宵闇のなか。
星も消え、漆黒の闇が跋扈し、明かりがなければ一寸先さえ見通すことができない。
そんな、ただ中で。
――――――ッ!!!
闇の中であってもなお、そこだけが切り取られたかのような純白の輝きを放ちながら、一匹の獣が鋭い雄叫びを上げました。
咆哮。
静寂と喧噪。
そして怒号と、悲鳴。
それらをすべて薙ぎ払うかのごとく、力強いものでした。
その雄叫びを耳にしただけでまわりを取り囲んでいる街の警備隊の一同が身も凍るような恐怖に震える、そんな声です。
言葉はなくとも咆哮だけで伝わってきます。
邪魔をすれば容赦はしない。
行く道を邪魔するな。
ただ、それだけの誰にも止められぬ強固な意志でもって、純白の獣はもう一度鋭い雄叫びを夜の空に上げました。
あたりを恐慌状態に陥らせ、なおかつ、恐怖で縫い止め凍り漬けにしてしまうようなその声は、それでも一瞬だけ、まるで何かを懇願しているような叫び声にも聞こえてきます。
恐怖に支配されている人々に、それを気付く余裕などありませんでした。
それでも一握りの人間だけは、獣の声に混じるものに敏感に気づき、内心首を傾げます。
獣は……巨大な純白の狼。
この地方では伝説として存在だけが語り継がれるのみとなった、古代の大陸の王者、年若きバトルウルフは、まわりを睥睨しながら何かを探すように一歩を進めていきます。
鋭い視線を浮かばせながら、
けれど一瞬、進めた足が何かを耐えるように震えています。
グッと、それでもバトルウルフはもう一度、歩を進めました。
「………………っ! やっぱりてめぇか!」
そこへ、騒ぎを……というより、街に突如として姿を現し、雄叫びを上げ続けたバトルウルフの声を聞きつけたゼブラが、やって来ました。
目の前にいるバトルウルフが、小松の元にいるはずのテリーであることはゼブラはもちろんわかっています。
見間違いようもありません。
バトルウルフの元にやって来たゼブラの登場に、遠巻きにしていた数少ない人々(ほとんどが雄叫びが上がるたびに我先にと逃げ出したり、気絶したものを抱えて離脱する者も多かったので)が驚きに息を呑みました。
同時に、ゼブラならば伝説の獣でも何とか出来るのではないかという期待もあります。
しかし、まわりの反応をそよとも感じず、ゼブラはテリーのもとへとどんどん近づいていきます。
「こんなところで何してやがる。てめぇは小僧のところにいるはずじゃねぇのかっ!」
ずん、と一歩を踏み出すゼブラを見つめ、けれどテリーは何も語ろうとはしません。
(元々、テリーの言葉を理解できるのは共に居る小松くらいなものですが)
まっすぐに何かを訴えかけるように、ゼブラを見つめています。
「おい!」
ただ、ゼブラは焦れた様子で、突然姿を現したテリーの意図が読めずに大股でまた一歩、近づきます。
純白の毛にゼブラが触れようと手を伸ばしたときです。
「『それ』に触るな!!」
鋭い声が、ゼブラの背後から発せられました。
短いながらも危険を知らせようとする声の主はココのもので、ゼブラは伸ばしかけていた手をそのままに、後方へと振り返ります。
見れば、ようやく追いついてきたトリコとサニー、そしてココがいました。
「おい、ココ。触るなたぁ、どういうことだ」
言葉の真意を知るために、ゼブラがココに問います。
「言葉の通りの意味だよ。『それ』に触れちゃいけない」
ココは厳しい表情で、目に力を込めてテリーを見据えていました。
いいえ、正確に言うならば、
「……違う。バトルウルフに、じゃない。
その呪いに、触れてはいけない」
人には見分けられぬものまで見通す、ココの目に映った凶悪な『呪い』を見つめていました。
「呪いだと!?」
「っいつ、んな面倒なもん抱えてんのかよ!」
トリコとサニーが、ココが言葉少なに忠告した意味を瞬時に悟り、ザッと構えを取ります。
そしてココが言った『呪い』という単語を聞き咎めたまわりにいた残り少ない人間も、恐れをなしてさらにバトルウルフから遠巻きに後退し始めました。
ゼィゼィと、テリーは大きく息を繰り返しながら、その時だけ苦しそうに目を細めて自分を取り巻いている人間を見つめます。
「ココ、こいつは祟り神か何かだってのか?」
「…………違う。祟り神なら、もっと禍々しいものが体の内から溢れ出ているものだけど、そこにいるバトルウルフは……確かに、身に纏っている呪いは今まで見たことがないくらいに強い。でも、むしろ巻き込まれている形に近いのかもしれない」
「? 何が違うんだ?」
ココの言い方が理解できないのか、サニーが眉間に皺を寄せて聞き返します
「だから、祟り神はそのものずばり、恨みなんかの極限まで高まった負の感情から生まれるものだ。文字通り身の内から呪いを生み出す。
呼吸をするように、呪いを吐き出すんだよ」
ココはさらに言葉を重ねました。
「でもこれは、違う。『呪い』を身に纏っているだけで、本質は侵されていない。
バトルウルフそのものが呪われているわけじゃなくて……何か、別のものの呪いに巻き込まれたような、そんな感じがする」
背後から聞こえてくるココの言葉に、ゼブラは目を見開きました。
驚愕とも言える表情は、背を向けているせいもあってトリコ達に見咎めることはありません。
けれど、それを唯一見ることとなったテリーが、悲しそうに目を細めました。
ゼブラは、聞こえてくる話に思うところがあったのです。
それはいつか聞いた、小松の『自分の身に魔法がかけられている』というものと符号するものがあったからでした。
「…………小僧に『何か』あったんだな」
黙していたはずのゼブラから聞こえてくる声は静かなもので。
それを聞いたトリコたちが疑問を感じて顔を上げ、同じく、彼をずっと見つめていたテリーの視線を改めて一斉に集めます。
「そうなのか」
短いながらも尋ねようとしていることは、テリーにも伝わってきました。
テリーが肯定するように、ウォウ、と力なく答えます。
先ほどまで上げていた力強い雄叫びが嘘のような声です。
それゆえに、それまで上げていた声が振り絞るようにして出されていたものだとわかるものでもありました。
ゼブラは、「そうか」とだけ言って、そこから矢のように走り出しました。
「ゼブラ!」
止めるまわりの声も聞こえていないのか、あるいは聞くつもりもないのか、一心不乱に闇の中へと真っ直ぐに進んでいきます。
一気に巻き起こった事態に一同がついていけずに呆然とするなかで、それまで佇んでいたバトルウルフの体が、糸の切れた宙に浮かぶ操り人形かのごとく、ゆらりと崩れ落ちるように揺らめきました。
「……やべっ!」
「トリコっ?」
それにいち早く気付いたトリコが、『呪い』があると知りながらも倒れかかったバトルウルフの体に手を伸ばしたのです。
ココが制止の声を掛ける間もなく、巨躯をゆっくりと支えてやりました。
……クゥ……
支えられたテリーは、すでに『呪い』によって体力を根こそぎにされているのか、弱々しく目を開けて声を上げます。
「おう、心配すんな。今、下ろしてやるからな……と」
鳴き声を宥めるようにしてトリコは支えた体を地面に優しく横たえてやります。
「ってか、前、何してんだし! そいつには呪いがかけられてんだぞ!」
「こいつ自体がでっかい呪いってわけじゃないんだろ? ならちょっとくらい触っても大丈夫だろうよ」
「『呪い』が移ったらどーすんだ!」
「気合いで跳ね返す!」
「できるわけねーだろ!!」
サニーの危惧にあっさりと言い放ったトリコでしたが、こいつなら本当に気合いだけでやりかねないな、と場違いにもココは思いました。
バトルウルフの体に纏われているのは、言わば残り香のようなもので、『関係の無いもの』に対して効果を発揮することが薄いことを、ココもよく見返すことで気付いていたという面もあります。
ぎゃいぎゃいと喚くサニーに、トリコは「だってよー」と頭を掻いて隣に横ばいになったテリーを見下ろしました。
結構な大きさですし、気配も威圧もありましたが、襲いかかってくるような獰猛さをすでに感じ取ることもありません。
「敵意はねぇみたいだし、それにこいつが探してたのは、ゼブラだったわけだろ?」
「……それは」
「確かに、そだけど……」
そうです。
バトルウルフが騒ぎを起こしてまで探したかったのがゼブラであることは、先ほどの彼らのやりとりでわかっていました。
目的を果たした今、伝承通りであるならば誇り高いバトルウルフがむやみやたらに暴れ回ることもないでしょう。
「なら、大丈夫だろ。なんかあったみてぇだけど、大抵のことはゼブラなら腕ずくで何とかしちまうし……それに、もうこいつには何かしでかす力も残ってないみたいだしな。
あと、敵意もねーヤツをどうこうするのは座りが悪い」
何より、すでにバトルウルフに残された力は少ない様子でした。
ここに来るまでに何があったのか。
あるいは身に纏う呪いに体力を蝕まれ……それでも無理を通してゼブラに会いに来たのか、ぜぃぜぃ、と大きく息をつくのを止める様子はありません。
あまりの状態に、呪いを身に纏ってしまっているのがわかっていて、トリコは自身の目には純白の毛だけしか見えないテリーの体を一度だけ労るように撫でてやりました。
「…………もしかしたら、だけど」
バトルウルフを見つめていたトリコとサニーの後ろから、しばらく思案に暮れていたココが口を開いて近づいて来ます。
あまりまわりに聞かれたくない話なのか、声のトーンは極力落とされていました
街の人々は、どうしていいのか判断がつかないようで、未だ距離を取ったままです。
「ゼブラはさっき『小僧』って、このバトルウルフに確かめるみたいに言ってたんだ」
「それはオレも聞いた」
「オレも」
「うん……だから、『呪い』を受けているのはゼブラと彼の共通点でもある……その、彼なのかもしれない」
誰かは知らないけどね、とココは呟きました。
おそらくゼブラが弾かれたように走り出したのも、それが理由なのでしょう。
バトルウルフの身に受けている『呪い』の大元かもしれない、と。
「……二週間、ゼブラは姿をくらましていた。その間、どこかに世話になってた、って言ってのは彼の元で……
そこに、このバトルウルフもいたんだろう。顔見知りのようだし」
だから、とココは続けます。
秀麗な顔に何か言い知れない不安を抱えているのが、見えます。
「……ココ?」
どうかしたのかと、トリコとサニーが言外に問えば、彼は意を決したように口を開きました
「さっき、花を、見つけたんだ」
「花ぁ? この時期にか?」
「そもそもそれと今に何の関係が……」
「ゼブラが言わなかったのは、説明するのが面倒だっていうのもあったと思うんだ。でも、半分くらいは説明したら『面倒なことになる』のがわかってて、あえて言わなかったっていうのも、多少なりとあったんだろう。あいつも少しはそういうのが感じてたんだよ」
「??」
謎かけのような言葉でした。
つまり、ココが言いたいのは、説明するのが面倒なのと、説明すれば面倒なことになる、という違いがあるということです。
それはつまり、ゼブラも自分が特殊な場所にいたということを自覚していたという無言の証明でもありました。
「十中八句、あの花は彼から贈られたものだと、思うんだ」
「なんでんなことがわかるんだ? ゼブラが持ってきただけかも知れないだろ」
「死ぬほど似合わねーけどな」
「話の腰を折らないでくれ。気持ちはすごくよくわかるけど。
…………あの花はね、冬にはけして咲くことがないものなんだ。つまり、あの花を渡す、っていうことはその花に特別な意味が込められているということにもなる」
ココが目にしたのは、白い花。
小松が『ポピー』だと言った、花。
「一般的にはポピーと言われているけど、別の名前もあるんだ。そして意味を持たせるとするなら、あれは多分、芥子だ」
「けし?」
「そう、白い芥子の花」
ココが危惧しているのは、花に込められた意味。
「白い芥子は、花言葉で『忘却』という意味がある」
厳しい瞳で、ココは脳裏にあの花の姿を思い浮かべていました。
「……それを贈った彼は近いうちに自分の命を奪うほどの『呪い』が発動するのを知っていて、ゼブラに花を渡したんじゃないかな?
自分を忘れてくれ、っていう意味を込めて」
だとすれば、
「状況は、かなり悪いよ」
ココの張り詰めた声が、闇に溶けていきました。
そしてそれは全力で小松の元へ向かっているゼブラの耳にも、届くことはなかったのです。
tasty dish and the Beast 16