<参>


「…………あれ?」

 小松が目覚めたときに目に入ったそこは、見慣れないものだった。
 意識を取り戻し、朧気に……それでも覚醒途中特有の半ば混濁している頭をどうにか正常に戻そうと試みながら、重い瞼を開けると、見知らぬ天井が真っ先に目に飛び込んできたのだ。
 緩慢に瞬きを繰り返しながら、起き上がってあたりをさらに見回す。
 小松がいたのは広いベットの上で、これも見たことが無いものだ。
 素足を動かすと、その先から伝わってくるシーツの感触が少し冷たくて心地良い。
 さらに体重を移動させると柔らかベットのスプリングを感じることができる。
 きょろりとあたりに視線を走らせ、ようやくこの部屋自体が小松の記憶にはまったく覚えのないものだということを改めて認識できた。
 起き上がったベットだけが置かれた簡素な部屋。一応、間接照明などはあるが、部屋の中にあるものはといえば他には小さなチェストくらいのもので、棚も何も、調度品ひとつですらない。
 あまりにも殺風景な部屋に疑問を感じながらも、小松はベットから移動しようと緩慢な動作でモタモタとシーツの上を四つん這いの体勢で移動する。
 何をしようと思ったわけではないが、起きたからには何かしていないと落ち着かないという彼の性分からくる惰性的な体の動きで、明確な理由があったわけではない。
 ただ、小松は霞がかった頭で、床に足をつけてベットから立ち上がった。

「……ここ、どこだろう……」

 ぽつりと呟いても、今現在一人きりの小松に答えてくれる相手はいない。
 部屋をさらに見回し、ここが自宅のベットの置いてある部屋よりも広いな、などというどうでもいいことを思ったりもしたが、それは答えの類ではなく感じたままを思い浮かべているだけで『ここがどこか』という結論には至らない。
 ふと、そこで小松は自分が着ている服に視線を落とした。
 着ているのは薄い青色の入院服。
 ただし、普通なら上下ともにあるはずのそれは上着しか着ていないようで、足は向き出しのままだ。かろうじて上着が太ももの中あたりまで裾があるために下着は隠れているが、なんともおかしな格好であることは間違いない。

「…………?」

 入院服、という単語を頭の中で無意識に引き出し、当たり前のように受け入れて自身を観察していた小松だったが、そこで奇妙な違和感を覚えて顔を顰める。

「ぁ、あ、れ……?」

 いまだぼんやりと霞がかった頭では違和感の正体をうまく導き出すことが出来ずに小松は胸の内に何とも気持ちの悪い痼りのようなものを抱えることになる。そしてその痼りは、飲み下すにはあまりにも大きく、無視することなど出来なかった。

「ボク、どうして、こんなの」

 疑問は独り言として口から滑り落ちてくる。しかし滑る言葉も、絡まるようにしてつっかえながらのもので、ひとつとして自身を落ち着かせる要素にはならない。
 胸に手を置き、奥のほうでドクドクと脈打つ鼓動を感じながら、どうしてこんなにも不安になるのかと小松は言い知れない違和感に怯えた。
 震えをどうにか止めようと何気なく手を頭のほうに持って行く。
 指先が、そこに巻かれたままの包帯に触れた。
 触れるまで気付かなかったが、小松は頭を包帯で巻いていた。痛みは感じられないし、今の状況で混乱していて失念していたのだろう。
 特徴的な布地を指の腹で撫でる。

「……え」

 包帯。
 頭。
 入院服。
 単語だけが幾つもフラッシュバックのように小松の脳裏に浮かび、その度に何かを訴えかけるように違和感を深めていく。
 答えがなかなか出ないもどかしさに、気持ち悪さがこみ上げてきた。
 生理的に我慢できない歯がゆさに、小松はなんとか頭を働かせようと必死に思考を巡らせる。

 そもそも、自分はどうしてここにいる?

 思考が明確となる突破口は、『疑問』だった。
 どうしてここにるのかという当たり前の疑問。
 それは糸口となって霞がかったままで、拗れた小松の脳内の回路を少しずつ繋げていく。それは小松自身が望むほどの速さではなく、まるで幼児が簡易のジクソーパズルを組み立てているような、何とも言えないじれったさがあったがそれでも繋がるだけまだマシともいえる。
 ここで目覚めた理由。
 ……この場所に至るまでの、出来事。
 意識を取り戻したということは、ここに来る前は意識を失っていたということと=(イコール)だということになる。
 ならば意識を失う前は?
 失う前、何を自分はしていたのか。
 最後の記憶を、小松は呼び起こそうとギュッと目を瞑った。

 瞬間、脳裏を浮かんだのは、目の醒めるほどの青。

「…………っ!」

 脳裏に浮かんだものに小松はハッとして目を開けた。
 こうなる前。そもそも自分がどうしてここにいるのか。頭に巻いてある包帯は何のためにあるのか。
 思考がようやく繋がろうとした、そのとき。

「ぁ」

 顔を上げた小松の目の前に、先ほど思い浮かべたと同じ青色がいた。
 そう、『いた』のだ。まるで最初からそこにいたかのように。
 だが目を閉じるのと同時に顔を伏せていた小松は、さっきまでこの部屋にいたのは自分一人だけだということを覚えている。
 少なくとも、この部屋には自分の他には誰も居なかった。
 なのに、今、小松の視界は確かにそこにいる人物を映し込んで、それが現実だということをつきつけているのだ。
 思わず開いた口から洩れてしまった声は、意味の無いものでしかない。
 驚愕のあまり生み出されてしまっただけという、なんともお粗末なもの。
 二人は……目の前にいて、こちらを見つめているトリコは真っ直ぐに射抜くほどの強さで持って、小松を見据えていた。
 思わず視線を逸らしてしまいそうなくらい、もしくは目が合ってしまえば逸らすことの出来ないという真逆の強さをした目だ。けれど小松は、その視線にゾクリと背筋が凍りつくのを止めることが出来ない。

 トリコの瞳には強さはあっても、他には何も無い。
 感情も、意味も、言葉も。なにひとつとして。
 目の奥にあるのは深淵。
 ガラス玉で作られた模造品か、髑髏のがらんどうの空洞を覗き込んでいるような気分だった。

 動けないのか、あるいは知らず知らずのうちに震えていたのか。
 凝固する小松に、トリコは何も言わずに手を伸ばして自身の腕に抱き込んだ。
 まわす腕の強さも、肌から伝わる体温も、小松がよく知っているそれだった。慣れ親しんだ、いつも側にいたもので、それを間違えるはずもない。
 けれど、
 それでも、胸の奥の違和感だけが、どうしても消えてくれないのは、なぜ。

「トリコさ、ん」

 抱きしめられながら絞り出すようにして、ようやくひとつだけこぼれ落ちた名前は、結局答えられることはなかった。



 <中略>






境界−幕引き−