締め切った窓の向こうから微かに鳥の鳴く声が響く。
明ける陽の兆しに目を覚まし、高らかに朝を謳っていた。
それと一緒にアスファルトの上を滑る車の駆動音も遠くから近くへ、そしてまた遠くへと流れていくのも混じる。
ただしそれは硝子を隔てた向こうであっても漏れ聞こえてくる程度で、窓のすぐ側にあるベットの上で未だに眠りの淵に落ちている人物を覚醒に促すにはまだ足りない程度の声量でしかなかった。
しかも今はまだ、人が生活を始める時間帯には遠く、朝の通勤通学といった時間帯の数時間前というせいもあってまだ一定の静けさを保ってる。
そんな中で、小松はひとり、横になっているベットの上で寝返りを打つ。
覚醒にはまだ遠く、それでもあと十数分もすれば起き出すくらいの呼吸の浅さだ。
室内に響いていた静寂。
そこに小さな穴を開けるように、寝室に続くドアが音も無く開かれる。音がほとんどしなかったためにベットの上にいる小松を起こすこともない。
気配もなく、すぅ、と滑るようにしてフローリングを進む足。
ベットのすぐ側まで来て立ち止まると、数秒だけ布団に潜り込んでいる小松の寝顔を確認した後、結ばれていた音がこぼれた。
「 小松くん」
眠る彼のすぐ側に別の声が静かに文字通りの意味で降ってくる。
鼓膜を震わせる低音のそれ。
名前を呼ぶ声に誘われるようにして、浅い眠りに片足をつけたままだった小松の意識が徐々に覚醒へと導かれていく。
「ん……」
むずがるような、嫌がるように小松の口から意味のない言葉が洩れるのを聞いて、声の主は、くすり、と小さく笑い声をこぼした。
「小松くん、起きて」
そうして声の主はソッと眠っている小松の体に手を置いて軽く体を揺り動かす。
聴覚からだけでなく、不快にならない程度にと抑えられてはいるものの、それでも覚醒へと促す仕草は眠る小松の意識を呼び覚ますには十分だった。
「……んぅ?」と覚醒にはまだほんの少しだけ足りない状態で体を反転させ、天井へと改めて仰向けになった小松の閉じられていた瞼が少しずつ開いていく。ゆるゆると睫が揺れ、焦点の合っていない寝ぼけ眼の黒い瞳がのぞいた。
「おはよう、小松くん」
その寝ぼけた視界いっぱいに広がるのは、美丈夫の満面の笑顔だった。
「うひゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
一拍おく間もなく瞬時に覚醒へとスイッチが入った小松の口から驚愕のあまり悲鳴が生まれ、静かだった室内に響き渡った。
それは小松自身の鼓膜を震わせ、本人はおろか、窓の向こう側にいたらしい鳥たちも驚いて飛んで逃げていくほどの声量だ。
文字通りの意味で横になっていたベットの上で飛び上がらんばかりに驚いた小松は、そのままベットの端、壁際へと物凄い速さで引いた。それは物理的な意味で距離を取ったという反応だったのだが、それをされたほうはと言えば小松の生み出した声の煩さに眉を顰めるでもなく、唇の緩めて優雅に微笑んだ顔のまま改めて口を開く。
「おはよう」
緩く首を傾げて再度告げられた挨拶に、咄嗟に飛び退いた小松も幾分か我を取り戻したらしい。
それでも冷静というにはまだまだ足りないくらいではあったが、パチパチと何度も瞬きを繰り返し、丸く開かれた瞳孔を元の形に戻しながらゆっくりと喉の奥に縮こまっていた言葉を絞り出す。
「……お、」
「うん」
「お、はよう、ございます……ココさん」
「うん、おはよう」
何度も繰り返された言葉であったが、挨拶をしてくれたのなら、と答えることにしたのだろう。
名前を呼ばれ、ココは嬉しそうに笑みをさらに深くする。
それはもしこの顔を他の人、おもに一般女性陣が目にできれば一目で腰が砕けそうになるくらいの威力を誇っていた。表情を作らずに立っているだけでも絵になるような美丈夫が、惜しげも無く満面の微笑みを浮かべているのだ。
しかもその笑みは純粋な好意のみで彩られている。
これを目にして顔を赤らめない人物がいるのであればお目に掛かりたい。それくらい、目にしたものの心にダイレクトな衝撃を与える代物だった。
もしそれを小松以外が見ることができれば、という注釈がつくにしても……それらを踏まえても、今、それを目の前にすることになった小松にも、多少なりの衝撃を与える程度には、目にするだけで腰が引けてしまいかねない顔だったことは間違いない。
実際、もう見慣れるくらいには目にする機会が圧倒的に多いはずの小松も、頬が赤くなるのを止めることが出来なかった。
赤く染まった頬をそのままに、小松は改めて自分が置かれている状況を頭の中で顧みる。
言葉に出さずとも上下に動く目の動きで小松が思考に入ったことを察したのだろう。それを見つめるココも何も言わずに彼の考えがまとまるのを口を閉ざして待った。
しばし、時間が止まったような沈黙が落ちる。
「……え、と」
数分がたったか、それとも1分もたってないのかもしれない。
口を開いたのは小松のほうで、モゴモゴと動きの悪い唇をどうにか動かしながら尋ねる。
「ココさん、どうしてここに……?」
「そろそろアラームの設定時間だから起こしに来たんだよ」
短い言葉の数のなかでも小松が聞きたいことを読み取ったのか、ココはすぐさま淀みなく答えた。
「いつもは小松くん、アラームが鳴る前に起きてきちゃうけど今日はその時間になっても起きて来なかったからね。ボクが起こしにここに来たってわけ」
「あらー、む」
「そう」
緩慢に瞬きをして聞かされる話を自分のなかで整理している様子の小松の呟きにも軽くココは頷いてみせた。
アラーム、つまり起きたい時間帯に鳴るように設定された、いわば目覚まし機能。
「でも、それってお休みとかには鳴らないように設定してなかったでしたっけ……?」
「キミが設定したのは『土日』だけ。今日みたいな『祝日』には設定してないよ」
「あ、あ……そっか」
ボク設定ポカしちゃってたんだー、と小松は小さく唸るような声を出して頭を抱えた。
その様子を眺めてココは小さく笑い声をこぼすと、ベットの上で座り込んだままの小松に上体を近づけながら片手を差し出してみせる。
「設定し忘れてるんじゃないかな、とは予想してたんだけど、さすがにボク自身が設定をいじるわけにもいかないからね。
だから、今日はキミが設定したとおりに行動したんだ」
「そこは勝手に予測してアラームを変更してくれても大丈夫だったんですよー……」
小松も言葉もなく差し出されたココの手に気付き、半ば苦笑いを浮かべながらも彼の手を取った。
そのまま言葉で示し合わせるでもなく、実に自然な動作でココはベットの上から小松を起こして床の上に立たせる。
とん、とフローリングに下ろした小松の足の音が静かな室内に響く。
顔を上げた小松の視線を受けて、ココは少しだけ困ったように表情を変えて首を横に振った……たとえその困った表情がポーズであっても、だ。
「そうはいかないよ。だってボクは小松くんの『所有物』なんだから。キミの許可無しじゃ、アラームの設定をいじることも出来やしないんだよ?」
何の躊躇いも無く『ボクはキミの所有物』発言をされた小松は、少しだけ諦めたような、それでいてもうわかっていることだから言うだけ無駄、とも言いたげな顔をしたまま、繋いだままだったココの手を自分から離して顔を上げた。
「……じゃあ、今ここで設定変更をお願いできますか?」
「キミが望むならすぐにでも……『アラームの設定を変更しますか?』」
滑るようにして出された後半の言葉は、そのときだけココの声質が無機質なものになって紡ぎ出された。
先ほどまで小松と交わされていた気安さは欠片もなく、事務的なものに変わったそれにも慣れたもので、小松は頷いて答える。
「はい、設定変更します」
「『承りました』」
チキキ、と小さく硬質的な独特の音と一緒に、ココが告げた。そのやりとりを終えたのと同時に、小松はまた表情を緩めて並び立つココから部屋の入口へと視線を滑らせながら歩き出す。
その半歩後ろをココもゆったりと追いかけた。
「そういえばアラームがいらないってことは、今日はお休みってことなの?」
「はい。だから今日は朝もゆっくりしようかなーって思ってたんですけど……」
「それは悪いことしちゃったね」
「いいんです。ココさんはちゃんと『設定どおり』にボクを起こしてくれただけなんですから」
二人はそんなやりとりを交わしながらドアを開けて寝室から続くリビングへと向かう。
閉じられた寝室の扉の向こう側で、明けた朝の光が少しずつ強くなっていった。
―以下略―
ハロー、マスター!【準備稿】