【回想T】
冴え冴えと冷める、今にも落ちてきそうなほどに大きな青白い月が天空に姿を見せた晩だった。
生きとし生けるものすべてが……いいや、空気の一粒までも呼吸を止めたかのような、静かな夜。
……いいや、だった、と言うべきだろう。
静寂に身を置いていた彼女はひくり、と耳を澄ませて目を開ける。
驚くほどに静謐の光を地上に降り注いでいる月は青白い。光までもその青さを帯びているような錯覚さえ受ける。だがそれが所詮、視覚の錯覚でしかないことを彼女は知っていたうえに、既に見飽きてしまった神秘的とも言える眼前の光景に直ぐさま目をそらし、ひどく緩慢な動作で起き上がる。
この森の夜は深い。
闇をも呑み込む深き森。彼女はそこの主であり、絶対主であり、王でもある。
ここは彼女の縄張りであり、彼女以外に姿を見せる動物たちは森の広さからすれば驚くほどに少ない。彼女に敵意をもたない弱い生き物だけが縄張りにいることを許されているのだが、その数自体が少ないということの裏返しでもあった。
実りが多く、手つかずのこの縄張りを奪おうとして入ってくるものもたまにいるのだが、その悉くが彼女によって滅ぼされてきている。
追い返されたのではない。すべてが、一片の慈悲もなく討ち滅ぼされてきたのだ。
奪おうという意志が一欠片でもあれば、それは王たる彼女への挑戦と受け取られる。挑戦したのであれば逃亡は許されない。互いの生か死、それによってのみ勝敗は決する。もし、命惜しさで逃げようとすれば、その瞬間に彼女から価値はないと断じられる。
故に、長い間この森は彼女の庭であり、彼女の王国なのだ。
そこに入ってこようというものは少ない。
しかし、いつもは遠くで鳴く虫や鳥の声まで余すことなく聞こえるほどの静かな森のなかで聞いたことのない音が響いていることに彼女は気がついた。
遠くに聞こえるそれに耳を傾け、瞬きをひとつする。
あの声は、なきごえだ。
聞き間違えようのない。弱く脆い、こどもの泣き声。
誰かが森の奥深くで泣いている。
涙も嗚咽も彼女にとっては遠いものであり興味はなかったが、この時の彼女は何故だかその泣き声を聞き逃すことができなかった。元々、涙も泣き声も好きではないのも要因のひとつとなる。
縄張りに入ってきたのがこどもであるのなら、何の害もないうえに歯牙にかけるのも面倒なので放っておくことが常だったが、なぜかその時はこどもの声に彼女は意識を集中させた。すたん、と軽い足取りで地面を蹴り、だが足の軽い拍子によって生み出されたとは思えないほどの速度で森のなかを疾風の如く駆けていく。
泣き声以外は夜は相変わらず静かで、月の明かりは不気味なほどに冴え冴えと冷たい。
降り注ぐ光は太陽ほどに明るくはないはずなのに、いっそ、強い灯りがあるかのような月の光の下を彼女はひたすらに駆けていく。
泣いている。
こどもが泣いている。
繰り返すが、彼女は泣き声があまり好きではなかった。涙を知らず……その『涙を奪われ』て、彼女は涙も泣き声も耳にすれば不快感を露わにする。
月の下で思い出すのは奪われたもの。
……ああ、泣くな。泣くな。思い出させるな。
近づいている間も、いつまでも続く泣き声を無性に鬱陶しく思いながら、それでもそれとは別の感情が奥のほうから湧き上がっているのがわかる。だから彼女はその一方を振り払って、さらに速度を上げて森の中を駆けていく。
泣き声がさらに近くなった。
駆けて進んでいく度に自分から置いてけぼりにされるまわりの景色になど目もくれずに彼女は森の中を走り、やがて地面を蹴って飛び上がった。
たんっ、と宙を舞う純白の光。
舞う雪のような軽い拍子で彼女は泣き声の元へと足を下ろした。
意識を視界に戻せば、見たこともないような明るい月の光が降り注いでいることに気付く。これほど青白い月の光を彼女は見たことがない。そうして、普段は薄暗いはずの森のなかでも目をこらす必要もなくそこにいるこどもを彼女は見つけることが出来た。
泣くな。
泣くな、思い出させるな。
けして聞こえることのない声で彼女は見つけた子どもに吐き捨てるようにして空白の声を告げる。
泣いていたこどもは、突然目の前に現れた彼女に驚いて顔を上げる。音もなく、まるで幽鬼か幻のように現れた彼女をどう理解していいのかわからないといった顔をしていた。
見るからにぶさいくなこどもがそこにいる。
どことなく愛嬌のある顔立ちをしているが顔中が涙でぐちゃぐちゃで、お世辞を知らぬ彼女はそれを見て不愉快そうに鼻を鳴らした。
そこにいたのは、やはりこどもだった。ただし、人間のこどもだ。
少なくとも、その人間達から『禁忌』として語り継がれている彼女が暮らすこの森にいるはずのない存在でもある。
ぼさぼさの黒い短めの髪。顔の中央にある少し大きな丸い鼻。ただ、こぼれ落ちるんじゃないかと思うくらいの丸い双眸がなぜか無性に彼女の気を惹いた。
突然のことに驚きを呑み込みきれていないのか、泣き声だけは止まった。かわりに、その瞳から拭いきれなかった涙がボロボロとこぼれ落ちている。
驚きのあまり呼吸さえも止めて、ひっくひっく、と何度も痙攣を繰り返しているこどもを彼女はじぃ、と見つめる。
「………だ、だぁれ?」
どれだけ泣いていたのだろう。涸れた声はうまく言葉が紡げずに喉に引っかかるような不協和音で大気を揺らし、彼女の耳まで届く。
だれ、などと。
この姿を見て本気で問うているのかと、彼女は胸の内で呆れ果てた。
彼女の体は純白の毛で被われている。
四つの足、俊敏な獣の姿。
三角形の形に尖った耳を、ぴくりと動かして尻尾を左右に振ってみせる。
彼女は、ひとではない。
にんげんなどではない。
「お、おっきな、おいぬ、さん?」
こどもの心ない一言に誇り高き彼女は激昂し、犬畜生などと一緒にするではない! と、威嚇の唸り声を上げる。刃のごとく並んだ牙をのぞかせると、こどもは吃驚して痙攣すると同時にまたボロボロと泣き出した。
泣き声はない。
だが、涙も彼女は好きではなかった。
こどもはビクビクと体を縮ませて、ごめんなさいごめんなさい、と、おこらないでおねがい、と目を閉じて何度も必死に謝り始める。言葉はなくとも、自分の発した一頃が彼女を怒らせたことに気付いたからこその心の底からの謝罪だった。その姿を目にし、自分のした大人げなさを自覚しとてつもない疲労感と馬鹿馬鹿しさとに一度に襲われて彼女は牙を口の中に隠した……そうして、改めてこどもを目にして驚きに目を見開く。
彼女は、見た。
目の前のこどもを、『視た』。
そして、ああ、と胸の内で始めて相手に対して哀れみを覚える。こどものなかにあるものを察知して、憐憫さえ胸の内に抱いた。
なぜなら、このこどもは『魔獣憑き』だからだ。
それも今まで感じたこともない強力なもの。
それは持ち主にとって力の強さと比例して災厄として降り注ぎ、不幸を身に宿らせることになる。
どうしてにんげんがそんな力を持つのかは誰にもわからない。矮小な人の身でありながら、なぜ『魔獣が無条件に心を奪われる』などという力を持って生まれたのか……それは人の身で扱いきるのはあまりに難しく、だからこそ、同じ種族であるはずの人間から迫害を受ける最たる原因となるというのに。
特別な力を持って生まれたものは不幸だ。
特別であるがゆえに、生まれ持った力で成すべき何かのため避けられない宿命を背負わなければならないのだから。
静かな衝撃から我に返り、彼女はそこで気づく。よくよく注視して見れば、目の前のこどもの体は傷だらけだった。
石つぶてを受けたものと思しきものもある。殴られたのか、叩かれたのかはわからない青痣も全身の至るところにあった。
それを目にし同時に、こどもがなぜこの森に来たのかを彼女は悟った。こどもはきっと、ここに『追い立てられて』入り込んでしまったのだろう。
すなわちそれは物言わぬ死の宣告に等しい。
禁忌の森にこどもを追い立てるなど、死ねと言っているのと同じではないか。
同じ種族の、それもこどもに対するにはあまりにも苛烈で身勝手極まりない処置に、彼女は人間たちの傲慢さに侮蔑とも言える感情を募らせる。同時に、目の前のこどもへの微かな同情心も芽生えた。芽生えてしまった、とも言える。
彼女はそっと息を吐く。
こどもならば、この縄張りのなかにいても邪魔にはならない。領地に入り込んできた敵になどなれるはずもない。
それに、憑きの衝動など彼女には何の関係もなかった。そんなものに惑わされるはずがない。故に、彼女は目の前の哀れなこどもを見逃してやることにした。
縄張りのなかにはこどもを危険に曝すような魔獣もいない。そういうものは真っ先に彼女自身に排除されるか、逃げ出すかしているので当たり前なのだが。
見逃してやることをこどもにもわかりやすいようにと、その場から離れようとしたところで、こどもは弾かれたように凄い勢いで彼女の側に走り寄ってきて一目散に抱きついてきた。
「まって、まって! おねがい!」
いくら意識を外していたとは言え、間合いに簡単に入り込んできたことに彼女は驚愕し、勢いで勝手に触れるな、と威嚇のために再びこどもに牙をつきつける。
殺気は込めないものの身を震わせるような唸り声を上げた彼女に青い顔をしてそれを聞きながら、それでもこどもはぎゅうぎゅうと小さな手を離そうとしなかった。細い指が、血で赤く染まった手が、真っ白な彼女の毛を掴んで離さない。
「お、おねがい……ひ、ひとりに、しないで……」
彼女はわけがわからなさに困惑する。
こどもが今、縋り付いているのが自身と同じ人間でないことなどわかりきっているはずなのに、それなのにどうして触れてくるのか。助けを求めるのか、と。
理解が出来ずに牙をのぞかせるのをやめてしまった彼女に、こどもはやはり涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で見上げ震える唇を必死で動かして訴えた。
「おねがい、おね、がい、い、いっしょに、いて」
木々のざわめきのように幾度も幾度も繰り返される懇願に彼女はしばらく立ち尽くし、ふと、こどもの手に目を落とす。
真っ白な彼女の毛を染める赤い色。それは、こどもの手から流れているのか。あるいは、自分の体から流れる血を拭っていたのかはわからない。
こどもはまたポロポロと泣き始めた。
泣きながら何度も、おねがいいかないで、いっしょにいて、ひとりにしないで、と彼女に願うことをやめなかった。
舌っ足らずな口調で繰り返し呟いて泣き続ける。
……泣くな。
泣くな、泣くな。泣く声は嫌いだ。
そのこえが、遠い昔に奪われた彼女の大切なもののことを思い出させる。
言い知れぬ憤怒と憎悪、奪われた喪失感と抱えきれないような、どうしようもない悲しみと切なさを胸に彼女は手っ取り早くこのこどもの涙を止める方法を考える。
殺すことは真っ先に否定した。
こどもはころせない。
それは彼女の心を一番に抉り、傷つけ、今度こそ立ち直れぬほどに自身を打ちのめすことになる。
それが人間のこどもだろうと関係ない。
こどもは、ころせない。けっして。
威嚇しても逃げず、この場から彼女がいなくなっても、こどもはきっとずっとここで泣き続けるのだろう。この森の中で、その声は嫌でも彼女の耳に届いてしまう。
緩慢に尻尾を一度だけ振り、彼女はそっと体を地面の上に横たえた。
……仕方ないのだ。だって、立ったままではこのこどもが泣きやまない。
抱きついていた彼女の体が沈み込んでしまったことに、こどもが気づいて顔を上げる。
ああ、何度みてもやっぱりぶさいくだ。
それなのにどうしてこんな顔から目を離せないのだろう。『魔獣憑き』としての力は彼女自身に影響を及ぼすはずがないのだが、その『なぜなのか』を理解できないままに彼女はこどもから視線を逸らし、けれど気付かれない程度に視界の端でこどもを見やる。
こどもはきょとん、と目を丸くして彼女を見ている。
だが、やがて彼女の意図することに気づいたのか、ぐちゃぐちゃの顔のまま崩れるように顔を歪ませて消え入りそうな声で呟いた。
「ありがとぉ…」
その言葉に、彼女は少しだけ目を丸くし、しばらくしてようやく、そこにあったこどもの顔が『笑顔』であることに気がつく。
ぶさいくなこども。
見てくれも悪いし、涙と鼻水で汚れた顔は汚いことこの上ない。
けれど笑うその顔は存外かわいらしい、と、彼女はそんなことを思う。
安堵したのか全身で体にもたれ掛かってくる自分以外の生温い温度を、このとき彼女は気持ち悪いとは思わなかった。
ただ、早くこどもの体が暖まればいいのにと、そんなことを考えていた。
静かな光が降る夜。
夜空に浮かぶ月だけが、彼女とこどもの邂逅を見守っていた。
竜恋歌02