−中略−
足下から、ユーン、と特徴的な鳴き声が響いて小松は振り返りながら視線を自身の足下へと向ける。
それとほぼ同時に小松の片足にぺたり、と暖かで柔らかい感触が抱きついてきて、思わず笑い声がもれてしまう。
「こら、まだ料理中だから邪魔したら駄目だろう?」
口ではそう忠告しているものの、声には滲み出るような微笑ましさを含んでいてあまり効果はない。
それが伝わってくるのか、足に抱きついたままのウォールペンギンの幼子は特徴的な声で笑うように何度も鳴いてさらに体を引っ付かせてくる状況だ。
甘えん坊なその仕草を無碍にするわけにもいかず、しょうがないなぁ、と言って小松はフライパンの中で焼いていたムニエルの一つに箸を入れて、小さく欠片を切り分けてから、ユンの口元へと差し出した。
「ほら、これあげるから、おとなしく鉄平さんのところで待ってて」
口元に運ばれたムニエルの匂いに子ペンギンが、ユンッと小さく鳴いてぱくりとそれを口に含む。
口の中いっぱいに広がる味に表情を崩すと、満足したのか小松の足から体を離してくれた。
てちてちと足音を鳴らしながら独特の足取りでキッチンから出て行く後ろ姿を見送り、対面式になっているリビングのほうへと小松は声をかける。
「すみません、鉄平さん。もう少し待っててくださいね」
「んー」
「あと、ユンも見ててくれますか。今、火を使ってるからもしものときに危ないですし」
「それも了解。気をつける」
リビングの座椅子にもたれ掛かり(小松用のそれはサイズが違うので椅子が小さく見えてしまうのが何とも笑いを誘うのは内緒にしておこう)軽く片手を上げて答えるのは、つい先日から懇意にしている友人のひとりでもある鉄平だ。
センチュリースープの一件のあと、マッチや滝丸、そして鉄平とは何やかんやで連絡を取るために携帯番号やメールアドレスの交換をした。特に鉄平は、正式に小松がユンを引き取ることを決めたために、再生屋としての知識やアドバイスを求めるために自主的に細々と連絡を取り合っていたのだ。
そんな関係もあって、今小松が暮らしているアパートの住所も教えてはあったのだが、今朝その鉄平が定期検診から戻って来たユンを伴ってドアを開けた先に立っていたときの驚きと言ったらなかった。
ドアベルの音に呼び出され、宅急便かと思ったら鉄平と、彼の腕に抱かれて帰って来たことが嬉しいのかユンユーン! と上機嫌に鳴いているユンを見たのだ。驚かないほうがおかしい。
ぽかんとしている小松に鉄平はしれっと「来ちゃった♪」なんて笑いながら言ってのけてくれた。その台詞はドラマの中だけ、しかも年相応の女の子が使うから可愛げもあるんです、と我に返った小松はツッコんだ。思わず、つい全力で。
ツッコミを入れたあとで改めて簡単に話を聞くと、ユンの定期検診が終わり、子ペンギンを小松の元に帰すついでに(いつもは専用のペット用の宅急便で送ってもらったりしている)仕事で来たから小松の顔を見に来たとのことだ。そこまで言われてしまえば小松も、もうそれ以上のツッコミを入れる気力が失われてしまう。がくん、と首を項垂れて脱力はした小松に明るいユンの鳴き声が降ってくる。
ユーンユーン、と、小松に久しぶりの抱っこをねだる声に悪意はない。
仕方がないので小松は気持ちを切り替え、ついでにねだるユンを願いどおりに抱き上げてやりながら、溜息をついて鉄平を自宅に招き入れることにした。
このあと用事がなければ食事でもどうですか、という小松の誘いに、鉄平も一も二もなく同意して招待に応じる。
そうして出来上がるまでの間、リビングでひとまず待っていてもらうことになったのだった。
最近はトリコやココ、それにサニーといった新しく既知を結んだ友人を招き入れることもあったのだが、普段あまり顔を合わせない客人の姿というのは、なんとも新鮮な感覚を小松に連れてくる。
ただ、突然の訪問とは言え人を待たせるのは心苦しいものもあり、小松は手早く料理をすませるために視線を外して手元の料理に集中し始めた。鮮やかな手つきをキッチンの中で披露している姿を、鉄平はもちろんのこと、彼の腕の中で抱きしめられている(物理的に小松のところに行けないように)ユンが見ていた。特にユンは、キッチンに立つ小松の凛々しい姿に感動でもしているのか、我が事のように興奮して体をばたつかせている。
「……うん、あのこはすごい」
呟きが自然と口からこぼれ落ちる。
手つきの鮮やかさは常人のそれとは桁外れであるはずなのに、小松はまだまだだと言うばかりだ。
それでもそれは自分の『今』の料理人としての力量を見誤っているわけではない。自覚し、わかっているからこそ、そう口に出来るのだから。
自分の力量をこれまで培ってきた経験と時間に基づいて己の中で明文化しているからこそ言えることなのだ。それはある意味で自分の力の目安にもなる。
けれど、それはやろうと思って出来る類のものではない。
自分の力に可もなく不可もなく正確な判断をくだすという行為は、他者のそれよりも数段難しくなってしまうものだ。
だからこそ言葉にせずとも自分の目標に向かって邁進することを怠らない小松は、ある意味で鉄平にとってひどく好感を持てる相手でもあった。普段は割とお喋りだが、大切なことは軽々しく口にしない姿勢が良いと。
物思いに耽る鉄平に、ユンが不思議そうな眼差しで彼を見上げる。
ユン? と小首を傾げて声をかけると、鉄平が我に返り、その手で膝の腕にいる子ペンギンの頭をゆっくりと撫でた。
その感触が気持ちいいのか、ユーン……、と目を細めて身を委ねてくる柔らかな感触が窓の外から降ってくる春の陽差しと相俟って何とも言えない心地良さを鉄平に与えてくれる。
「はーい、できましたよー」
そこで、食事の準備を終えた小松が声をかけてきた。
小松の声にうっとりとしていたユンが体全体で跳ね上がるようにして目を開けて甲高い鳴き声をあげる。
ようやく相手をしてもらえることがわかっていたのかもしれない。鉄平の膝の上から興奮気味に飛び降りて小松の側へ行こうとするのを、軽く抑えつけて止めておく。途端、ユンは不満そうな声を上げてちたぱたと藻掻き始めた。腕の下でそれを感じながらも、鉄平は体重をかけるのをやめない。押し潰さないように、それでいて適度に自分の体を使って物理的に逃げられないような体勢を取った。
「まだダメ」
ユーンユーン! と更なる抗議の声。
「小松くんがこの机の上に全部並べてくれるまで、我慢すること」
小声でそう伝えると、内容がわかったのかどうかは疑問が残るところではなるが、ユンが大人しくなった。幼子そのものだが、割と聡いところがあるのがユンの隠された凄さでもある。それでも不服そうにプゥーと頬を膨らませているのは、ご愛敬といったところだろうか。
そんなやりとりをしているところへ、お盆の上に色とりどりの料理を乗せた小松がやって来た。
ローテーブルの上へと、二人分の料理を並べていき、最後に自分の席の側にユン用に特別に作ったと思しき取り分けられた料理が置かれる。
カラになったお盆を横に置いて、ふぅ、と小松が一息つくのを見計らって、鉄平が口を開いた。
「すごいな。急に来たのに随分手が込んでる」
「元々、朝食用に作ってあったのをちょっと割り増ししただけですよ……でもよかった。今朝はちょうど良い白身魚が手に入ってたんです」
お客様に美味しいものを出すのは当たり前だから、と小松はそう言って鉄平の斜め前のところに正座する。
それを見たユンがまたもがきはじめ、今度は鉄平もすぐに腕を解いてやると、そのまま小松のところへと軽い足取りで移動していく。そのまま小松の膝の上へと当たり前のような顔で座るのが、小さな子供を思わせておかしかった。
それを小松も感じ取っているのだろう。プッと吹き出して膝の上に来たユンの頭を撫でてやる。
「さすがに味噌汁はあげられないけど、お前用にムニエルの他にお刺身なんかも添えておいたから、それで許してね」
そう言いながら横に置いてあったユン用の皿を目の前に置いてやると、途端につぶらな黒い目が輝きを増す。
嬉しそうに一声鳴くと、小松のほうを振り仰いだ。
期待の篭もった視線に、食事の開始を催促されているのだということを感じて小松はクスクスと笑い声をこぼした。
「はい、それじゃあ。いただきます」
「いただきます」
ユンユーン!
三者の声が一致して、食事は開始された。
山菜とタケノコをたっぷり使った炊き込みご飯。
油揚げと長ネギの味噌汁。
白身魚のムニエルが少しばかり洋食ぽかったが、一口食べてみると隠し味に抹茶塩を使っていることがわかって、なるほどここを和に揃えたのかと鉄平は胸の内で納得する。
「きんぴらは昨日の残り物なんですけど……」
「味が染みてるから美味しいし、オレは昨日食べてないから気にしなくていいよ」
うん、うまい。と掛け値なしの称賛とともに口にするきんぴらごぼうは、一晩じっくり寝かせたこともあって味が染みていて何とも言えずご飯の進みが早くなる。
鉄平の言葉に小松は照れたように顔を赤らめ、ありがとうございます、と目尻を下げながら味噌汁を啜った。
小松の膝の上でクチバシを使って器用に魚を食べるユンもご満悦の様子だった。
先ほどから、ユンユーン、と小さな鳴き声を上げては幸せそうな雰囲気を体全体から醸し出している。
「……小松くん」
「はい、どうしました? あ、おかわりですか。炊き込みごはん、まだいっぱいありますから遠慮しないで言ってくださいね」
「ありがとう。うん、それも魅力的だけどさ」
ユーン。
何事かを言い募ろうとした鉄平の声を遮るようにして、ユンが鳴き声を上げて何事かを小松に訴えかける。
小松が視線を落とすと、ユン用にと取り分けていた魚料理が全部なくなってしまっていたことに気がついた。
「もう食べちゃったの?」
パチパチと瞬きを繰り返す小松に、ユンは頷いて答え、グリグリと小松の胸元に「もっとちょうだい」という意味なのか頭をすり寄せてくる。クチバシでつつかなかったのは、小松の手に熱々の味噌汁があったのを見越してのことだったのかもしれない。
それを見ていた鉄平がしょうがないなぁ、と言いたげに箸を動かし始めた。
「じゃあ、オレのを少しあげる」
「すみません……」
「いいって」
鉄平が自分の分のムニエルを半分箸で取り分けてユンの皿に入れてやると、ありがとう、と言いたげな鳴き声を上げてまたユンが食事を再開し始めた。
「で、小松くん」
「はい?」
「さっきの続き」
「あ。おかわりでしたね、ちょっとお椀を……」
「そうじゃなくて」
鉄平からお椀を受け取ろうとした小松の腕をがし、と鉄平が掴む。
予想していなかった鉄平の行動に不思議そうに目を瞬かせ、顔を上げる小松の顔をジッと見つめて、彼は口を開いた。
「オレのところに嫁に来ない?」
……………What ?(なんだって?)
瞬間的に鼓膜から処理能力を超えた単語を聞かされたせいか、なぜか英語で脳内を駆けめぐった疑問符に小松は呆然としてしまう。
言葉の意味が理解できずに、ぽかん、と大きく口を開けた。
そんな小松の反応を後目に鉄平はさらに話を続ける。
「キミは料理もうまいし、いつもはうるさいくらいだけど大切なことは胸の中に秘めるあたりはすごく好感が持てる」
常が『口は禍いの元』だとか、『めんどい』とか言うくせに饒舌に語る鉄平に小松は目を白黒させるしかない。
え、だって、え?
そんな話、今までしていたっけ?
(そもそも自分も彼も同じ男なのだという事実は、この際横に置いておくとしても)
ひたすらに困惑する小松に、そこですぅ、と鉄平は大きく息を吸った。
「それに、今ならユンもついてすごくお買い得」
…………何がっ?
今の話が本気か嘘か判断がつきづらい鉄平は、感情の読めない顔で小松を見つめている。そんな彼にとりあえず胸の内で大音量のツッコミを入れて、小松は呆然としたまま、この場をどうしようかと思案する。
朝の部屋の中。
平和そうに鳴くユンの小さな声だけが、空気を揺らしていた。
……え、これ、どうすればいいの? という小松の声に答えてくれそうな人物は、幸か不幸か今この場にはいなかったのである。
ふたたび.B −俺んとこ嫁に来ないか?−