夜が明けていた。
いつもの習慣で、陽が明け切らぬ前に覚醒を果たした呂布は横になっていた寝台の上で小さく瞬きをする。
何度か瞼を上下させると、意識がそれとともにはっきりとしてきた。
いつ横になったのかはあまり覚えていない。
そういえば昨夜は何があったのだろうかと考えながら、ごろりと体を回転させる。
そこで邪魔された。
正確に言うならば、顔面が何か硬いものによって遮られたのだ。
ムギュ。
思わずうめき声が出た。
だが思ったような痛みはなく、そろそろと頭を上に上げる。
そしてそこにあった光景に衝撃とともに、曖昧だった昨夜の出来事が怒濤のように蘇ってきた。
ああ、そうだ。
一人、合点をしながら大きく頷く。
昨日のことだ。
里帰りと称して西涼の地、そこにある董卓と馬騰などが主だって治める城に呂布達は帰って来たのだ。
簡単な挨拶(ついでに董卓とのいざこざ(いつものこと))などをこなしたあと、歓迎会だと言って大規模な酒宴が催されたのである。
飲めや歌えの大騒ぎ。
ところせましと並べられた美味なる食の数々。
そのせいもあってか、宴は酒が入ってみんなかなり出来上がってしまったのである。
彼の出来事から体がちんまくなってしまった呂布にも酒宴の矛先か向けられた。
何よりも小さな呂布というものにみんな興味があったのだろう。
酒の力も借りて、こっちのを飲め、俺が注いでやる、何ぃ私の酒が飲めないっていうの! と、それはもう散々な有様であった。
ただ、そんな呂布がこうして二日酔いにもならずいつものように目覚められたのには理由がある。
その理由の主が、先ほど、呂布の視界を遮っていたのだ。
「…………………」
時々、うめき声が聞こえてくる。
その主は勿論、呂布とともに今回、里帰りすることになった張遼その人である。
常日頃から『呂布の保護者』『おかん』と言われてる彼の鉄壁の防御(と、いう名の『私がかわりに呑みます!』)により、呂布は事なきを得たのだ。
かわりに張遼のほうは深酒をしすぎたらしい。
いつもなら呂布が起きた気配を察して起きるのだが、今は秀麗な顔に眉間の皺を寄せて台無しになっている。
たまにうめき声も聞こえてくるので酒のせいで悪い夢でも見ているのだろう。
起こしてやろうかとも呂布は思ったのだが、起きたら起きたで二日酔いの頭痛の地獄のような苦しみを味わうのが目に見えていた。
このまま寝かしておいてやるほうがいいだろう。
無理に起こしてやるのも忍びなく、呂布は静かに寝台から起きあがる。
室内を見回してみると、此処は客室のようであった。
呂布は南蛮の地にいることが多く、張遼に至っては魏の武将である。
室がないのは仕方のないことだろう。
しかし、張遼が呂布の隣に寝ているのは珍しいことであった。
常ならば、呂布が言い伏せて側にいる、ということはあったのだ。
自主的なのか、それとも二人揃って寝入ってしまったので……ああ、記憶を探れば、酒宴の最後のほうでは酔っぱらった張遼に抱き枕よろしく膝の上で思い切り甘やかされていたのだ…ここに放り込まれたのか。
まあ、後者なのだろう。
張遼が酒に酔っているとはいえ、こんなことするわけがないだろうというのが呂布の見解であった。
そんなことを思い、呂布は起きあがった姿勢のまま寝台から飛び降りる。
軽い動作で床に足をつければ、少しだけ開いた窓の隙間から朝陽が差し込もうとしているのが見て取れた。
起きたのだから丁度良いかと思いながら、呂布は室内を横切っていく。
てふてふと特徴的な足音がしたのだが、張遼の目覚める気配はない。
室内の扉を開けた時に呂布が寝台を振り返ると、やはり横になっている張遼は呻いていた。
たまに「あぁぁぅぅぅ……」なんていう意味不明な苦悶の声まで聞こえてきた。
……起こしたほうがいいのか、それとも夢を見る余裕がないほどの衝撃を与えて物理的に気絶させれば良いのかと今更ながらに迷ったが、結局、そのまま呂布は部屋を出た。
呂布が部屋を出てしばらくしたあと、意味不明な寝言を呟いていた張遼の手が誰もいなくなった隣の寝台の上を手探りでさがし、『…ほうせんどのぉ…』と呟いたことは結局、呂布が気付くことはなった。
そして張遼もまた、気付くことはなく、この出来事は誰にも知られることはなかったのである。
おなじもので、『全力』。−同じであり、おなじではない。同じではないが、おなじものでつくられている。−
昨日のうちに弟である飛将のから教わっていた鍛錬場へと赴く。
その近くにあった井戸で、冷たい水を汲み、顔を濯ぐ。
春先とはいえ、井戸の水はまだ冷たい。
ぴりぴりとするような肌の傷みはあるが、それがかえって目を覚ます要素になった。
濡れた顔のままで持ってきた手ぬぐいを探そうと手が宙をかくが、うまく見つからない。
近くに置いたはずなのだが、指先は宙をかくばかりで一向に捕まえられない。
行儀は悪いし効率も良くないが、手で少し拭おうかと思う。
しかしそれを実行に移すことはなかった。
あえていうなら、出来なかったのほうが正しい。
突然、背後から呂布が抱き上げられたからである。
気配などまったく感じられなかった。いや、気配も何もなかったので突然出て来た『それ』に呂布は驚く。
反射的に抱き上げた手を叩き落とそうとしたのだが、それよりも早く顔に何かを押し当てられた。
今朝からこればかりである。
しかも、相手はそのまま顔を乱暴に拭ってきたのだ。
痛い。
鼻と言わず肌までもがれるんじゃないかという豪腕である。
思わず呂布が、ギィ! と痛みに声を発すると、途端にその拭う手が止まった。
押し当てられたものが視界から離れると呂布は痛みに目を白黒させる。
何がなんだがわからず、とりあえず瞼をゆるゆると持ち上げてみる。
すると、いた。
眼前に、本当に目と鼻の先にあった。
顔である。
顔という表現しかない。本当に視界いっぱいに相手の顔があったのだから仕方ない。
怒鳴ろうとした気概もそれで逸れた。
呂布が目を丸くしていると、その顔の向こうのほうで別の声がした。
笑い声を含んだ、聞き覚えのある声だ。
「おいおい、蒼天の。いくら呂布だってそれじゃあ何をしていいのかわからんだろう。」
『蒼天』。
そう呼ばれた呂布の眼前の顔が、ぬぅっという音がしそうなくらいの動作で顔を背ける。
ようやくそれで呂布は誰に抱き上げられたかがわかった。
……兄者カ。
「う、うむ。」
呼ばれて、振り返りながら頷く声。
その顔は知っていた。
自分の兄なのだから知らないわけがないのだが、彼は、『蒼天』と呼ばれる呂布はつい最近、『こちら』に来たばかりなのである。
そんな蒼天は大きな体をさらに折り曲げて呂布を見つめている。
兄弟のなかでもとりわけ純粋で、それでいて思考回路が難解とされる蒼天は、弟でもある呂布とは幾度か面識がある。
こちらにやって来たばかりの頃、空腹で倒れていたところを呂布が見つけて拾ってきたのである。
(語弊もなく、本当に拾ってきた。武力10+は蒼天の巨体などものともしなかったのだ)
その恩があってか、それとも規格外に小さくて真ん丸い弟を気に入ったのかはわからないが、なんだかんだと蒼天は呂布のことを構いたがる。
ただし、その構い方が問題なのだ。
痛い。
物理的に痛い。
抱きしめられたこともあった。
今さっきのように顔を拭われたこともあったのだが、力まかせにしてくるのでそれがとてつもなく痛い。
さっきのも、鍛錬場にやって来たところで顔を濯いでいた呂布を見つけて、手ぬぐいを探していたから顔を拭いてやろうという心づもりだったのだろう。
だがしかし、下手だ。
今だって鼻がジンジンして痛い。赤くなってしまっているのかもしれない。
それを見てか、別の声が笑って呂布に話しかけてきた。
「おうおう、相変わらず蒼天はお前のことが気に入りみたいだな、弟。」
その主は豪快に笑って近づいてきた。
近づいてきたその姿を見上げると、この地には至極珍しい金髪と、碧眼がこちらを見下ろしている。
挑発的とも言えるその顔は、彼が彼たる所以をそのまま表しているかのようであった。
大兄モ一緒ダッタノカ。
「ああ。さっき、こいつが鍛錬しに行くのを見かけてな。俺も一緒にやろうと言って相伴に預かったんだよ。」
からりと笑う顔。
『本宮』と呼ばれる呂布は、兄弟のなかでも長兄に当たる。
天下無双をそのまま絵に描いたような豪放さには呂布も舌を巻くことが多い。
「そしたら、蒼天が顔を洗ってるお前を見かけてな。
手ぬぐいを探して困っていたようだったら、まあ、手を貸してやったわけだが………」
皆までは言わなかったが、本宮の無言の目が語っている。
おかしそうに目を細めているので呂布は機嫌悪そうにそっぽを向いた。
「あ、朝は、ま、ま、まだ、み水も冷たい。」
そこで今まで黙っていた蒼天が口を開く。
特徴的な話し方なのだが、自分の伝えたいことを心のままに伝えようと懸命に言葉を紡いでいる結果なのだろう。
それを耳にして呂布が蒼天を仰ぎ見る。
「ふ、拭いてお、おかないと、ささ、寒い。」
だから顔を拭ったのか。
合点がいって、それから文句を言う気も完全に失せた呂布は大きく溜息をつく。
何かまずいことをしたのかと蒼天は困惑した様子で眉をへの字に下げていた。
なんというか、それを見ていたら文句を言うのがバカバカしく思えてしまう。
現に言ったところでこっちのほうが悪いことをしているような気分になるのだ。
気に入らないものに関してはその豪腕、剛力を遺憾なく発揮し、『物理的』に黙らせる蒼天だが、根は幼い子供のようなものだ。
誰かを助けようとして余計なことをする。
その好意を、いったいどうやったら怒られるというのだろう。
そんなひとでなしには呂布もなった覚えはない。
……小兄。
呼び、自分を抱き上げている蒼天の腕を、ぽんぽんと軽く叩く。
言いたいことがあるから聞いてくれという意思表示はどうやら伝わったようで、蒼天はジィ、と呂布を見つめてきた。
………感謝スル。
「…………そ、そうか。」
ウム。
「よ、よかった。」
うんうんと何度も頷いて、よかったよかったと蒼天は繰り返す。
表情は代わり映えはないのだが、雰囲気がどことなく嬉しそうだった。
その二人のやりとりを見ていた本宮は、堪えきれずに、勢いよく吹き出した。
我慢の限界である。
「はははははははは! お前らは本当に面白いなぁ!」
黙レ!
その発言に、蒼天への怒りを押しとどめていた呂布が今度こそキレた。
じったんばったんと暴れるのだが、呂布の体を抱き上げている(片手で)蒼天の指が離れない。
それをいいことに、そして暴れているのにまったく動けない呂布が益々笑いのツボに入ったのか、本宮は大口を開けて笑い出す始末だ。
蒼天は困ったように暴れる呂布と腹を抱えて笑う本宮を交互に見比べる。
どうやら彼に呂布を離すという選択肢はなかったらしい。
ただ、本宮が呂布を怒らせたということは理解したらしい。
「あ、あ、兄よ。」
「おう、なんだ、蒼て」
蒼天の、ん、という言葉まで続かなかった。
ゴスゥ!
と、いう鈍い音がした。
それと同時に世界が揺れ、朝の宿り木にとまっていた鳥たちが甲高い声を上げて一斉に逃げ出していく。
本宮の声はない。
出せない。
何しろ、今の音は本宮の頭から発せられたものであるのだ。
正確に言うと、蒼天が呂布を抱き上げるために横に置いていた方天画戟を手に取り、彼の頭上に思い切りよく振り下げた音、であるが。
刃が当たらなかったのはさすがに兄弟心が湧いたからだったのかもしれない。
しかし、柄の部分だろうと十分痛いだろう。
その証拠に、本宮は頭に見たこともないような大きなたんこぶを作って昏倒していた。
一撃である。
それだけで同じだけの武力を持つ本宮を黙らせられるのはさうがの一言に尽きる。
蒼天の手に抱き上げられたままの呂布はあまりの出来事に唖然としている。
「お、怒らせては、だ、だだ駄目、だ。」
そんなこと今更言ったところで、本宮は聞こえないだろう。
大真面目にそう言い放つ蒼天に思わず苦笑いを浮かべながら、呂布はまあ、いい気味だと思うことにした。
思わなければやっていられない。
呂布も大概、人離れとしているがこの二人は別の意味でおかしな人物と言えるだろう。
これが陳宮の苦労か、と呂布は心のなかでこっそりと自分の軍師として日々、悲鳴を上げ、苦労を重ねている彼の軍師を思った。
今日は少し、優しくしてやろう。
そんなことを呂布は思った。
−つづく−