あのこが来る日の朝は、いつもの景色が違って見えるような気がする。
 ただ、そもそもその相手は『あのこ』などと言っていいような年齢ではない。実年齢より低く見られてしまうことを彼はなにより気にしているのはボクだけでなくまわりも周知しているくらいなのだから。
 何より【いつもの景色が違って見える】なんていう、そんな夢物語を口にする自分に苦笑を禁じ得ない……それでも感じたままを言うなれば、そうなるのだから仕方ない。
 彼は……そうボクの二つ下にあたる、その彼はボクの目に映る景色をほんの少しだけやさしくしてくれるような、そんな存在だった。
 奇跡のような、などとは軽々しく言えない。
 口にすれば嘘や偽物のように消えてしまう、そんなものを安易に言葉にすることは出来ず、胸の内で密やかにいつものように仕舞い込んでおく。
 胸に湧いた想いをそうしてやり過ごし、ボクはシーツの中で緩やかに瞼を持ち上げる。朝の光はどこか弱く、霧のようにあたりに振りまくようにして光を反射させていた。
 ……一応、仕舞い込んだとしても目にしている見慣れたはずの景色が違うもののような気がして、ボクは一人、微かな忍び笑いを零す。そしてこんなことを当たり前のように受け止めている自分に内心呆れ果てるしかないのだけど、別段イヤな気分でもなく、それを否定する気にもなれない。
 零れた笑いを引っ込め、ゆっくりとベットの上で体を持ち上げてあたりを見回す。
 そっと溜息をつけば、静けさのなかでその音だけが妙に響いた。

「…………キッス」

 そこで、いつもなら自分の目覚めを感じ取って自ら鍵の開いている窓を開けて顔を覗かせるはずの家族の名を呼ぶ。けれど、返ってくるはずの返事はない。
 ……当たり前だ。
 いつもいるはずのキッスがいないということも、ボクは本当に当たり前のように受け止めて頷いてしまう。なぜなら、キッスはあのこを迎えに行っているのだ。だから今いないのは当前のこと。
 昨日のうちに……、違う。彼との約束を取り付けたその日のうちに、今日あのこが来ることはキッスに伝えていたのだから、自主的に迎えに行ったのだろう。そのくらい彼らは仲が良いし、迎えに行くのも恒例行事になっている。
 気配のない窓の外を一瞥し、ベットから降りて軽く身支度を調えてから寝室を横切る。
 キッスが自主的に迎えに行ってくれているのに、出迎える家主のボクが準備をしないのは不遜というものだろう。
 あと少しすればきっと聞こえてくるだろう声を思い浮かべれば、やわらかであたたかな何かが胸のなかに小さな火を灯すように感じられて、また、くすりと笑いがこぼれ落ちた。

 キッチンに立ちながら、貯蔵してある食材を思い出し、粗方のメニューを決めてしまう。
 朝は軽く食べて来ると前にも彼は言っていたけれど、数時間もの旅路はさすがに胃の中身をほとんど消化させてしまう。
 さて何を作るべきかと考え、まずは鍋にあらかじめ用意しておいたコーンスープを火を入れて暖める。
 スープには何が必要だろう? 具材は旬の青野菜を刻んで入れて、あとはベーコンかソーセージを入れておけばいいかと思いつく。
 それから、卵と、昨日のうちに買っておいた食パンを取り出す。
 卵は軽くスクランブルエッグにしてしまうとして、食パンには何にしようか……バターはこの前に出したから、ジャムがいいのかもしれない。ちょうど、オレンジのいいのを作り置きしてあった。
 あとはサラダと、付け合わせにヨーグルトもいいかもしれない。
 野菜とベーコン、それからソーセージを取り出して刻み、下準備を整える。
 暖まったスープに野菜を入れてさらに煮込む。その間にサラダ用に別にしておいた野菜をボウルに入れて、ドレッシングに合わせておいた。
 スクランブルエッグと、パンを焼くのは彼が来てからのほうがいいだろう。
 熱々のほうがきっと美味しいはずだと胸の中で思い浮かべて、また笑みが口元を緩める。
 出来上がった料理の数々をそれぞれテーブルの上に並べていく。
 磨いた皿をセットで並べていけば、結構な時間が立っていた。

「……そろそろかな」

 ぽつ、と呟きながら壁掛け時計に目を向けると、窓の外から聞き覚えのある鳥の声が微かに鼓膜を揺らすのがわかった。
 うん、ちょうど良い、と呟きとともに、その慣れた感覚がどうにも胸の奥でくすぐったくて、我慢の出来ない笑みがこぼれてしまう。
 それを隠す必要もないから、そのまま部屋を横切って玄関へ向かい、ドアノブに手を掛けた。

「………いらっしゃい」

 ノブを回すと、がちゃりという音とともに開いた隙間からキッスの巻き起こす風が部屋の中に入り込んでくる。
 つむじ風のようなそれに自分の髪が靡き、その風が来訪を告げているような気がしてボクは彼がいるのを想定して顔を上げて声をかけた。

「おはようございます、ココさん!」

 すると声に答えるようにして、明るい声が鼓膜を軽やかに揺らす。
 ドアの外には満面の笑顔に、楽しげな空気。わざわざ電磁波を確認するまでもなく、上機嫌に全身を跳ねるようにしてこちらに応えるのは、約束していた彼のもの。

「おはよう、小松くん。時間ぴったりだね」

 声に答えながら玄関から外に出ると、いつもの定位置にキッスの体が舞い降り、その背で彼が笑いながら頷く。

「はい! でも今回はキッスのおかげですよ!」
「そうかい? ありがとう、キッス」

 お疲れ様、と声をかけると視線の先にいる黒い巨躯が、嗄れた声で答えて翼を広げてみせる。ボクの労いの言葉に、「当たり前だ」と言ってくれているんだろう。
 広げた翼が折り畳まれるのを待って、小松くんはその背から「…よ、っと」と声を上げながら飛び降りる。
 足が地面にちゃんとついてから、彼はクルリとキッスのほうへ改めて振り返った。

「ボクからもありがとう、キッス!」

 彼の背中しかボクのほうからは見ることは出来ないのだけど、きっと今、小松くんはあの人懐っこい笑顔で感謝の言葉を口にしているのだろう。掛け値のない心の底からの感謝の意思に、キッスは少しだけ胸を張るみたいに「気にするな」という意味の鳴き声を上げ、彼の側へと自ら顔を寄せる。
 そのまま自分の顔を小松くんの頬にこすりつけると、彼はくすぐったそうに身を捩りながらもそれを快く受け入れていた。
 撫でる手がゆっくりと労るように漆黒の羽を滑っていく。

「ふふ、くすぐったいよ」

 そう口では言っているが、嫌がる素振りもなく嬉しそうに受け入れる仕草は、見ているボクの心にも優しい何かを連れて来てくれる。
 そのまましばらく子供がじゃれるみたいにして触れ合っていたけど、キッスがボクのほうにチラッと視線を向けたかと思うと、ゆっくりと体を離す。
 ……一応、ボクに遠慮をしてくれたのだろうか?
 離れていくキッスに小松くんが名残惜しそうに声を上げていたけど、聞こえないふりをする。そうしてキッスはボクらの側を離れて、自分の巣にしている場所へと戻って行った。

「……少し疲れたみたいだからね。休ませてあげよう?」

 そのキッスの背に視線を送る小松くんの耳元に体を屈めて囁くようにして告げると、彼は少しだけびっくりしたみたいに体を震わせ、ボクのほうへと振り返る。こぼれ落ちそうなくらいに大きな黒い瞳が、ボクを見つめて瞬きを繰り返した。

「…………そうですね。朝早くからボクを迎えに来てくれたんですから、疲れて当たり前かも……」

 悪いことをした、と言いたげな顔を目にして、ボクは苦笑を浮かべて小松くんの肩に軽く手を置く。

「キッスもキミが来てくれるのを楽しみにしていたから張り切っていたから気にしないで…………あとで、何か差し入れでもすればもっと喜ぶはずだよ」

 彼の申し訳なさそうな顔を少しでも軽くするために(ただし本当のことだけど)ボクがそう言えば、小松くんは頷き、表情を緩める。

「なら、ちょうど良かったです」
「うん?」
「ボク、家でちょっとしたデザートを作って来たんですよ! キッスにも食べられるように、ちゃんと調節した分もあるんです」
「それは楽しみだね。キッスもきっと気に入るよ」
 
 ボクの言葉に小松くんは「はい!」と元気よく答えて、片手に提げている茶色いバケットを揺らす。その中に彼の言っているデザートが入っているのだろう。蓋は閉じられているので中に何が入っているのかはわからない。
 電磁波を見れば可能かもしれないが、後から答えがわかるものをわざわざ今確認する必要もないし、楽しみが減ってしまう。
 そう結論づけてボクはバケットから視線を外して改めて小松くんに声をかけた。

「さ、朝食のほうも準備が出来てるから中に入ろうか。おなか、すいてる?」
「えへへ、実はちょっと……」

 照れたように笑った彼のお腹が、ちょうど良いタイミングで、くぅ、と小さな音を立てたのは聞こえなかったふりをするのがマナーというものだ。
 真っ赤になったであろう小松くんにも気付かないふりをして、ボクは踵を返して部屋のなかへと戻っていく。その後ろで、少しだけ困ったように二、三回足踏みをした小松くんも遅れてついてきた。
 そのまま出入り口のところで体をずらして小松くんを先に招き入れ、彼が体を滑り込ませるのを待ってからドアを閉じる。
 キィ、と音を立てて仕舞っていくドアの音を後目に、ボクは今更思い出したみたいに口を開いた。

「さっきも言ったけど」
「?」

 ボクの声に小松くんが顔を上げる。
 その頬が、まだ少しだけ赤い。

「いらっしゃい、小松くん」

 パチパチと視線の先で大きな目が瞬きを繰り返す。
 しばらくしてふんわりと、とろけるような微笑みが顔に広がって嬉しそうに小松くんが、はにかむ。

「お邪魔します、ココさん」

 答える声が恥ずかしそうにボクの鼓膜を揺らす。
 その心地よさにボクは心が仄かに暖かくなっていくのを心地よく感じた。それと同時に、ぱたん、とドアが閉じられた音が、空気のなかに別のものの音のように響いていた。



 −以下省略−






ふたたび.C−Do you LOVE me?−