同時刻。
 深く歪んでしまった森の奥深く。
 呪いに沈んだ城のなかで、ウォールペンギンの幼子の声が廊下に響いていました。

 ユーン、

 悲しそうに、何かを訴えかけるような声を上げて、ペンギンは目の前の扉を小さな手で何度も叩きます。
 ペンギンのヒレなので、ノックの音はほとんど立ちません。
 それでも、何度も。
 何度も、飽くことなく、諦める様子もないまま、繰り返し鳴き声を上げ、ノックを続けました。

 ここをあけて、
 なかにいれて、

 と、言葉も無く訴えかけているのが、聞いているだけでわかるような切ない鳴き声です。
 それでも閉ざされたままの扉はピクリとも開く気配はありませんでした。

 閉ざされたその扉は、水晶宮へと続くものです。

 ユーン……

 今にも泣き出してしまいそうな声で……実際、すでに人の子と同じように目に涙を溜めて、ポロポロと泣き始めてしまったウォールペンギンは、何度も訴えかけます。
 誰も居ない闇と重苦しい気配が支配する城の中で、甲高いその声だけが、虚しく響いて、消えていくばかりでした。



「ダメだよ」

 それを、たったひとり。
 城に残されたただひとりの人間である小松だけが、聞いていました。
 分厚い扉の向こうから微かに聞こえてくる幼子の呼ぶ声に、ぽつりと、この声が聞こえないのを承知で答えます。

 温室の芝生の上に力なく横たわったまま、小松はもう何度目かになるかわからない言葉を呟きました。

「……ダメだよ、お前は……いっしょにつれていけない」

 わかってほしいと心の奥底から願いながら、小松は苦しそうに長い息を吐き出します。

 さらさら
 さらさら、と。

 小松の視界のただ中で、水晶宮にあるすべての植物たちが静かに朽ちていっていました。
 野菜も、ハーブも。
 植えてある木も、花も。
 すべてが等しく、枯れ、朽ち、地面に次々と茶色く落ちていくのです。
 その光景は、いっそ異様なものでした。
 けれど枯れていく景色のなかで、ただひとり温室の底で横たわっている小松は、黙ってそれを見つめていました。

 驚かないのは、『こうなることがわかっていた』からに他ありません。
 いつか起きるだろうとわかっていたものに、驚きを感じるわけがないのです。

 細めていた目を閉じて、苦しそうに表情を歪めます。

「巻き込むことは、できない……わかって、」

 聞こえないとわかっていても。
 それでも小松は、聞こえてくるか細い声に何度も優しく、出来るだけ優しく、言い聞かせるような声色で語りかけていました。

 小松の目の前で広がってるもの。
 それは、今まさに−呪い−の刻限が迫ろうとしている光景そのものでした。
 横たわっている小松を中心にして、すべての植物たちが枯れ……いいえ、違います。
 命を散らしていっていました。

「…………大丈夫。今は、辛いかもしれないけど……テリーが、お前の側にいてくれるから」

 目に映す光景を、ただ瞳に映しながら、それでも小松が語りかけるのは、扉の向こうにいるペンギンの幼子でした。

 小松は、今何が起きているのかを正しく理解していました。
 だからこそ、−呪い−を成就させようとしている光景のなかにあっても、取り乱すことはなかったのです。

 そう、彼はわかっていました。
 ゼブラを送り出すその前、朝に見た、あの花が落ちる光景を見て気付いていたのです。
 彼には言っていませんでしたが、この水晶宮は、確かにここに創ったのは小松の父親でした。
 しかし、ここに咲く植物は……いいえ、いつも寄りかかっていた大樹に咲く、赤い花だけは、元々ここにあったものではなかったのです。

 この花は、魔法使いがここに残していったものだったのです。
 『呪い』の刻限を告げるために、わざと残していったもの。
 絶望を、与えるために。
 花を見て、小松が一時でも呪いのことを忘れたりしないように、と。
 歪んだ思いとともに残した、『枯れない花』でした。

 ゼブラが感じた違和感の正体こそが、それでした。
 二週間ものあいだ、少しも姿を変えずにいる咲き誇る花など、あるはずがないのです。
 だからこそ感じた違和感でしたが、それが形になることはありませんでした。

 そしていま、散っていく花は、小松に終わりが来ることを教えていました。

 いくつも、いくつも。
 小松の身の内を蝕むそれに呼応するかのように、花片を散らします。
 それをぼんやりと小松は見つめていました。

「……ごめん、ね」

 いつのまにか唇から滑り落ちた謝罪の言葉は、親を失い、森の中で彷徨っていたところを拾って、いままで側に置いていた子ペンギンに対する憐憫の情からのものだったのか。
 こうなってしまうことがわかっていて、あえて名前をつけずにおいたことへのものなのか。

 小松にはわかりませんでした。

「ごめん、」

 こぼれ落ちる光景と同じように、何度も繰り返し、小松は謝罪を繰り返します。

 掌、そして指の隙間から絶え間なく落ちていく砂粒のように、すべてが朽ちていく光景のなかで、小松はもう一度、長い、長い、息を吐き出します。
 もうそこまで迫る刻限を、感じていました。

「大丈夫……ちょっとだけ、ひとりぼっちになるけど……ゼブラさんが、戻ってきたら、お前とテリーを……きっと、助けて、くれるよ……
 そしたら、もう、さみしく、ない……」

 力なくゆるゆると閉じていく瞼。
 ゼブラのことを思い出し、小松は彼が戻って来る前に、きっと自分の命が終わってしまっているだろうと、感じていました。
 
 −……ゼブラさん、怒るかな……約束しといて、勝手にそれを破って…………きっと、怒る、な。

 思い浮かぶのは、ここに帰って来ると言ったゼブラのことでした。
 彼とした約束のことを、そしてそれをはからずも破ってしまうことを、徒然と思い浮かべていきます。

 それと一緒に、小松は思い出していました。

 実は、あの森で倒れていた人間を助けたのは、ゼブラが始めてではなかったのです。
 呪いをかけられてしまい、暗く、深い澱みへと落ちてしまった森。
 それから幾たびかの時を経ていくあいだに、まだ息のある人間を、小松は何度か見つけたことがあったのです。
 片手で数える程度でした。
 小松が見つける前に、森に現れる獣の餌になってしまうことのほうが多かったのです。
 それでも、まだ命がある彼らを、小松は見過ごすことができませんでした。

 けれど、
 はじめて助けた人間は、小松の姿を一目見て、怯えて自ら命を絶ち。
 その次は、麻袋を頭から被った小松を気味悪がって、部屋から逃げだし、森の中へと迷い込んで二度と帰って来ず。
 さらに、姿を見せないままに城で目覚めた人間は、宝物を見つけてそれを持ち出し、そうして…………

 ただの一度も、小松の元に残ってくれる人間はいませんでした。
 そのたびに小松の心は酷く傷つけられ、痛めつけられていきました。
 微かな望みを捨てようと、思わせてしまうくらいに。

 ……そして、あのとき。

 『白雪姫花』によって深い眠りへと誘われてしまったゼブラを見つけたとき、小松は「これでおしまいにしよう」と、思ったのです。

 期待も、望みも、
 彼で最後にしようと、心の奥底で決意して、ゼブラを助けるために城へと連れ帰ったのです。
 けれど、それで本当におしまいになるだろうと、小松は思っていました。
 あとは『呪い』が自身の命を散らすのを待つだけになるだろう、と、思っていました。

 しかし、ゼブラは、そんな小松の予想を……あるいは、心の奥底に沈んでいた諦めや落胆、そのすべてを取り払ってしまったのです。

 今まで見てきたどの人間とも違う、あまりにも規格外すぎた相手でした。

「…………ぅ」

 本当に、今までのすべてのものを覆してくれたのです。
 文句を言いながらも側にいてくれたのも、
 美味しそうに、自分の作ったものを食べてくれたのも、
 この庭で、テリーや子ペンギンたちと一緒に過ごしていたのも、
 自分の姿を見ても、恐れも何もなく、ただ当たり前のように、時を、ともに、

「……っひく…………ぅぇ………」

 諦めかけていた、望みや期待をもう一度、思い出してしまうくらいに、すべてを覆してくれました。

 小松は、いつのまにか、しゃっくりあげて泣いていました。
 終わる景色のなかで、もうすでに息をするのも苦しい肺を動かして、ぽろぽろ、ぽろぽろと、泣きました。

「……、さん……!」

 歪む景色。
 水膜の向こう側で、色を無くしていく世界。
 小松は、頭から被っていた麻袋を、見るのに邪魔だからと、震える指先で取り払いました。

「ゼブラ、さん……っ」

 それでも、どんどん視界は狭まっていきます。

「……ゼ、ブラ……さっ……!」

 何度もしゃっくり上げながら、今にも絡まって、そのまま消えてしまいそうな声で、

 名前を、呼びました。
 手を、伸ばしました。

 忘れてほしい、と願いながら、
 約束を破ってしまうと、覚悟しながら、

 最後だから、と、小松は声なき声を上げる心が望むままに、しました。





 花は、ちらちらと散って、






tasty dish and the Beast 17