キッチンの壁のあたりにある光取り用の小窓から朝の光が差し込み始めていた。
 曇りガラスのせいもあって光が直接入ってくるわけではないのだが、それでも徐々にガラスの向こう側の世界が色を変えていくのを目でも見ることが出来るようになっていくのがわかる。
  キッチンは賃貸物件なこともあってか実家と比べれば少しばかり手狭な印象を受けてしまうのだが、それも一人で動く分には少しも苦にならない。むしろ、手を伸ばせばすぐに届く位置に必要なものがあるので、坂道は内心結構気に入っていた…………まあ、それでも天井近くの天袋の扉を開けるのは未だに椅子を使うか、同居人の手を借りなければならないという弊害があるのだが。

 その当の同居人は未だ夢の中だ。
 ……そのはず、だ。

 坂道が目を覚ましたときには隣で静かな寝息をたてていたので間違いない。一応、起こさないように細心の注意を払って出てきたという経緯もある。
 今も音がもれないようにイヤホンをつけてエプロンのポケットに入れてある携帯プレイヤーから流れてくる音楽に耳を傾けながら料理をしているような状況だ。ちなみにプレイヤーの曲順についてはランダム再生なので、今流れているのは某電子の緑の髪の歌姫の曲だった。
 軽快なリズムとともに流れる歌声に合わせて鼻歌を小さく奏でながら坂道はキッチンのなかを動いていた。
 とにもかくにも朝食の準備をすませるために坂道はここに越してきたばかりの頃と比べればよほど上達した手つきで包丁を使って豆腐をさいの目切りにしていく。
 隣では火に掛けてグラグラと沸騰し始めた湯の入った鍋がガスコンロの上に乗せられている。
 それを確認して坂道は切った豆腐を一度プラスチックの容器の中に戻し、サッと鍋の中に出汁の素を入れた。
 ゆるゆると湯の中で溶けていく粉粒を横目に、あらかじめ水にさらして塩抜きをしておいたわかめを取り出して余分な水を絞って取り、適当な大きさに切り揃えていく。
 このあたりはザッとした大きさだ。
 一口分にしてはやたらと長い部分も出来てしまったが、このあたりは目をつぶってくれるだろうと勝手に推測しながら坂道はザッとわかめを切るときにつかったまな板を水洗いしてから、元の位置に戻す。
 そうしてピーラーとボウル、おろし金にそれともうひとつ、山芋を取り出す。
 さて皮を剥いてしまおう、とピーラーと山芋を両手で片方ずつそれぞれ手に取ったところで、

 ぽふん、と背後から突然の柔らかな衝撃に襲われた。
 それと一緒に、囲われるようにして長くしなやかな腕が捉えるようにして坂道の体に回される。身動きを封じられた、と言ったところだろうか。

「     」

 次いで、イヤホンの向こう側から聞こえてきた声に坂道は僅かに目を瞬かせたが、こんなことをするのは今のところこの部屋で暮らしている同居人以外にはありえないので、それ以上慌てることもなくそっとイヤホンを耳から外しながら首だけを斜め後方へと巡らせる。
 そうすれば、視界にいやがおうにも入ってくるのは案の定と言うべきなのか、御堂筋だった。
 彼は寝間着姿のままで、どこかぼんやりとした視線で坂道をジッと見下ろしている。近すぎて表情のすべてを坂道が確認することは出来ないのだが、そこはなんとなく、慣れた雰囲気でも伝わってくるので補完は可能なのだ。

「おはよう、御堂筋くん」
「…………」

 ん、という小さな声と同時に御堂筋が頷く。

「まだ眠たいなら寝てていいんだよ?」

 少しだけ小首を傾げて坂道がそう言えば、御堂筋は考えるような仕草で視線を彷徨わせた。
 これはまだ起きたてで思考回路とか、シナプスがうまく繋がってないんだろうなぁ、と坂道は思う。自分も朝は得意だと言えるほうではないのだが、御堂筋はたまにこんなふうになるときがある。
 普段はけして人に対して隙というものを見せようとしないので、これはこれで貴重なものなのかもしれないのだけれど。
 徒然とそんなことを考えていたところで、「……なにしとるん」という声が鼓膜を揺さぶってきた。その声に坂道も我に返って改めて御堂筋を見る。
 彼はジッと坂道を見つめたまま動かない。
 それでも視線はどこか朧気だ。
 坂道は双眸を崩しながら、ぽんぽん、と自分の体の前に回された御堂筋の腕を軽く叩く。

「朝ご飯作ってるんだよー。今日はね、わかめと豆腐のお味噌汁と、あと、とろろごはんにするから」
「……とろろ」
「うん、昨日ね、かあさんから色々と食べ物が届いて、そのなかに自然薯が入ってたんだ。
 とろろだけだと味が淡泊かもだから、ポン酢か醤油を出そうかと思うんだけど、御堂筋くん、どっちがいい?」
「…………」

 オウム返しな言葉がきた時点で、御堂筋がまだどこか寝ぼけているのはわかっていたのだが、続けての質問に返答が来ないので今日はいつもより眠そうだなー、と坂道はほんの少しだけ苦笑を浮かべた。
 もう一度、ぽんぽん、と腕を叩いてみる。

「じゃあ、どっちも出しとくね。
 あとは、卵焼きとかも一緒に作って出すから、もうちょっと時間がかかるよ」

 だからもう少し寝ててもいい、と遠回しに坂道は言うのだが、御堂筋の腕が離れる様子がない。このままだと続けての支度が出来ないな、とほんの少しだけ困ってしまった。
 眉を下げて、さてどうしたものかと思案を巡らせたところで、ふと、肩にかけたままだったイヤホンの存在を思い出す。プレイヤーの再生はストップさせた覚えはない。
 持っていたピーラーを置いてイヤホンを手に取り、頭頂部あたりにある御堂筋の顔の横へとそれを持ち上げる。そのまま彼の耳へとイヤホンをつけたところで、しばし待った。

 …………待ったのは一分ほどだったのかもしれない。
 ぱちり、と緩慢な瞬きをした御堂筋の瞳に朧気だった光が、鮮明なものへと変化していく。

「…………なんなん、これ」

 そして聞こえてきたはっきりとした口調に坂道は内心、うまくいったと声をこぼした。ただしそれを口に出さないまま、御堂筋の疑問に答えるために彼の片方の耳のイヤホンだけを外してから口を開いた。

「この前一緒に見たアニメの挿入歌だよ。ほら、あのアニメ、この歌が元ネタになって出来たものでしょ?」
「……フルコーラスバージョンか」
「そうそう」
「CD、買ったん?」
「ううん、借りただけ」

 短いやりとりのあと、御堂筋は納得したのかスッと坂道を囲っていた腕を放して半歩後ろへと下がる。その拍子にもう片方のイヤホンも外れてしまった。
 離れた熱に一抹の寂しさに似たものを覚えたのだが、それを覆い隠すようにして坂道はくるりと体ごと後ろへと回す。
 顔を上げれば、こちらを見下ろしている御堂筋の目と視線がぶつかった。

「改めて、おはよう、御堂筋くん」
「……おはようさん」

 少しだけ気まずそうなのは気付かないふりをするのが、円満な関係を続けることが出来るマナーでもある。
 とりあえず坂道はまだ朝ご飯の準備を進める時間に余裕があるのを見計らって、目の前の胸元へと飛びつくことにしておいた。






日の出は朝の6時13分頃です。