「それでも、故郷はこちらだというのは変わりません。
  ただ、あちらにも私の『くに』はあるのです。それを疎かになど、出来ません。」

  優しそうには見えるが言うことは、はっきりとしている。
  もう少し言葉を選んでもいいのにとも思いながら、そうであったのならこの張遼は『張遼』ではないと、呂姫も感じていた。

  苦笑いを浮かべながら呂姫はあたりを見る。
  張遼の帰還を見送りに来ている人々がそこかしこに集まっていた。
  ただ、彼らは話をした後だったのか、別の人物の元に集まっているのが見て取れた。
  よく見ると、呂姫の妹でもある少女達が率先して、その人物に熱心に話しかけているのが見えた。

  彼女の双子の妹など、顔を真っ赤にさせて詰め寄っている。
  照れから来る苛立ちの衝動なのだろう。ただ、詰め寄られているその規格外に小さな人物は困惑していた。

 「………あなたは、」

  視線を巡らせていた呂姫に気付いたのか、張遼が口を開いた。

 「あなたは、よろしいので?」

  挨拶に行かなくても、という言葉が暗に含まれているのがわかった。
  しかし呂姫はその言葉の意味がわからなくて首を傾げる。

  知らない人物への挨拶など、どうしてしなくてはいけないのだろう。

  今はたったひとりの知り合いである張遼の見送りを優先すべきであり、そもそもその人物にはその人なりの別れの挨拶をしているのだから、知り合いでもない自分がするべきではないはずだ。
  そう言おうかとも呂姫は思ったのだが、そう言う前に軽く張遼が首を横に振った。

 「もうご挨拶はすまされたのですね。これはとんだ見当違いのことを言いました。」

  ただ、何故か合点がいかないことを言っていた。
  わけがわからなくて呂姫は訝しく思うが、訂正するのが何となく面倒で、ええ、と頷いただけに終わる。

 「また帰って来るんでしょう?」

  ただ会話を途切れさせるのは何だかバツが悪くて、呂姫が話を元に戻すと、張遼は笑って頷く。

 「勿論。ここも私の故郷ですから。」
 「そう。」
 「出来れば呂姫殿も一度、魏の国にいらしてください。歓迎しますよ。」
 
  あちらは騎馬の国ですから見て自身の武の励みになることもありましょう、と張遼は言う。
  今の自分は槍を主にして使っているのだが、確かに魏の国の騎馬兵には興味はあった。

 「会いたくない輩もいるのだけどね。雲散とか機略だとか。」

  冗談めかして以前、戦場で相対した時に散々な目に合わされた相手のことを口にすると、それを聞いた張遼は可笑しそうに声を殺して笑った。

 「それはまた追々。それに、呂姫殿がおいでになればあの方もお喜びになることでしょう。」

  あの方?
  その単語に覚えはない。
  そもそも魏の国には張遼以外にめぼしい知り合いはいないのだ。

  曹操には散々な目に合わされたし、その軍師達には個人的にも顔を合わせたくはない。
  
  張遼は先ほどからわからないことばかりを言う。
  呂姫はそれがわからなくて聞こうと、口を開きかけた。


  そこで、銅鑼の音が鳴り響いた。
  時を告げる音である。

  それを耳にした張遼が名残惜しそうに、もうこんな時間ですか、と呟く。


 「呂姫殿、申し訳ありません。そろそろ出発しないと、定刻通りに戻れませんので…」

  苦笑を浮かべる張遼に、呂姫も名残惜しい気持ちになったがいつまでも引き止めていくわけにもいかない。
  彼には彼の生きる場所があり、それは最早、この西涼の地ではないのだ。

  呂姫は女である。
  だが、武将でもある。
  だからこそ同じ武将としての面が、張遼の心を察することが出来た。

 「ええ。また会いましょう、張遼。今度は、戦場でもあなたと会いたいわ。」
 「……姫様の天下無双・改は強烈ですからな。私としてはあまり歓迎しかねます。」
 「ふふ。あなたの神速の大号令にはまだ及ばないわよ。」

  懐かしい呼び名に、呂姫はおかしそうに笑みを零した。
  姫様、というのはもう随分と幼い頃の呼び方だ。
  少なくとも成長した彼女に用いられることは少なかったが、懐かしさも手伝って呂姫は自然とそれを許した。

  軽口をたたき合ったところで、張遼は身のこなしも軽く自分の馬の背に飛び乗った。
  手綱を手に取り、一度だけ呂姫のほうへと振り返る。

 「では、また。」
 「ええ、また。」

  簡単な約束の言葉を口にしあい、張遼が馬の腹を叩いて合図を出した。
  それを呂姫は軽く手を振ってから見送る。

  視線の先で、同じく馬に乗った同行者の元へと近づいていき、二三、言葉を交わしてから門のほうへと揃って進んでいく。

  見送りに来ていた一同が、その姿に声をかけ、約束の言葉をそれぞれに口にする。
  また、
  また、とは未来の言葉だ。
  約束のために交わされる、短いが、ちゃんとした言葉。

  未来のための約束の、ものだ。








 「……………ちょっと、呂姫!!」

  やがて張遼たちが門をくぐり、馬の速度を上げてしまって姿が確認できなくなったところで見送っていた呂姫へ怒声が響いた。
  呂姫が何事かと振り返ると、彼女の双子の妹が立っている。

  その瞳に、尋常ではないほどの怒りを讃えて、睨み付けられているのがわかった。

 「……姫? どうしたの、何か。」
 「どうしたのじゃないわ!  あの態度は何よ!」

  しかし妹の怒りの原因に身に覚えのない呂姫には、彼女が何でそんなに怒っているかまるで見当がつかない。
  困惑気味に様子を窺うと、その言葉がさらに妹の気に障ったらしかった。

  今にも掴み掛かるような勢いで詰め寄られ、呂姫が一歩、後退する。

 「小(ちい)ねえさま、何もそこまで。」

  そんな姉の姿に止めに入るようにして末妹が声をかけてきた。
  その側にいる兎の耳が生えたような不思議な生き物が、ぷぅぷぅと体で使ってやめるように進言している。

 「姫ねえさまにも何かあったのでしょう。そうでなければ、あんな……」
 「何かあったですって?! あんな態度を取っておいてそんなのが許されるとでも思っているの!」

  しかし妹の怒りは収まるところを知らない。
  それどころか逆に怒りが強まったようで、眦をつり上げて末妹にまで怒鳴りつける。
  声に驚いた小さな生き物が、末妹の服の影に身を隠すがそんなことにもおかまいなしだ。

  だが、呂姫はますますわけがわからなかった。

  自分はいったい何をしたというのか。
  張遼にはいつもどおりに話しかけていただけだ。
  軽口をたたき合い、少なくとも妹の怒りを買うようなことはしていない。

 「ちょっと、いい加減にしなさい。あたしがいったい何をしたって言うのよ。」

  そう考えているとだんだん理不尽なような気がしてきて、呂姫がムッとなって妹に言い返す。
 
 「張遼にはいつもあんな調子よ。あいつだって怒ってなかったんだし、そんなの…」
 「張遼のことなんて今、話してないわ!」

  呂姫の返答はしかし、妹の怒りをさらに買っただけのようだった。
  だとしたら呂姫に思い当たる節はない。
  何もしていないのにどうしてここまで怒りをぶつけられねばならないのかと、呂姫のほうも理不尽さに沸々と怒りが湧いてきた。

  それを如実に感じ取ったのは末妹のほうだったようで、慌てて姉を止めようと二人の間に割って入ってくる。

 「小ねえさま、そこまでです。」
 「末の、止めないで頂戴!」
 「いいえ、ここは穏便に……でも、姫ねえさま。ねえさまの態度にも問題はあります。」
 「小姫?」
 
  止めに入った末妹にまで自分が悪いと言われてしまい、益々わけがわからなくなって呂姫が聞き返す。
  二人とも何が言いたいのかわからないが、どうしてそこまで呂姫にとって意味の通じないことを話のかがわからない。

  すると末妹のほうが振り返り、呂姫を見た。
  静かな表情だったが、その瞳に小さな怒りを秘めている。

 「言わせていただきます。姫ねえさま。ねえさまのあの態度は、お父さまの心を傷つけられました。」

  一息で末妹はそう断じた。





  おとうさま





 「喧嘩をしていらしたのかは知りませんが、あれではまるで無視。その場にいないかのような態度ではないですか。」

  おとうさま、と末妹は言う。

 「お父さまも言葉にこそ出されてはいませんでしたが、気にしていました。
  何度も視線を送っていたのに、姫ねえさまはまるで知らぬふりで……」
 「そうよ! 何が気に入らないのかは知らないけど、あそこまですることないでしょう!」
 「小ねえさま、落ち着いて……」

  おとうさま、
  おとうさま、
  末妹にも、妹にも互いに互いの言うことが通じているようであった。

  なんとか抑え込んでいた妹の怒りがさらに爆発しかけたのを、末妹がどうか穏便にと押しとどめている。
  ぷぅぷぅと奇妙な声も聞こえてきて、

  止めて、

 「………………おとう、さま?」




  呂姫は、呟いてその言葉のあまりの空虚さに呆然とした。
  おとうさま、と。
  呟いても実感はない。
  
  おとうさま、

  おとうさま、

  お父様…?




  瞬間、

  呂姫は、体中に電撃が走り抜けるような衝撃に襲われた。
  同時に頭に耐え難い激痛を感じ、思わず呻いてその場にしゃがみ込む。

 「姫ねえさま…?」
 「ちょっと、呂姫!」

  呻いて突然しゃがみこんだ呂姫に妹たちも驚いたようで、口々に声をかけてくる。
  だが呂姫はそれを気にする余裕はない。

  頭はガンガンと鐘を打ちつけるかのように痛み、一向に止む気配はない。

  脂汗が吹き出し、痛みで体がブルブルと震えた。
  尋常ではないその様子に妹たちが声を上げ、それを聞いた一同が集まってくる。

  個々に声をかけ、医者を呼ぶ声も聞こえてきたのだが、呂姫はそれに応えることが出来なかった。



  痛みが、
  (何かを邪魔するかのように)
  痛みが、
  (遮る。邪魔をする。行く手を阻む。)
  痛みが、
  (記憶を、閉ざす。)
  痛みが、
  (元に戻るのを阻止するかのように、)
  痛みが、
  (そこにあるはずのものが『ない』ことを悟らせぬために。)



  ―――――お父様!?



  ガチン、と。
  音を立てたような気がした。
  自分のなかで、重いものに閉ざされた何か…扉かもしれない、鍵穴かもしれない。
  そんな、何か閉ざされていたものが急に開け放たれたような気がして、呂姫はハッと我に返った。

  我に返ると同時に、衝動にかき立てられてまわりの声も聞かずにその場から走り出した。

  呼び止める声がするがそんなもの気にしていられない。
  呂姫は無我夢中で走った。
  走りながら、無言の声を口にする。

  お父様。
  お父様。
  お父様!

  何度も何度も、祈るように、叫ぶように心の中で思った。

  どうしてなくしていたのだろう。
  どうしてなくしたことに気がつかなかったのだろう。

  『無くして』いたということに、なんの疑問もなく、気付かず、変わらずにいられたのだろう。
 
  そのことが恐ろしかった。
  ただひたすらに、その事実が重く自分にのしかかってきた。
  大事な人。
  愛する、たったひとりの父。
  それなのに、その存在を丸ごと『無くして』いたことに呂姫は感じたこともないような恐ろしさで身が凍りつくような思いがしていた。

  走る。
  ただひたすらに、走る。

 「……おとうさまっ……っ!」

  ようやく口にする。
  その言葉が空虚なものに感じられて、その感触にゾッとした。

  こんな感覚はあった。

  あの花見の時に『忘れていた』のだと思いこもうとしたあの時。
  あれこそが予兆だったのだ。
  どうして気にしなかったのだろう。気に止めていたら、もっと、もっと…!

  自分のことに苛立ちを覚えながら、さらに呂姫は走った。

  城の門。
  そこを抜けて道を走る。ただひたすらに走る。
  息が上がる。肺が、体が、急激な動きについてこれずに悲鳴を上げていた。

  だが、そんなことよりも恐ろしい。

  今、この瞬間でさえ『記憶が食いつぶされていくのが』わかるのだ。

  音を立てているのではなく、ただ静かに、粛々と。
  誰にも気付かれない速度で、それでも確実に記憶が蝕まれていくのがわかった。
  そしてそのことに何の感触もなく、感情も湧いてこないことがただひたすらに恐ろしかった。

 「お父様……っ!」

  知っているのだろうか。
  あのとき、呂布のことを無くしていた自分に対して、父は何も思わなかったのだろうかと呂姫は思う。

  もしかしたら、知っているのだろうか。
  
  人の機敏に敏感な父が、自分のおかしな変化に気付かないはずがない。
  それなのに呂布は何も言わず、ただ黙っていただけだなんて。

  そんなこと、ありえない。

  呂布は、知っている?
  父は、『どうなるか』を知っている?





  走っても、追いつけない。
  その姿はもう見えず、ただひたすら走り続けた呂姫は体のほうが限界にきてしまったのか、自らの足がもつれて転んでしまった。
  地面に叩きつけるように転がり、痛みを感じながらも必死で顔を上げた。

  地平線だけしか見えなかった。
  父の姿は、もうどこにもない。

  そのことが何かを暗示しているかのようで、呂姫は堪えきれずに叫んだ。


 「おとうさまぁっ!





















  (そして、その瞬間でさえ、彼女の体のなかから呂布という存在が掻き消されていくのである)
  (やがて、呂姫はどうして自分が泣いているのか、理解できなくなった)


  (かなしみの『存在』を無くし、その涙の理由が彼女自身から消え去ってしまったからだ)











  終わりの始まりへ、『全力』で向かう。





 −つづく−