「…………ボク、サニーさんに、隠してたことが……あるんです」

 そこまでサニーが考えたところで小松がゆっくりと深呼吸をしたあとに、静かな声で語り始めました。それに気付いたサニーもハッと我に返って腕の中に視線を戻します。

「ボク、サニーさんに……ずっと昔に、会った、ことがあるんですよ……」

 辿々しく、弱々しい息の下で小松は明かします。
 大切な宝物をサニーに見せるように……胸の内で輝いているそれを、見せるために。

「サニーさんは、きっと覚えて……ないんでしょう、けど……ボクが、子どもだった頃に一度だけ…………春の、雪解けの断崖に、ひとりで立ってて……
 あなたを見たとき、ボク、きれいだなぁ、って思って」

 あれがきっと、

「ひとめぼれ、しちゃったんです」

 心を奪われるという、生涯で始めての経験を、あの瞬間にしたのだと小松は打ち明けました。
 サニーは、次々と目まぐるしく変わる事態についていくことさえできずに、小松の言葉に聞き入っていました。記憶を探っても、断崖にひとり立っていたときのことを思い出すことは出来ません。
 それは長い時を生きてきた自分にとっては一瞬の出来事でしかなかったからです。

 けれど、小松は違いました。
 あの出会いこそが……サニーが知らない、その瞬間こそに彼に『運命』を告げたも同然だったのです。

「……すごくきれいで……ああ、でも、笑ってくれたら、もっといいのになって……
 ボク、勉強もできないし……人より上手なこと、っていったら、料理くらいしかなくて……いつか……いつか、あなたがそれで、笑ってくれるくらい……すごく上手に、できたら、」

 それはあまりに夢物語のような話でしかありません。
 たった一度しか姿を見たことがない相手のために……話をしたことすらない相手のために、何かできることはないかと幼心に考えて、小松は料理をいうものを選んだのだと、そう言っているのです。
 それでサニーが笑ってくれるという保証など、どこにもないのに。
 たった一縷の願いを胸に、腕を磨き続けてきた、と。

「…………それで、お医者さんからあの話を聞いて……噂で、ようやくあなたのことを……聞いて、なら、最後にあなたに会いたいなぁって」

 本来なら憧れで終わったであろう小松に転機が訪れたのは、皮肉にも彼の寿命が残り少ないことを宣告された瞬間からだったのだ。
 残り少ない時間を、ならばいつか夢見た願いを叶えるために使おう、と小松は飛び出してしまったのだという。
 いてもたってもいられず、城壁を飛び越え、サニーと再会し、けれど相手は笑ってはくれなかった。

「…………ごめんなさい、最後に、こんなことを……話しちゃって……
 迷惑、なのは、わかってます……でも、これで、さいごだから……」

 これでぜんぶ、おしまいになるから、と小さな声で小松は言います。
 サニーは何か言葉をかけようとしますが、今、自分が声を出しては小松の言葉がかき消されてしまうような気がして何も言えませんでした。

 終わりが近づいているのだと本能でわかっているのです。
 しかし、その終わりに抗いたいという衝動も一緒に襲いかかってきて、相反する思いにどうすることもできずに唇を強く噛みしめました。

「………………サニー、さん」

 そんなサニーの表情を朧気な視線で見つめていた小松が、そっとてを伸ばして彼の髪に、頬に触れます。
 いつかと同じように。
 けれどその指先は、ひどく冷たいものでした。

「……サニーさん…………」

 何度も名前を繰り返して呼びながら、小松はゆっくりと目を閉じました。
 閉じた瞼の端から、つつ、と透明な雫が一筋だけ流れ落ちていきます。

「わらって、ほしかったなぁ」

 大きく息を吸って、吐いて、それきり小松は二度と目を開けることも、言葉を落とすこともありませんでした。



「…………松?」

 力なく落ちた小松の手を見て、サニーは小さく彼の名を呼びました。
 答えは返ってきません。

「松」

 もう一度、今度はハッキリとした口調で呼びます。
 答えは返ってきません。

「松、松」

 答えは返ってきません。

「まつ」



 答えは返ってきません。



 サニーは、ようやくすべてを理解しました。
 いつの間にか小松に恋をしていたこと。
 二人で過ごす時間を何よりも大切に思っていたこと。
 小松が隠していたもの。
 願い。
 自分が知らなかったこと。
 そして、小松がもう二度と目を覚まさないことを。

 彼はすべてを理解し、しかしそれを受け止めきることができずに、ゆっくりと首を横に振ったあと…………怖々と腕の中にいる小松の体が、すでに冷たくなってしまった亡骸であることを脳が処理した瞬間、声の限りに吠えました。

 泣き叫び、吠え、強く腕の中の亡骸を抱きしめました。
 溢れ出る感情が何であるのか、サニーにはわかりません。
 悲しみなのか、怒りなのか、苦しみなのか、憎しみなのか、あるいはもっと別のものであって、またそれではなく、すべてが混ざり合ったものなのか。
 胸のなかで自身が張り裂けそうな感情の坩堝に翻弄されながら、彼は吠えます。

 長く、長く、
 




 それに答える声は、ありません。




The Beast.-09-