時は、群雄割拠の時代。
現在において『三国志』と呼ばれるようになる物語にして、事実の、そんな『人』の生み出す産物の時代。
『そこ』は、時が複雑に絡み合う。
『そこ』は、時が逆境し、あるいは先へと進む。
『そこ』は、あるはずのない出会いが存在する。
そんな、場所だ。
そしてその国には、数えきれぬ『神』が存在している。
いや、神というべきものではないのかもしれない。
彼らを見守り、あるいは力を貸す存在である、と言ったほうが正しいのかもしれない。
彼らの想いは数多い。
彼らの想いは幾重にもかさなっている。
そう、だから。
想いが生み出すものというのは、時として『予期せぬ』ものを生み出す。
それがいかなる物語を紡ぐのかはまた、誰にもわからないものだ。
〈開幕〉
戦場は夕刻。黄昏の時。
地平線へと落ちていく巨大な赤い陽を見送りながら、張遼はぼんやりと戦場に立っていた。
そろそろ戦が始まる。
遠く、戦場に木霊する銅鑼の音を耳にしながら、手に持った愛用の偃月刀の柄を軽く握り混む。
掌によく馴染むその感触を感じ取り、しかしいつものその感覚にも気分が乗ることもなく、張遼は一人溜息をつく。
もうすぐ戦が始まるというのに、心はそのほうへ向かない。
むしろ、重くなっていく一方だった。
……………乗り気ではない、と言ったほうが正しいのかもしれない。
『ここ』は戦場。
『ここ』は多くの軍勢が集い、武将が集い、戦っていく。
そう、『ここ』では、
『ここ』は、様々な武将が集う。あるいは、『軍』が違うものでさえも集い、肩を並べる時だってあるのだ。
どうやら自分がいた『次元』とは明らかに別物らしい。人々は暮らし、また生きてもいる。だが大陸を舞台とした壮大な統一戦争はすっかりなりを潜めていた。
戦いで人が死ぬこともない。
また、時間の流れもおかしい。すでに死んだ、と思っていた者まで全盛期の姿で生きて、あるいは年齢に差があったはずのものまで同い年に見えてしまう始末だ。
それを決めるのはいったい何なのか……いや、もしかしたら『誰か』の悪戯であるのかもしれぬ、とさえ思う時もある。
戦いが起きてもそれは戦場だけ。しかも死人も出ない。怪我人はたまに出るものの死ぬようなことはまずない。
そして何というか、気軽に別の軍から客将までやって来るのだ。
たまに全然まったく縁のないもの同志が組んでいる時だってある。
そして戦の勝敗は国に直接関係するようなものではなく、君主達も気にしていないようだ。
殺伐とした雰囲気はなく、だがしかし負けるのは悔しいからきっちり勝ってこいという。
張遼もまた、あまたの戦場を駆け、様々な武将達と馬を並べてきた。しかし今回のような出陣は始めてたったのだ。
来るのだ。
そう、『来る』。
様々な武将が集う『群雄軍』の中でも、特に雑多な、良く言えば多種多様な武将が集う『そこ』から呂布が。
あの鬼神呂布が、今回張遼と共に戦うのだと、聞いている。
何をどうして曹操がその軍と密約を交わしたのかは知らない。しかし、戦の前に張遼は半ば一方的にその旨を知らされ、困惑しているところを放り出されてしまった。
……だからこんなにも気が重いのか、と張遼は独りごちた。
だがそこで自分の思いに否定を示して首を横に振る。『今』の自分が呂布と別れたあとの『自分』であることは当にわかっている。
その状態をどう説明していいのかはわからないのだが、今の自分は呂布とはすでに別の場所にいる。
かの鬼神を『なくしてしまった』あとなのだから。
しかし、そんな状況であっても戦は戦。
命令とあれば従うまで、と思い直し、心を戦へと埋めていく。
今回の『戦』は思えば集う武将たちでさえも、魏と別軍勢のいわば『二種混合』であると聞いた。。
呂布の他にもう一人、司馬徽が来るという。
そして魏からは張遼と王異が出る。
ある意味、堅実な組み合わせと言っても良い。弓兵である二人を騎兵である張遼と呂布が守る。王異は計略使いとしては優秀でもあったし、司馬微も非力ではあるが同じくだ。
今回の出立には話を聞いた張遼は驚いたのだが、言い渡した当の曹操はというと涼しい顔であった。
『たまには良いだろう。つもる話もあるだろうし……戦場で、語り合って来い。』
困惑した張遼に曹操はそう申しつけた。
何やら企んでいそうな(実際、企んでいるのだろう)顔をしていたのだが、それを諫めるほど張遼もバカではない。
諫めるのはそれを苦い顔で眺めていた夏侯惇と荀ケに任せるとして(後者のほうが的確だろうとも思う)、張遼は戦場へと出た。
そこまでで一旦、自分の思いを打ち切って顔を上げる。見上げれば地平線にある太陽はより一層、その深みを増していた。
赤い。
赤い、太陽。
今にもこぼれ落ちそうな陽の光。長く伸びた黒い影。山々の形。
耳にしている銅鑼の音も近い。
そろそろ本格的な戦が始まるのだろう、と判断し、張遼はいつまでもこんなところで惚けているわけにもいかないと思った。自軍へと戻ろうと踵を返す。
ぶんえん。
その時だ。
耳元に聞こえてきた声に気付き、張遼が驚いて足を止める。
懐かしい声。
そして、忘れもしない声だった。
思わずあたりを見回すが、そこは相変わらずの荒野。
落ちる陽だけが大地と張遼の姿を照らしている。
ぶんえんっ。
しかし声が。
声が、聞こえる。あたりを見回してもやはり姿はない。だが、その声を張遼は知っている。聞き間違えるはずもない。
「…………奉先殿?」
その声は、まぎれもなく彼の『主君』であった呂布のものであった。
迷わず常にしていた字を口にし、あたりを見回す張遼だったが、やはり姿が見えない。
「奉先殿、どちらに?」
そのままぐるりと視線を巡らせる。
赤い陽だけが視線を焼いて……
下ダ、文遠!
「は? 下……?」
声の示すとおり張遼は足下へと視線を下ろす。
おろし、そして驚愕した……というより、驚きのあまり思考回路が一気に膠着状態に陥ってしまった。
いた。
確かに、呂布はいた。
下に。
そう、下だ。
しかも張遼自身の足下に、だ。
呂布は背が高い。普段の張遼が少しばかり視線を上げる程度に背もあるし、体格も良かった。
(追記しておくが、張遼自身も並みいる群雄たちの中でも背の高いほうである。)
そんな呂布がいるのだ。張遼の『足下』に。
倒れているわけではない。ましてや、座り込んでいるわけでもなかった。
立っている。
確かに、二つの足で立ってはいる。
「……ほう、せん、どの?」
ヤット気ガツイタノカ、文遠。
そこにいたのは、子供の…いや、むしろ赤ん坊ほどの大きさしかない、『小さな』呂布だった。
しかもなんだか丸っこい。
ふくふくとした頬。
鎧は着込んでおり、鈍色に光り輝いているもののどこか簡略化されたような柔らかさを感じる。
手は紅葉の葉ほどしかない。
瞳も、いつもの鬼神のごとき鋭さはなく、なぜか見入るような柔らかさが存在している。
しかも二頭身だ。顔と体がほぼ同じ大きさというのは、奇妙なアンバランスさがあるのにそれが成立したような感覚さえ受ける。
張遼がようやく自分に気がついたことに満足したのか、呂布は胸を張り、「遅イゾ。」と言った。
いや、遅いと言われても。
張遼はそう思ったのだが、逆に呂布の言葉を聞いたことで反射的に合いの手を思ってしまい思考回路が繋がる。
「……奉先殿、その……いかがされのだ?」
半ば呆然とした状態ながらも当然の疑問を張遼が口にすれば、呂布が機嫌悪そうに呻く。
表情はあまり変化がないのだが、張遼にはわかる。
ワカラン。
「わからない、と申されますと…?」
気ガツイタ時ニハ、コウナッテイタ。
返事はかなり簡潔なものだったが、呂布自身にも何故自分がそういう状態になったのかわからないのだろう。
何の揶揄もなく『わからない』という時は本当にわからない時なのだ。
張遼はそう感じ、それけで一時的にとは言え納得してしまって、「そうか」とだけ返した。
そしてそのまま片膝を折り、呂布のほうへと手を差し出す。
あまりにも自然な動作で、張遼は自分でもどうしてこんなにも『膝を折る』行為に抵抗がないのだろうかとうっすらと思う。
それでも抵抗がないのは、当たり前のこと。
そう、とても、当たり前。
長い長い間そうして来たのだ。だから体が覚えている。たとえ『なくして』いても、変わらない。
「どうぞ。」
文遠?
差し出された手に呂布は字を返すことで疑問を返す。
その手の意味がわからないのだろう。張遼もどう言っていいのかわからない。しかし呂布には答えなければいけない。彼は、自分が理解できないものを、答えを求めたものを無言で返されるのをひどく嫌うから。
「……いえ。」
こんなことを言えばあなたは怒るのかもしれないが、と先に前置きをして、口を開く。
「遠いと話が通じにくいので。」
だから、と言って手を差し出す。
「私の腕の上にでも乗ってください。そのほうが、私も話しやすい。」
沈黙が。
沈黙が、その場を支配した。
しん、とした場に張遼も自分の言った意味に気がついたのだろう、ハッとして我に返る。
私は今、何を言ったのだ、と思う。
だが自分の口からも、そして今の動作も、どうして自分がこんなことをしているのかわからない、と言った状況だった。
あまりにも自然に何の意図もなく、何の考えもなく、そんなことが出来てしまうのが自分でも不思議なくらいであった。
………フン。
だがそこでようやく、呂布が声を発した。
どことなく呆れたようなものだったのだが、張遼の葛藤を知ってか知らずか差し出された腕の上にひょいっと飛び乗った。
重さはあったものの、鍛え上げたそれには気にする程度でもない。
…俺モ、アノママデハ首ガ痛イ。
だから、と言葉を続ける。
借リルゾ。
おそらく困惑した張遼を気遣ってのものなのだろう。その、なんとも不器用なこと。張遼がした行為が自分を気遣ってのものだということを察しているのか、あるいは本能で感じ取ったのかもしれない。
どことなく不満そうに、けれど気配はどことなく嬉しそうで。
素直ではない、と張遼は喉の奥で笑いを堪える。
きっと今笑えば呂布の機嫌は下がりっぱなしになるだろうから、けして笑い声を立てることが出来ないのだが。こぼれる笑みの気配を隠して、張遼は腕の上にいる呂布に奇妙すぎる違和感を感じながらもこの状況をどうにかしなければ、と口を開く。
「……ところで。」
何ダ。
「その………何か、そうなる前になかったのか?」
ダカラ、何ガダ?
「例えば……変なものを食べただとか。」
俺ハ拾イ食イナド……!
カッと怒ったように眉尾を上げた呂布に、そうではないのです、と慌てて張遼がそれを宥める。
「原因を探しているだけで……ええ、他には………変な者と会ったとか。」
変ナノ?
そう問うて呂布が張遼を見上げる。
反応があった、ということは何者かに出会ったのだろう。
記憶に残るくらいなのだから(呂布は、あまり人の顔を覚えないという悪癖を持っている。強い者でなければ見向きもしないせいもあるのだが)。
「そうです。見るからに不審人物……」
会ッタ。
呂布の答えは実に簡潔なものだった。
さらりと答えたその反応に張遼が驚いて目を丸くする。
それに気がつかず、呂布はその時のことを思い出すように宙へと視線を流した。
昼頃ダッタナ。コノ近クデ狩リヲシテイタ。
〈以下、呂布の回想〉
戦場へと赴く前に軽く肩慣らしをしておこうと狩りを始めた。獲物を追いかけて林のなかへと分け入っていく。
だが深くに入りすぎてしまったのか、姿を見失ってしまう。
仕方なくそのまま林から出ようと身を翻した時、後ろから声がした。
振り返ると、そこにいたのは。
「ヒヒヒヒ。お前さん、儂の話を聞かんかい?」
怪しい老人。
「帰レ。」
ぴしゃりと一蹴する呂布。
そのまま立ち去ろうとしたとき、背後から怒り狂ったような声がした。
「ううむ! 仙人をバカにしおって!」
お前など、こうしてくれる! と声がしたかと思うと。
コウナッテイタノダ。
呂布、回想終了(早)。
「変なのに関わり合いになったということだけはよく解りました。」
ああ変なのにあたったのだなぁ、と張遼は納得した。
俗に言う排出停止の呪いとかいうのだろう。それにしても呪いにしても随分とおかしなものを施したものだ、と溜息をついた。
「……奉先殿。」
ドウシタ。
「お体に他に変化は?」
別ニ。
「何でもよろしいのです。具合が悪いだとか、そういうものでも……」
ナイ。
呂布はいつもどおりの簡潔な物言いだった。
そう答えるということは本当に体が小さく、丸くなったという以外の変化はないのだろう。
それだけでも救いだ、と思い、息を吐く。
思ったよりも息を詰めていたようで肺のなかが楽になったことに、張遼は自分自身の無意識の緊張に苦笑をこぼす。
その張遼を、ジッと、呂布が見上げている。
視線に気付き、張遼が呂布のほうを見る。
「……私の顔に何か?」
イヤ。
ふるり、と呂布が首を横に振った。
そうしてそのまま唇を持ち上げる。
その表情は、その形だけは、いつもの呂布の不敵な(けれどその実に何の裏もないような笑みで)様子で唇を持ち上げてみせる。
文遠ハ、相変ワラズダナ。
「……はぁ。」
心配性ダ。
皺になるぞ、と言って呂布はおかしそうに声を立てて笑ってみせる。
顔全体を歪めて、だが他の者にはけして見せようとしない子供のようにあけすけで、その実不器用な彼の笑いは、なんとも嬉しそうで、楽しそうで。
懐かしい。その一言が胸のなかいっぱいに広がる。
気付けば張遼もまた、笑っていた。
その瞬間、胸に巣くっていた先ほどまでの重苦しいものなどなくなっていた。
呂布はやはり呂布でしかない。彼は何も変わらない。変わってもいなかった。それがひどく嬉しく思えたのだ。
同時に羨ましくもあった。
瞬間的に『いつも』に戻され、主従の頃のことを思い起こさせる。離れた時間などなかったかのように、思える。
口に出せない思いを胸に、それでもそれは言わないほうがいいだろうと、思う。
今は、まだ。
〈開幕、終わり〉