同居、という新たな単語が築き上げてきた関係にプラスされてから、早数ヶ月が立とうとしていた。
少なからず血縁関係があった人々との暮らしとは意味合いが違う、まったくの『他人』との生活は最初こそ、それなりに慣れないところもあったが思わず拍子抜けしてしまうほど想像以上に些細なものでしかなく、緩やかに留め具の型を合わせるような形で一ヶ月もすればほとんど落ち着いたものになっていた。
そうして時間が立つとともに、暗黙の了解ともいえる言葉にしなくても互いがそうする、というルールみたいなものも多少なりと出来上がり始める。
たとえばそれは、音楽などを聞きたいときにスピーカーを使いたい時には相手に了承を取る、というものであったり。
家事は出来るだけ分担で。食事を相手が作ってくれたのなら、自分は別の作業で補う。
居間にひとつだけあるテレビは、見たいテレビ番組や、やりたいゲームがあるときは事前に使いたい時間帯を先に宣言しておく。もし被ったときは、裏番組が取れるレコーダーをどちらかが使うなど。
本当にそんな細々としたものだ。
同居を始めるという段階で幾らか話し合いはしてみたものの、いざ暮らし始めれば、また環境も変わっていく。
そこで出た問題をどちらかが我慢するのではなく(もっとも、それを中々言い出せない、という遠慮がちな相手から聞き出すという苦労もあるにはあるのだが)、丁度良い塩梅を探すという行為は、面倒なようで、どこか胸の奥を擽るような奇妙な感覚も一緒に連れてくる。
それはけして嫌なものではない。
ただ慣れない感覚に戸惑いがなかったわけでもない。
むしろ、これを戸惑いと感じれない人間のほうがごく少数であろう。
嫌なのではない。
少しずつ、少しずつ、形を整えていくようなそんな感覚。
それを甘んじて受け入れる程度には望んだ関係性であるのだから。
◆
先ほどの続きになるが、言葉にしなくても定められたルールのひとつがある。
マンションの長い廊下を歩きながら片手でポケットの中のカギを取り出し、玄関のドアの前にたって鍵を回す。
僅かな抵抗感と一緒に、がちゃりと独特の金属製の音を響かせて鍵が開いてから、御堂筋は鍵を取ってドアを開けた。
金属製の重いドアを片手で開けてここまで運び入れるために担ぎ上げていたロードごと中に入ってから、気怠げに口を開く。
「ただいま」
薄暗い玄関から部屋まで続くドアの向こうへと声をかける。
ドアの磨りガラスの向こうからは蛍光灯の明かりが漏れて、玄関までを頼りなく照らしている。そして人の気配もあるのでそこに誰かが……小野田がいるのがわかっているのだが、返事を待つまでもなく先に玄関から続くシューズインクーロゼットの中に入り、先にロードを片付ける。
汚れなどの日々の簡単な整備を一通り済ませ、また玄関に戻って今度こそ靴を脱いで廊下に入る。
ここまでの時間は既に長年の手慣れたものであるので10分ほどしかかかっていない。
ロードが簡単に家内に持ち運びが可能という点で言えば、この間取りは御堂筋にとっても願ったり叶ったりだったと言える。
靴を脱がずにそのまま作業が出来るという点でも大きなものであったが、その独特すぎる間取りゆえに一般の客層には受けが悪かったようなのだが、それはここでは関係のない話であろう。
ともかく、短い廊下を進んでドアを開けた。
「おかえり、御堂筋くん!」
ドアの開閉音と同時に、御堂筋へと室内にいた小野田が声をかけてくる。
正確には、居間から続きのキッチンから、ではあるが。
小野田の声に御堂筋が、ん、と短く首肯して室内に入る。
帰って来た際に、ただいま、という声かけはしたので二度目はない。
ただ小野田もそれは既に知っているので気にした様子もなかった。
ちなみに先ほど上げたルールというのが、「挨拶はちゃんとしよう」というものであった。
おはようの朝の挨拶から、ただいまという帰りの挨拶など、互いに言葉を交わすこと。
これについては一応、割と大家族とも言える親戚の家で成長していた御堂筋も異はなく、すんなりと受け入れられたものでもある。
キッチンで何やらごそごそとやっていたようだが(空きっ腹に響く匂いもしているので間違いようもない)、一端手を止めて小野田がキッチンからパタパタとスリッパを鳴らして御堂筋の元へと近づいて行く。
近づいてきた小野田に御堂筋も何も言わずに歩を進めて自身の定位置ともなっているテーブルの横に腰を下ろす。
小野田もその横にちょこん、と腰を下ろした。
顔を上げ、いつものように口を開く。
「今日はいつもよりちょっと早かったね」
「練習が短かったんや。なんや夕方から雨降って来るっていう話でな……春にしては随分と気温も低いし、これ以上体冷やすほうが響くって切り上げられたんや」
「そっかぁ……でも確かにここんとこなんか朝も夕方もグッと寒くなってるね。ボクのほうも今日は慣らし走行だけで終わっちゃって……
あ。もしかして雨、もう降ってる?」
「ボクがここに帰るまでには降ってへんかったよ。確かに雲ばっかりで暗いで」
「じゃあ今夜一雨来るかもだね。明日には止んでくれるといいんだけど」
他愛のない話に御堂筋もめんどくさがる様子もなく応えて言葉を重ねていく。
小野田もあまり会話が得意なほうではないが、重ねた月日と、共に過ごした時間がそれを上書きしていた。
「あ。夕食はカレーだよ!」
「知っとる。匂いでわかる」
先ほどから漂ってくる匂いはスパイスの独特な匂いだったのでわからないほうがおかしい。
そう暗に言えば小野田はちょっとだけ「やっぱりわかっちゃうよねぇ」と困ったように呟きながら苦笑をこぼす。
それでもすぐにパッと表情を楽しげに緩めて顔を上げた。
「でも普通のカレーじゃないんだー。今日はインドカレーに挑戦してみたから」
「また慣れへんもんに挑戦して……失敗しても処理するんは二人しかおらへんてわかっとるん?」
「そ、それは大丈夫! ちゃんと分量も何度も確認してるし! あ、今回のはね、ほうれん草のカレーで……えぇっと、確か、さ、さ…………さぐぱにーる?」
「自分で正式名も言えるかどうかあやしいんやったら無理にあっちのメニュー言うな」
すっぱりツッコミを入れた御堂筋に小野田が呻く。
一発で言えなかったうえに、どもって疑問系でメニュー名を言ったとはいえ、御堂筋の口調は年月を重ねたところで慣れる代物ではない。
相変わらずの切れ味とも言えよう。
うぅぅ、と呻いて涙目の小野田を見下ろし、短く御堂筋が息を吐き出す。
「そもそもサグパニールってなんや。サグだけでも意味わからへんのにパニールか。普通にほうれん草のカレーて言えばええやろ」
「さすがに御堂筋くんは一発で言えるんだねぇ……じゃなくて。
えぇっと、元々はパニールっていうのを入れてるからそう名前がついてるんだけど」
「『元々』?」
小野田の含みのある一言を聞き逃す御堂筋でもなく、その点をつっこめば、小野田は視線をさまよわせながら観念して口を開く。
「……今回、手に入らなくて代用品を入れてます」
「ますます元のメニュー名で言う必要性が見当たらへんな」
「完全論破された!」
ちなみにサグ、というのがほうれん草にあたるらしい。
らしい、というのは御堂筋によって完全論破の憂き目にあい、撃沈されてしまった小野田に解説する気力がなかったからなのだが。
まあ、パニールというのが今回使えなかったものの名前なら、サグというのがほうれん草にあたるのだろうと御堂筋も予測を立てたまま、ジッと項垂れる小野田を見下ろす。
撃沈から回復するまで時間はかかるが、別段慰める気配も見せず御堂筋はそのままの体勢を貫いた。
ただ、
「……で」
「……」
「カレー、まだ作ってる最中なんやろ。いつまで目ぇ離しとくつもりなん?」
「……それは今、ちょうど煮込み中だから、大丈夫、です」
空腹を余計に刺激する香辛料特有の香りだけはどうにも無視することが出来ずに御堂筋が小野田に自分から声をかけ、それに応える形で小野田もゆるゆると顔を上げて答えた。
小野田の言葉に、そか、とだけ言って御堂筋が短く頷く。
それを小野田がじぃ、と見つめた。
始めて出会ったときよりも背は多少なりと伸びた。
御堂筋もそうであるが(相変わらず高さ、というよりも長さ、という表現が合いそうな体格なのだが、高一の時と比べれば遥かにしっかりとしている)、小野田もそうだ。
ただ、クライマーの特権とも言うべき小ささは相変わらずで『ボクも御堂筋くんくらい大きくなりたいなぁ』と、ままにならない愚痴くらいは覗かせているのだけれど。
顔立ち云々で言うならば、童顔もその色を濃く残したままだ。
ただ、年相応とは言えないまでも、それでも成長の兆しは見せている。少しだけ丸みが取れた造りがそれを現しているのは間違いない。
丸い眼鏡だけは変わりが無い。
パチパチと瞬きを繰り返したあと、言葉もなく小野田が御堂筋を見つめる。
「…………なん?」
その視線に促されるような形で御堂筋が訊ねる。
……訊ねたところで、このあとどんな言葉が小野田から返ってくるのかは、御堂筋もわかっていたが、これも暗黙のルールのひとつだ。
「………………えっと、帰ってきたばかりで疲れるのはわかってるんだけど……」
「……」
もごもごと恥ずかしそうに口の中で言葉をこぼすような声は聞き取りづらいが、指摘することはない。
黙ったままこれ以上は沈黙も長くなりそうだったので、御堂筋が諦めの境地でなにも言うこともなく、スッと両手を広げて見せる。
了承、という合図を動きで送れば、小野田がパァッと笑みを浮かべ、ほんのりと頬を紅潮させながらも御堂筋の胸に、おずおずと飛び込んで来た。
元々向かい合う形で離していたので、その距離も大してものではない。
ぽすん、という軽い音と同時に胸の中へと、背中から囲う腕も、いつものこと。
暗黙のルールというか、わかりきっていること。
抱きつきたい、というときの気配を何となく察することが出来るようになった、というもの。そしてそれを許容するということ。
御堂筋が手を回せば、小野田も腕を回しながら頬を胸元へと甘えるような仕草ですり寄せてくる。自分よりもほんのりと高い相手の体温を肌越しに感じながら、御堂筋もゆっくりとした手つきで小野田の後頭部を撫でる。
「……カレー、あと何分で出来るん」
「あと、えっと……10分くらい、かな。タイマーと、あとナンをオーブンで同じくらいの時間で出来上がるようにしてるから、音でわかるよ」
それなら焦がすような真似はしなくてすむだろう。
そう脳内で判断すれば、何も言うことはないので御堂筋はゆっくりと回した腕をより深くする。
感触だけでそれを察した小野田がクスクスと笑い声をたてた。
ひとまずの残り時間はあと十分弱。
雨の気配はまだ遠く窓の外から聞こえてくるのは遠い音ばかりの静寂のなかで、しばし身を寄せ合うには、いい時間だろう。
自分も大概幸せボケをしていると、御堂筋は微かに笑った。
ふたりぼっちの世界−午後六時四十五分頃−