「料理長ー! 小松料理長ー!」
「はいよ!」
いつもの、ホテルグルメのキッチン。
もうすぐディナータイムを迎えることもあってか、これから巻き起こるであろう『戦場』の予感に、コック達は準備に確認にと右往左往している最中だった。
それでもその行軍は、どこか整然とされたものだったのは、その戦場がいわゆる『いつものこと』であるせいだったのだろう。
だが、気を抜けば浮き足立ってしまう忙しさを前に、小松は的確に指示を飛ばしていく。
そんなときだった。
キッチンからホールに続く1カ所だけの扉が開き、ホールスタッフの一人でもある青年が小松を呼びながら姿を現したのだ。小松が指示を飛ばす流れで勢い良く返事をして振り返れば、スタッフが続けて口を開く。
「お客様です」
「客?」
短い問いかけだったが、それは『ボク(=料理長)を呼んでいるの?』というニュアンスを含んでいた。
料理長という役職もあって、小松が料理の席に顔を出すように呼ばれることはたまにあることだった。客人は美味しい食事を提供してくれた料理長に直接礼を言いたい、という建前のもと、彼に自分のことを印象づけたいという下心も持ってのものもある。世を席巻するグルメ時代において、優秀なコックはそれなりの影響力を持っているのだ。
若干二十五才という若さでIGO系列レストランの料理長の席についているという実力はもちろんのこと、近頃は、このレストランの星を一つ格上げし、なおかつセンチュリースープまで作り上げたという実績までついている小松に会いたいという客人は最近割と増えてきていた。
ただ、そういう客人はまずホールスタッフによって会う規準というものを、こっそりと見定めていた。
レストランを直轄してる梅田曰く、
「下心丸出しでうちのレストランの……小松ちゃんのことを見に来た、ちゃんとした『手順』を踏まないで来るような品位の欠片もない輩は客じゃなくて『ライバル』だから、適当にあしらっておいて頂戴」
だ、そうだ。
まあ、言い得て妙であろう。
純粋に礼を述べるためならばともかく、小松を直接(金と権力をちらつかせて)引き抜こうという厄介な人物も増えてきているのも本音だった。
そんな輩、会うだけ時間の無駄であり、営業妨害も甚だしいというのも正当な意見だ。
(今のところ、小松はホテルグルメから離れる意志もまったくないので)
そしてそういう人物は、割と見ていてわかりやすいのでホールスタッフに適当にあしらわれる場合が多い。
それが出来なくては星を掲げているレストランのホールで働けないのだ。
閑話休題。
そういうわけで呼ばれることは少ないのだが、それでも礼を尽くさなくてはならない相手が来ることもしばしばだった。
今回もその手の類なのかと小松が首を傾げていると、ホールスタッフの青年は、どこか含みを持たせた表情を顔に浮かべているのが目に留まる。
小松がそれを見咎めてさらに問いかけを重ねるよりも早く、彼は勿体付けるような口調で言った。
「すっごい美人が、料理長をお呼びです」
からかうような口調だったのは、この際、スタッフとしての品格云々よりも小松にも春が来たのではないかという囃したてを含んでの、生暖かい心遣い(非常に要らない)だったとも言えるだろう。それを聞いた小松は勿論のこと、キッチンが一瞬で時が止まったかのように静寂に包まれ、次いで、「ええええええ!」という悲鳴によって動き出したのは、まあ、仕方のないことなのかもしれないけれど。
□
そもそもだ。
小松を呼びに来たホールスタッフが言うところの、『すっごい美人』というのが男なのか女なのか言わないところが中々悪戯心を交ぜている点であっただろう。
ここで真っ先に女性という選択肢を出さなかったは、そういう系統の男性陣が小松の元に顔を出している前例があったからに他ならない。
誰とは言及しない。
まあ、例えば四天王一の優男とか、妙に輝かしい青年とか。
……そんなことはおいといて。
一気に色めきたった厨房を小松は何とか鎮めて、ついでに自分が一時的にいなくなることの指示などを矢継ぎ早に飛ばしてから、ひとり、キッチンを出た。
ホールに出れば、スタッフに案内される人の数は増えているとは言え、まだディナータイムの忙しさにはほど遠い雰囲気だった。
人の姿もまばらなホールを進んでいきながら、小松は指定されたテーブルに向かって歩いて行く。
(……でも、もしサニーさんとかが来たら『四天王の〜さんが』って言うはずなんだよね)
思案を巡らせるのは、どうして小松を呼びに来たスタッフがわざわざ『すっごい美人』なんていう比喩表現を使ったかということだ。
(ボクに面通しさせるのは、レストランにとっても重要な人物なのかもしれないけど)
誰かを明かさなかったのにも合点がいかない。
予約を取っていない飛び込みなのか、ということも思うのだが、そういう相手は余程のことがないかぎり『料理長に会わせてくれ』と言ったところで、やんわりと断るのが常なのだ。
答えに結びつかず、むぅ、と眉間に皺を寄せていた小松だったが、進む足を止めることはしなかったのでやがて目的のテーブルに近づく。
そこは、レストランのなかでも割と奥まった場所だった。
窓際のこともあって絶景は保証されている。
小松が顔を上げると、こちらに背を向けて、黒い髪の女性が一人、椅子に座っているのが目に留まった。
(……あれ?)
テーブルには女性の他に客人はいないようだった。これは珍しいことで、レストランを利用する女性は大抵、エスコート役の男性と一緒に来ることが半ば当たり前だったからだ。
ランチならばまだ考えられるのだが、今はディナータイムである。一人でここを利用する女性は、珍しいというか、ほとんど例がない。
(どうしたんだろ……ひょっとしてまだ相手が来てないとか?)
その間の話し相手に呼ばれたのか、と小松は一人胸のうちで納得して、女性のすぐ横まで進み出る。
適当なところで、かつん、と足を止めて口を開いた。
「お呼びいただきありがとうございます、料理長の小松で」
す、から続くはずの建前の口上はそれ以上続かなかった。
なぜなら、小松の出現と同時に振り返った客人の女性が、「小松シェフ……!」と彼のことを呼んだからだ。そしてその声に聞き覚えがありすぎた小松は、間の抜けた声を出したあと、ぽかんとして口を開けてしまう。
「め、メル」
我に返った小松がそこにいる彼女の名前を口にしようとしたところで、女性のほうが唇に人差し指を当てて『しぃっ』と短く合図を送る。
それ以上はここで言わないでほしいという意思表示でもあった。
確かにそれはそうであろう。
小松とは別の意味で、彼女は……メルクは、あまりにも有名すぎる人物であるからだ。
その意味を察して慌てて飛び出し掛けた言葉を飲み込んで口を噤めば、メルクもどこか困ったような顔で苦笑を浮かべて指を下ろす。
「ごめん」
「い、いえ、こちらこそ……!」
謝罪の言葉に小松は慌てて首を横に振った。
驚愕で……メルクは、滅多なことで作業場のある山から下りて来ない、と聞いていたこともあって予想外の人物だったせいもある……跳ね上がった呼吸と鼓動を何とか落ち着かせて、こっそりと声のトーンを抑え、小松は再度口を開く。
「どうして、その……こちらに?」
「ちょっと山から下りる用事があって、近くまで来たからね。
予約も何もあったもんじゃなかったら無理かなって思ったんだけど、連絡してみたらちょうどキャンセルが出て開いてるっていうから、食べに来たんだ」
用事のついででもわざわざ食べに来てくれた、という事柄に、小松は照れて双眸を崩した。
「それならわざわざ予約なんてしなくても、ボクのほうに連絡してくれたら良かったのに……」
「さすがに、小松シェフに手間を掛けさせるのは忍びなくって」
「そんなことないのに」
メルクは、小松の『魂』とも言える包丁を新たに蘇らせてくれた大恩人でもあるのだ。
その礼が自分の手の届く範囲で出来るのであれば率先してやりたい、というのが小松の言い分でもあった。
ただ、メルクのほうも同じk助けられたのは自分のほうだと思っているので、逆に小松の手を煩わせるのを避けたのだが、微妙に噛み合わないのは仕方ないのかもしれない。
くすり、と小さく笑い声をこぼしてメルクが笑う。
「でも、さすがに星を掲げるだけあってドレスコードがうるさいから……着慣れない服を着てきてみたんだけど、」
変かな? とメルクが囁くような声で小松に問いかけた。
「そんなことないです!」
「そう……? 似合わない、とか」
「全然!」
よくお似合いです、と満面の笑顔で断言されてしまっては、メルクもそれ以上は謙遜の言葉を並べることが出来ない。
ただ、掛け値なしの言葉に別の意味で恥ずかしさがこみ上げてきて、赤くなる頬を止めることが出来なくなってしまう。
「そ、う……」
「はい。でもいつもと違う格好なんで、ボク、後ろ姿からだと誰かわかりませんでしたよー」
口ごもるメルクとは裏腹に、小松はニコニコと笑って彼女の装いを褒めちぎる。
素直な言葉を口にするのは小松の美徳であり、同じく、相手の気恥ずかしさにどこか鈍いところがあるので、厄介な代物でもある。
身の置き場がなくなるような気分で、メルクはそっと視線を逸らした。その逸らした耳の先まで赤く染まっている。
メルクの装いは年相応とは言えないものの、落ち着いた黒いシックなドレスだった。
華やかさや可愛らしさよりも、落ち着きを全面に出している。
座っていてもスラリとしたラインが目に映った。
実際、メルクはこちらのほうが着こなし的にはよく似合っていた。軽く結い上げた黒髪に、今日は化粧をしていることもあって頬を走る傷痕も目立たなくなっているのだ。
「あ、でも」
「……?」
照れてそっぽを向いていたメルクの装いを何気なく見つめていた小松が、ふと、何かに気付いたように言葉を落とす。
何を言いたいのだろうかと彼女が気になってゆっくりと視線を流すと、目の前に赤い花が差し出されていた。
「……装いが黒でまとめられていると、何かインパクトのある色があったほうがいいって、聞いたことがあります」
それは、小松が差し出していた掌ほどの大きさの赤い大輪の花。
「お似合い、ですよ」
小松はホールに飾られていた飾りのなかから、近場にあった花を手折り、それをメルクの髪に挿す。
「…………あ、」
「はい?」
「ありがと……」
それ以上は、言葉にならなかった。
誰かにそんな風に、少なくとも淑女として扱ってもらった経験がまるでないメルクは、照れくささとともにそれ以上の言葉が告げられなくなってしまっている。
「いえ、お気になさらず」
「……うん」
あくまでもここで小松は『料理長』であり、この場は彼のテリトリーでもある。
そのせいもあってか、今の小松は年相応か、それ以上に落ち着きのある態度でふわりと微笑んだ。
それを見つめ、照れはまだ残りながらもメルクもホンノリと笑みを浮かべていた。
髪に挿した赤い花が、ふんわりと柔らかな香りを運んでくるようだった。
はがゆい君たちへの七題
−こんな幸せを許されるだろうか−