春だった。
そう、季節は春。
春は芽吹きの季節だ。
生命の溢れる、柔らかな季節とも言えよう。
呂姫はそれを忘れていたような気がした。
そもそも季節の移り変わりなんて気にも止めていなかった。
寒いとか熱いとか、雨になったら地面がぬかるんで戦いにくいだとか。風が強いと髪が邪魔になってしまうとか。
戦いに関係することしか気にしなかったように思う。
余裕がなかったのだ。
他のことに気を回す余裕がなくて、空気や風、天気。
雲の移り変わり。
そんなたくさんのことを楽しむ余裕が足りなかったのだ。
そういえばこの前、董白がしていたのはこんな風な花見だった、とうすらぼんやりとあの時のことを考える。
その時、父親を奪われていたことに呂姫はもう心を痛めることはない。
心を痛める必要も、怒る必要もない。
嫉妬を、することだってない。
だって、今、
「……お父様。」
ナンダ、姫。
今、呂姫の膝の上には大好きな父が座っている。
小さな身体。
ちょこんと座っている重さは、本当に小さな子供くらいにしか感じられない。
振り仰ぐようにして見上げてくる顔は、首を限界まで逸らしてこちらを見ているせいで正反対だったし、真ん丸い瞳が不思議そうにこちらを見上げている。
それがなんだか嬉しくて、心がくすぐったくて、呂姫は笑った。
「お団子、もう一つどう?」
ウム。
正反対に上のほうにある呂布の口に、横に置いていた竹皿からお団子をひとつ取って差し出す。
ぱくり、と赤い舌と口腔が一瞬だけ見えたが、すぐに消えてしまった。
咀嚼しながら前を向いた呂布。
その視線の先には、ヒラヒラと舞い落ちる淡い色の花片。
風に舞うようにして、幾つも降る。
雨のように、けれど、雨のように一定の間隔で降るのではなく、風にちらちらと舞う程度だ。
呂姫は背にしている樹を見上げた。
目の先には、満開の桃の花。
「もうひとつ。」
姫。
「なぁに、お父様?」
オ前ノ分ガ無クナルダロウ。
春だった。
春真っ盛り。
でもこんな風に父親とのんびりとお花見なんてしたことがなかった。
それが寂しくて、いつも相手をしてくれた母には申し訳なかったのだけど、父親の不在は心にぽっかりと穴を開けていた。
「いいのよ。」
シカシ………
「大丈夫よ。まだたくさんあるもの。遠慮しないで。」
ム……
その穴を、今埋めている。
小さかったあの時はあんなに寂しくて、辛くて、泣いてしまいそうだった大きなものが、瞬く間に埋め尽くされていくのを感じている。
「ね?」
微笑んで差し出すと、少しだけ逡巡していたがやがて口が開けられる。
その口のなかに団子を押し込むと、呂布が焦ったような声を出したので呂姫はおかしくて声を出して笑っていた。
目眩のしそうな風景に、心まで埋め尽くされてしまいそう。
そしてきりのない『全力』を。−記憶、存在、時間。さぁ、なにから告げていこう。−
結局。
休憩という名目で鍛錬場から体よく追い出されてしまった呂布と呂姫は、どこへ行こうかという話し合いが行われた後、娘のほうが「お花見がしたいの」と言い出したことによって、城のなかにある中庭のなかでも人気の少ない奥まった庭のところへやって来ていた。
途中、厨房に寄って余っていた籠を貰い、団子と茶を持ってきた。
庭には桃の花が咲いていて、ちょうど八分咲きといったところだろう。
下のほうはちょうど散り際で、上のほうで桃色の膨らみが弾けそうなところまで花をつけていた。
他に人気はない。
だからこそ思う存分、呂姫は呂布を独り占めにすることが出来る。
ツンデレが出てくることもない。
自然に、本当に自然に呂布と接することが出来た。
膝の上に呂布を抱き上げようとした時はさすがに、娘にそんなことをされるわけには、と呂布は押しとどめようとしたのだけど呂姫が押し切った。
「董白にはしていたでしょう?」
アレハ……
「娘の私の膝はイヤだって言うの?」
ソウイウワケデハ…
などと言う押し問答ののち、結局、呂布が折れてくれた。
今は黙って、娘との花見を続けている。
時折、揺れる小さくて丸い頭を呂姫がゆっくりと撫でると、ちょっと怒ったように払おうとするのだけど。
「…もうすっかり春ね…」
ソウダナ。
「……ねぇ、お父様。」
ン?
「もうその大きさになってどのくらいたつの?」
………………………
呂布が指折り数えて、この珍妙(失礼)な姿になった月数をかぞえている。
右手の小さな指がひとつ、ふたつと折り曲げられて、それでも足りなくて左手の指も折られていく。
………………………
「……うん、もういいわ…」
そして左手でも足りなくなって、予想外にしょんぼりしてしまった呂布の様子にいたたまれなくなった呂姫がそれを止める。
思うより随分と長いことこの姿のままなのだ。
小さいという不便はあるものの、戦には支障はないので(支障が出るのに、それをものともしない呂布も呂布なのだが)呂布も詳しい原因を調べずに放っておいたせいもあるのだろうが。
「…治る見込みとか。」
ナイ。検討モツカナイ。
きっぱりと呂布が言う。
華侘モ、マルキリ検討ガツカナイト言ッテイル。
「ああ、あの超医師ね。」
脳裏にあの超医師の姿が浮かんでくる。
三国随一の医術を誇る彼でさえどうしようもないと言っているのだろう。
(原因究明のため、今でも調べてはくれている。昔のよしみもあってのことだ)
「………困ったわね。」
ソウカ?
「あのね、お父様。普通、自分がこんなことになったらとっても困ると思うの。
少なくとも私は駄目ね。きっと混乱しちゃって、今のお父様みたいに戦場になんか出ていられなくなるわ。」
呂布の様子はなんだかあっけらかんとしていて、呂姫は苦笑いを浮かべるくらいしか出来ない。
しかし呂姫の言い分を聞いた呂布のほうが不思議そうに首を傾げている。
ソウイウモノカ…?
「そういうものだと思う。」
受け入れている、とも言えるだろう。
もしかしたら、虫歯か何かとでも一緒にしているのかもしれない。
治らないときは仕方ないし、治るときには治る。
なってしまったらもうどうすることもできない。ならば、受け入れるのがいいのだろう、と。
そう思えて、呂姫はおかしそうに双眸を崩す。
「お父様らしいわ。」
あるがままを、受け入れる。
それはとても難しい。
だが呂布はそれを本当に当たり前のように受け入れてしまう。その姿勢は、とても強くて、真似が出来そうにない。
そう思ったからこそ感じたままを口にしたのだが、それを呂布はからかいと取ったようで不機嫌そうに声を鳴らした。
姫。
呼ぶ声も刺々しさを含んでいる。
「バカになんかしてないわ。」
本当カ?
「本当よ。ただ、難しいことを、そのまま当たり前みたいに受け入れられるのがお父様のすごいところだと思って。」
さすがだと思っているのよ、と重ねて言うと、呂布は不満そうではあったが納得はしてくれたようで頷いた。
視線の先には、相変わらずの花片の雨。
この景色のせいなのか。
それとも、いつもなら着ないようなものを着てしまったせいなのか。
こうして二人きりでいるせいなのか。
言葉が自然と出てくる。
伝えたいと思う言葉を、伝えることが出来る。
それがたまらなく嬉しかった。
つっかえない声も。
言葉も。
顔の温度だってそうだ。
そのどれもが自分の邪魔をしたりしない。
自然のまま、あるがままで伝えることが出来るというのが、嬉しい。
……姫。
「うん。」
答える。
呼ばれる声が、いつもより優しく聞こえるのは錯覚なのかもしれない。
片手でゆっくりと呂布の頭を撫でる。
指先から伝わってくるのは懐かしい暖かさ。
冷たすぎず、熱すぎない。ちょうど良い心地よさ。
ああ、
私はこの人のこどもなのだと、実感出来る。
おなじ温度だからこその、あたたかさ。
……懐カシイナ。
その時だった。
呂布が空を……きちんと言うなら、桃の枝から映える空を見上げながら、口を開いた。
「何か思い出でもあるの?」
呟いた声が昔を懐かしむような響きがあったので、呂姫は何か思い出でもあるのだろうかと聞き返す。
呂布は膝の上で体を反転させて、彼女をゆっくりと見上げた。
瞳。
黒い、吸い込まれそうな目。
そのなかに映る、薄い桃色の乱舞。
オ前ニ、桃ノ枝ヲ渡シタコトガアッタナ。
風が、吹く。
枝が大きく揺れて、花片がまた、落ちていく。
「……私?」
アア。オ前ガ風邪ヲ引イテイタカラ、ソノ見舞イニ。
埋め尽くすように、落ちる。
呂姫は大きく目を見開いた。
呂布は懐かしそうにそう言っている。
桃の枝を、渡したのだと。
風をひいて寝込み、桃の花見に行けなくなったという娘のことを厳氏から聞いたのだろう。
庭にあった桃からちょうど咲きかけだった花の枝を折って、それを、
「………え、」
渡した、と。
呂布はそう言う。
けれど呂姫は困惑した。
そんなこと、
そんなこと、しらない。
覚えていないとかそういう程度ではない。
しらない。
しらない。
……姫?
しらない。
空白の声が呂布にも伝わったのか、彼は怪訝そうに眉を顰める。
姫、ドウシタ。
覚えていないのか、と問う声が、遠い。
呂布の記憶力に間違いはない。
だが、呂姫は困惑したきりだ。
覚えて、いないのなら、
(ちがう)
ない。
ないのだ。
記憶が、ない。
その桃の花の記憶だけではない。
(ない。)
記憶がない。
ぽっかりと、穴が空いている。
記憶に、暗い空洞がぽっかりと口を開けているのを、呂姫は見た。
見えないはずのそれを、呂姫は確かに見た。
あるはずのものがない。
ない。
ない、のだ。
まるで何かに、墨汁で塗りたくられたかのように、記憶が、
姫!!!!!
大声で呼ばれて、呂姫は我に返った。
ビクリと大きく体が揺れて、瞳の焦点が合うと、視線の先で呂布がこちらを見つめている。
その手が自分の腕を掴んでいるのがわかって、そこでようやく呂姫は自分で自分の耳を塞いでいることに気がついた。
「……ぁ、」
声が震える。
出そうとしてもガチガチと歯の根が合わなくなってしまいそうで、ギュッと唇を噛んだ。
姫……
離した手が、じっとりと汗で濡れていた。
顔中から汗が噴き出している。
姫、ドウシタ…?
「………なんでも、」
ナンデモナイコト、ナイダロウ。
「……大丈夫。ごめんなさい、ちょっと…」
べったりと張り付いた前髪をかきあげる。
吹く風が肌に心地よく、思わず呂姫は大きく息を吸って背を逸らし、樹に寄りかかった。
膝の上の呂布は何か言いたげだが、何も言わずに呂姫の言葉を待っている。
それに気がついて、呂姫は瞼を閉じた。
桃の花の景色が消える。
それと同時に、ふ、と、
「………そう…雨が、降る前だったわね…」
姫?
訝しそうに呂布が聞き返す。
呂姫は目を閉じたまま、ゆるゆると『記憶』を、
「雨。そう、雨…あたしが寝込んでいて…お父様は、大丈夫かって言って…枝を、持ってきてくれたわ。」
小さい頃。
花見をすると厳氏と約束していたのに、その当日になって呂姫は風邪を引いて寝込んだ。
それを厳氏から聞いた呂布が、執務のあとに呂姫の部屋に顔を出してくれたのだ。
その大きな手に、桃の枝を持って。
ありがとう、と言った次の日、雨が降って外の桃の花は散ってしまったのだけど、部屋にあったその花だけはちゃんと咲いてくれた。
「……お父様。」
ありがとう。
そう、呂姫は呟いた。
瞼を閉じたまま、思い出すように繰り返された言葉。
目を閉じたままなのは、先ほどのことを繰り返すのではないかと恐ろしかったからだ。
恐ろしいだなんて、武神の娘にあるまじき感情。
それを早く取り払いたくて、呂姫はまだ目を閉じていた。
だから、気がつくことが出来なかった。
膝の上にいた呂布が、呂姫が自分の問いかけに答えようとしないことに怪訝そうに眉を寄せていたその顔が、突如として驚愕に彩られ、やがて見たこともないような絶望の色に染まっていくのを。
呂布は、『理解』したのだ。
呂姫の身に起こった出来事。
先ほどの言葉と、突然黙り込み、真っ青になった娘の身に何が起こったのかを。
理解し、そしてそれ故に、深く深く、絶望した。
瞳が緩やかに閉じられ、唇から空白の声がこぼれ落ちる。
「おまえは、
おまえは、ここまでするのか」、と。
−つづく−