その日の朝。
日の光は昇りきり、その丸い輪郭を空へと示すようになってからしばらくして。
張遼は呆然として立っていた。
立っていた場所は部屋の入り口。客将を招き入れるための、少しばかり趣の違った部屋の扉のところ。
開け放した扉の中、そこには誰の姿もない。
簡素な作りの机や椅子、それに主のいない乱雑にされた寝台がある。
他にも細々としたものはあるものの、この部屋の現在の主となっている人物の姿はない。
空っぽの部屋は、いるはずの人物の気配でさえ保っていなかった。いつからここにいないのかまるでわからないほどに。
この部屋の主は、呂布だ。
しかし呂布の姿はどこにもない。
朝はいつもこの部屋にいて、張遼が来るのを待っているはずの彼はどこにもいない。
女官や世話役たちもどこにいったのか把握できていないらしい。右往左往し、あちらこちらで呂布の名を呼んで走り回っている。
そんなわけで、今、客室のまわりはちょっとした騒ぎになっていた。
その探し回る声と人々の動きに朝から何事かと、柱の影から顔を覗かせる同僚達の視線を一身に受けながらも、張遼はその場から動くことが出来なかった。
まさか拐かされたのか、とも思うのだが、あの呂布が素直に賊になど捕まるはずもないと、頭を振ってその考えを否定する。
呂布を誘拐しようなど、返り討ちにあうのが関の山だ。賊など即座に切って捨てるだろう。
体が小さくなったとは言え、呂布の武勇はまるで遜色なく発揮されているのだ。
しかしながら、姿が見えないことも事実であった。
行方を知っているものも誰もいない。
まるで風にでも攫われたかのように、その行方は依然として知れない。
胸のうちに一瞬、不安が過ぎる。
おいていかれたのか、
空白の声が張遼の胸のうちに浮かんだ。
しかし即座にその考えを否定して張遼は硬直しながらも室内を見回してみる。すると、机の上に何かがあることに気付いた。
灯台もと暗し。
大騒ぎになっているため室内にまで気がまわらなかったのだろう。今まで気付くことさえ出来なかった。
近寄ってみれば、それが紙切れであること。そしてそこに何かが書かれているのが目に入る。不審に思い、それを手にとって、張遼は目の高さにまで紙を持ち上げた。
墨で書かれたそれ。
そこには実に簡潔に、ある一文が書かれていた。
『呂布をちっと借りてくぜ☆ 劉玄徳』
実に簡潔。まるでその声が聞こえてきそうなあっけらかんとした言葉。さらに何の断りもないままの、突然の行動。
張遼は目眩を覚えて一瞬、体が揺らいだ。そして同時に、心の奥底からぐらぐらと沸き立つ感情に頭の中が支配される。
ぐぅ、と拳を作り、額に青筋を浮かべ、張遼は腹の底から力の限りで叫んだ。
「何が『ちっと借りていくぜ☆』だぁぁぁぁぁ!」
今にも額と言わず手の甲にまで浮かんだ青筋が切れて血管という血管がぶち切れて出血するのではないかと思うほどの大音量だった。
不幸にもそれを聞いてしまった世話役の何人かが腰を抜かし、女官たちが手に手を取って身を震わせる。
廊下で何事かと様子を見守っていた武将や、同僚たちもびっくりして眼を丸くし、そして自分の身可愛さにその場からダッシュで逃げ出していく。
しかしながら約一名、いや約二名ほど「ああ、劉備らしいな」と笑った人物もいたらしい。
それは魏の総大将、曹操(三男と次男)に他ならなかったのだが、あとの人物は誰も笑えなかった。次兄であるはずの横山曹操は溜息をもらし、末の弟は気怠そうに深く渋面を作る。
もっとも、長兄である曹操(蒼天)は手を叩いて『愉快愉快』とご満悦だったようだ。
だが。
だか、妙な納得もしてしまう。あの劉備(大徳)ならやりかねないなどと思ってしまうのだが、呉では泣く子も黙ると言われる張遼の怒りに火をつけるような発言は控えたいのが人の心というものである。
ある秋の日。以上のようなことを経て、呂奉先は劉備につれられて蜀陣営までやって来ることとなった。
<『全力』で出張して行きました。>〜だからって人さらいはどうかと……〜
そして所と時は代わり、蜀の陣営では。
少しばかり遅い朝議が行われている執議の間で今まさに魏の国で色んな意味で話題になっている劉備が玉座で立っていた。
「つーわけで。しばらくうちに来ることになった呂布だ!」
みんな仲良くするんだぞー! と、満面の笑顔で劉備が呂布を片手で持ち上げる。
前置きもなにも、へったくれもあったものではない。
朝議の席でいきなり『来るから』と言ったあとの発言である。「つーわけで」などと言われても何がどういうわけなのか誰も理解することが出来ない。
誰も劉備の発言についていくことが出来ず、しかし何かをやらかしたことだけは既に経験上、嫌になるくらいに今までのことで察したほぼ全員が大きな溜息をついた。
劉玄徳。
この君主は、なんというか、自分の思ったことをそのままやってしまう男であった。しかも暴走気味。止めることは至難の業でもある。そして困ったことにその『やりたい』と思ったことを実行してしまう力を併せ持っているのだ。
そのせいもあって、部下達は既に「またやったんだなぁ」程度の認識だ。
実際問題として、劉備を止められる人物は蜀には少ない(諸葛亮くらいだ)のでどうしようもない。
もはや溜息と諦めの声しか上がらない中で、呂布はあたりを見回してから、何かを思い出したのか、自分を持ち上げている劉備のほうへと振り向く。
劉備。
「おう。なんだい、呂布。」
名を呼ばれ、片手で軽々と持ち上げていた呂布を劉備が目線の高さまで彼を下ろした。視線を合わせて、首を傾げながら先を促す。
張遼ニ言ッテナカッタ。
「張遼……? ああ、ここに来ることかい? 平気平気、ちゃーんと書き置きは残しておいたし。心配すんなって。」
にっかりと満面の笑顔、そして大丈夫だという自信を込めて言い切った劉備に、呂布もしばらく黙り込んだあとに納得したのかこっくりと頷く。
それなら良い、という意思表示らしいが、実は劉備の言ったその書き置きというのがたった一言っきりで、さらに付け加えるならば今回のことが誘拐に近いことを側で見ていた魏延だけはわかっていた。
しかし言えない。
言ったら言ったで面倒なことになりそうな予感はしていたし、もう心身ともに疲れ切っていたのでそんなことはごめんだったのだ。
真実を伝えることも出来ず、そして劉備の素行も止めきれず…そもそも言い出したら聞かないのが劉備だ。今回のことだって早朝いきなり起き出して『呂布と一緒に戦いてぇな!』の彼自身の思いつきで実行してしまったのだから…魏延は腹の底から深い溜息をもらす。
顔色は悪く、疲れ切っていたからその心情を察するのはたやすい。事実、その場にいた面々にも、魏延の溜息から劉備の発言が彼の気ままな思いつきで実行されたことを察した。
察したがゆえに納得と同情を重ね、そして誰にも止められないことを悟る。
そんな部下や臣下たちの心情などお構いなしで、脳天気そのものの声で劉備は笑っている。
白い歯を覗かせている姿は、遊びたい盛りの子供にも似た輝きさえ放っている。
「まあ、しばらくしたら戦もあるし、そんときにお前と一緒に進軍するとして……で、だ。呂布。せっかく来たんだ、ちっと茶でも一緒にするか?」
お前のこと(ちっこくなったこと)も聞きたいしな、と笑顔で言う劉備であった。
同意を求めているようだが、その笑顔には底知れない強さというか、押しの強さがある。思わず呂布もすぐには返答することが出来ず、しばらく考え込むような仕草を見せる。
だが悩んでみたところで、結局、呂布も劉備が気に入っている。
張遼や高順たちとはまた別の意味で、だ。彼らとはまた違う位置に、劉備という人物は存在している。
劉備は笑う。
本当にあっけらかんとした笑顔で、呂布そのものを見る。そこに偏見や周りの意見など入る隙はなく、本当に自分から見たもののみを信じうるものとし、信用して、信頼する。
『どういうこと』になっても部下としての一面がある張遼たちとはまた別のところにいる。
そこに立ち、遠巻きにすることなく自分から呂布のほうへと近づいていく。
この人間味に溢れた、人徳というか誰も彼も寄せ付けて、呼び寄せて、ついでに気に入った者までも引っ張り込んでしまう、そんな不思議な魅力を持った劉備という人間を、呂布自身が惹かれているのもまた事実であった。
だから今回も、朝早くからいきなり部屋にやって来た劉備が『呂布、一緒に蜀に行こうぜ!』などという発言をしたことにだって驚きながらも、いつの間にか丸め込まれて了承してしまったのだ。
呂布は、好きなものにはとことん甘いところがある。
真っ正面から押されると意外と弱いのだ。普段、自分から押しまくっているところがあるので、やられると対処の仕方がわからないらしい。
今もニコニコと人好きの良い笑顔を前にして断るの悪いような気がしてならないのを、呂布は感じ取っていた。
「いけませんよ、殿。」
しかし答えようとした呂布よりも一瞬早く、劉備の背後から落ち着いた声がかけられる。
その声を聞いた劉備が思わずぎくり、と身を竦ませるその相手。
そう、蜀の中で数少ないと言っても良い。
あるいは、関羽と双璧を担うと言っても良い人物。
劉備の手綱を握れる、数少ない実力者にして、蜀の大軍師。
しゃらり、と静かに服の裾を揺らめかせて、その男は主君の背後へと近づいてくる。
「…いいじゃねぇかよ、孔明…」
胡乱な表情で呟きながら劉備が後ろを振り返った。
その視線の先で、白い羽扇をひらめかしながら渋い顔をしている諸葛亮その人が立っていた。
主君の恨めしそうな表情など何処吹く風。
ぴしゃり、と口元を隠していた羽扇で自分の手元を軽く叩いてみせる。
「よくありません。あなたが魏の陣営に出向いている間に、いったいどれほどの職務がたまっているとお思いなのですか。」
だいたい、遊びたいのなら先に片付けておけば良いのです。それを後でやるからと放り出すから……などと、諸葛亮の説教は続いていく。
静かに、静かに、しかし反論など許さない懇々とした説法というのは、言われている劉備だけでなく、聞いている呂布にとっても居心地の悪いものであった。
大抵、誰でも説教など聞いていていい気分になれるわけがないのだが、蜀の大軍師である彼の説教はとにかく的確に相手の懐の弱いところを刺す。
刀で切るのではなく、針のような細い先で幾度も突き刺すようなものだ。一気にばっさりいくのではなく、長い間時間をかけてじわじわと弱らせていく。
はっきりと言おう。かなり辛い。
眉を寄せてどうにかしようか、と呂布が思っているところへ、横合いからひょいっと腕が出てきた。
劉備のすぐ横。
そして彼の腕にいる呂布を片手で持ち上げているのは筋骨のある腕。
「兄者、仕事があるんだったら先にしちまえよ。」
上半身は肌がさらされ、そして幾分か野太い声。しかし人好きのする、付き合いやすい声質でもある。そして劉備を『兄者』と呼ぶのは、蜀の中でも『彼ら』しかいない。
劉備が半ば半眼になりながらも横のほうに振り返る。
「よくとくぅ……」
「仕方ねぇよ。呂布は俺が相手してっから、早く終わらせて来いって。」
恨みがましい長兄の劉備の声に義弟(末弟)である張飛は苦笑を浮かべながらも彼を宥めた。
迫力のあるいかつい顔をしているのだが、浮かべる笑みはどことなく大きな熊を思わせて、見るものから見ると親しみやすささえ感じる。
張飛カ。
自分を腕にする張飛の顔を見上げる呂布に、彼は人の良い顔でニカッと白い歯を見せて笑顔を見せる。どことなく劉備に似て人好きのするこの顔は、呂布も嫌いではない。
戦場で幾度か武器を交えてもいたし、そのせいかなんとなく通じるものもあった。
「ひっさしぶりだな、呂布よぅ。どうだ。兄者の仕事が終わるまで、俺と鍛錬でもしねぇか?」
勝負カ?
「それもいいな。」
がっはっは、と大きな口を開けて実に楽しそうに張飛が笑う。事実、呂布との勝負に身体が先に動いているようだ。
そんな裏表のない表情に、呂布も心も惹かれた。
イイゾ。
一言、そう言ってこっくりと頷く呂布に、張飛は、まってました! とばかりに顔を輝かせる。
「おう、じゃ行くか。」
話はまとまった。
ここから先にある鍛錬場にするか、とか、使用する武器はどうするかなどと楽しげに話ながら、そのままさっさと長兄を置いて言ってしまう義弟に、劉備は半ば恨みの声を上げる。だがそれも諸葛亮に手早く止められて、そのまま執務室へと連行されていった。
主君の威厳も何もあったものではなかったのだが、呆然と一連の流れを眺めていた蜀の武将たちは、はぁ、と言葉もなく溜息をつくしかない。
結局のところ、いつもこんな感じなので彼らは慣れていたのだ。
諦めの境地なのか、あるいはそれでも人心が離れていかないのは劉備の持つ人徳のおかげなのかは知れない。
しかしながら、人々の心がひとつとあるのは国としては良い意味で機能している証拠。
人々は溜息を一つついた後、それぞれが自分の仕事を始めるために動き出す。
こうして蜀の一日が始まるのである。
執務室にて。
諸葛亮にズルズルと連行されていった劉備は机の上に山盛りになっている木簡を前に顔を歪めていた。
当の軍師はと言えば涼しい顔で、あれやこれやと執務の内容を吟味している。
「だいたいですね。あなたの『お兄さん』や『弟』だってちゃんと仕事はこなしているんです。」
「もういっちょの『兄貴』はそうじゃねぇだろうがよぉ……」
「だまらっしゃい。今度逃げ出したら、弟に雷を落として貰いますよ。」
うへぇぇ、と情けない悲鳴が蜀君主専用の執務室に響き渡る。ちなみに、先の諸葛亮の発言は冗談などではないので恐ろしい話である。
『弟』や『兄』のそんな様子を眺めつつも、『六兄弟』の他の五人もまた黙々と仕事をこなしていた。約一部、唸りを上げているものもいるが、それも優秀な軍師や文官が揃う蜀の陣営。各々が手伝いをしたり助言をしたりと手助けをするのも忘れてはいない。
これがまた、蜀の君主である劉備の人徳の成せるものというわけなのか。
(ちなみに、蜀の総大将は『六兄弟』である。大徳と呼ばれる劉備は四番目にあたった。)
さらに一方、その頃。
自身の武器を使って鍛錬場で果たし合いをすることになった呂布と張飛がとりとめのない話をしながら廊下を進んでいくと、前方に見知った人影を見つけた。
「魏延。」
張飛が声をかけると前方の人影が立ち止まり、くるりと振り返る。
その側へと張飛たちも近づいていった。
「これから呂布と試合しに行くんだけどさ、お前も一緒に来るか?」
「………別にかまわないが…」
久シブリダナ、魏延。
張飛の腕に抱き上げられたままの呂布が魏延を見上げて声をかける(ここ数ヶ月で、片手で抱き上げられるなどの行為に慣れきってしまったために現在の扱いに怒りもしない。)。
そんな『友』の挨拶に、魏延も不器用ながらも唇を緩めた。
「ああ………呂布。」
ナンダ。
「いや……すまないな、殿がまた思いつきで、お前にも迷惑をかける。」
気ニスルナ。
魏延の言葉に首を横に振り、俺も来たかった、などと呂布は臆面もなく言ってのけた。
何の損得勘定もなく、掛け値なしにそう思っているからこその言葉である。
それを聞いた張飛が、そうかそうかと豪快に笑う。
魏延は諦めたような顔をしつつも、やがて不器用な形の笑みを浮かべて頷いた。
「そうだ。どうせなら超雲たちも呼ばないか。お前も知り合いだろ? 何度か馬超と一緒に戦場で暴れ回ってたみたいだし。」
ウム。
「ああ、それなら……俺の弟も呼んでいいか?」
弟ガイタノカ。
「不肖のな。一度お前の武を間近で見たいと大騒ぎしていたんだ。」
あれやこれやと話し合いながら三人(一人は足がついていないが)は廊下を進んでいく。
どうやら、蜀の五虎将や実力者を巻き込んだ大騒ぎになりそうな様相を秘めている。
実際、それをわかっているのかいないのか、張飛は姜維たちも呼んでやろうと張り切っている。呂布は強いものと戦えれば何でもいいようで、ウズウズと楽しみなように目を輝かせているのだが。
蜀の君主の思惑。
呂布自身の興味。
そんなものが色々と合わさって、しばし呂布は蜀の陣営へと『誘拐』されることとなった。
まあ、お約束のように。
その頃、魏では呉を震え上がらせた鬼神が大暴れしていたりしたのだが、それはまた別の話。
<つづく!>