小松の朝は割と早い。
 とは、言っても日の出前に起きる(今は夏場なので、日の出は朝の五時前)のではなく、五時半を少し過ぎたくらいだ。
 目覚まし時計は、もしもの場合に備えて朝六時にセットしているものの今のところそれが鳴り響いたことは数少ない。その時間帯に目が覚めることを体が覚えてしまったのが最たる要因のひとつでもあるが、もうひとつ、小松がその時間に目覚めるのには理由があった。
 カーテンが閉められた薄暗い室内。
 朝陽を浴びてほんのりと光が入ってきているものの、それでも目が覚めてしまう程度ではない。

 ……にぃ。

 小松の頭のすぐ横。子猫のような鳴き声が聞こえてきて、小松は薄く目を開けた。
 薄目のその向こうで、パタパタと揺れる漆黒の毛並みの尻尾が見える。

「……ん」

 もぞりと体を動かすと、小松が起きたことを悟った先ほどの鳴き声の主が遠慮がちにゆっくりとぺしぺしと頬を叩いてくる。小さな手だし、痛くはないが何となくくすぐったくて小松は眉を顰めてしまう。
 その間にも、にぃー、という何とも気の抜ける声は鳴きやまず、「おきておきて」と小さいながらもせっついているのが言葉でなくても伝わってくるようだった。

「…大丈夫、もう起きてますよー…ココさん」

 瞼を開けると、広がった視界の先で子どものように小さな人の形をした生き物がいる。
 ただ、子どもとは言ってもその大きさはゲームセンターに置いてあるようなぬいぐるみサイズであったし、黒く長い尻尾と尖った耳を持っているので人間とは言い難いだろう。
 小松が起きたことを見て、その小さないきもの…ココは少しだけ表情を崩す。
 笑うことが少しだけ苦手で、不器用に、それでも自分に笑いかけようとしてくれるこの漆黒の毛並みの持ち主が小松は可愛くて仕方ない。

「毎朝ありがとうございます」

 一応、ココの助けがなくてもそれなりに決まった時間帯に起きれるのだが、それをあえて口に出すほど小松は鬼ではない。
 感謝の言葉とともに側にあるココの頭を撫でると、にぃー…、と控えめに小さな鳴き声を上げて気持ちよさそうにうっとりと目を細めて小松の手に身を任せている。
 それを見ている小松も心に、ほっこりとした暖かなものを感じて思わず一緒になって目を細めてしまう。
 しばらくココの毛並み(一応、頭の髪の毛にあたるのだが)を楽しんだあと、小松は手を離してベットの上で起き上がる。ココは少しだけ名残惜しそうな顔をしていたが、起き上がった小松を見たあとは自主的にベットから飛び降りて、そのまま部屋を横切り、半開きになっていた扉の隙間をくぐり抜けていった。
 小松も眠い目を擦りながら、手早く着替えをすませていく。
 パジャマを脱ぎ、動きやすい半袖と七分のジャージに着替え、寝室から廊下に出て行った。
 廊下を横切って、寝室のすぐ側にある洗面所の扉を開ける。一応、風呂場の入口があるために簡単な引き戸になっていて中が見えないように出来ていた。
 引き戸に手を掛け、中に入っていく。洗面台を除けば一畳分のスペースがあるかないかというものだったが、この手狭さがほぼ一人暮らしの小松にとってはちょうどいいものなのだ。
 …ほぼ、というのには最近、自分の元に三匹の小さないきものがやって来たので完全な一人暮らしではないということになったから。
 ココがその一匹目。
 そして小松が洗面所に立ち蛇口を捻ったところで、廊下から続くリビングのほうから小さな足音とともに、みぃー、という鳴き声が聞こえてくる。
 小松が振り返ると、洗面所の入口の扉。その下のほうでキラキラと輝く極彩色の毛並みを靡かせた小さないきものがこちらを見上げている。

「おはようございます、サニーさん」

 みぃー!
 朝の挨拶にサニーも声も高らかに答えてみせる。
 小松とともに暮らす二匹目はこれまた尖った耳と、先のほうだけがほんのりと白さが目立つ尻尾を持っている。
 三匹のなかで一番フワフワで美しい毛並みを持っているのだが、それを維持するためなのか、元々綺麗なものが好きなのかサニーは一番のきれい好きな性格の持ち主だ。
 ちなみに、鏡に映った自分の姿を見るのが大好きで、鏡の前で放っておけば数時間ほど呆けているときがある。

「……普通、動物って鏡に映った自分の姿っていうのが苦手なはずなんだけどね…」

 脳のなかでそれが鏡だと認識するのが難しいのだそうだ。
 いや、一応それとなく人の形をしているのでサニーは大丈夫なのかもしれないが……付け加えておくなら、先のココと最後の一匹も大丈夫と言えば大丈夫だが、何時間も見るようなことをしたりしない。
 苦笑いを浮かべながら小松が手早く流水で顔を洗う。タオルで顔についた水滴を拭い、歯磨きをしている間もサニーが小松の足下でみーみー、と何事かを訴えるように鳴き声を上げている。

「わかってますよ。でもボクが準備を終わってからっていう約束ですから、もう少し待ってくださいね」

 小松も慣れたものでサニーの訴えを軽く流してしまう。
 このやりとりも、既に日常化している。どんなに訴えても小松の準備が終わるまでは自分の願いを叶えてくれないのはサニーもわかっているのだろうが、これも様式美というものなのかもしれない。
 やがて口の中の歯磨き粉を濯ぎ落とし、洗面台の上を水で簡単に洗い流すと小松はようやく足下にいるサニーを抱き上げた。
 そしてそのまま洗面所にはつきものの、大きな鏡の前にサニーを乗せてやる。
 サニーは鏡に映った自分の姿を目にすると、「ふぉぉぉ…」と言いたげに目を輝かせてそれを見つめ始めた。
 その様子に小松がプッと吹き出してしまう。

「…朝ご飯が出来たら呼びますから、ちゃんと降りてきてくださいね?」

 みぃー。
 鏡を見つめたままではあるものの小松の言葉にサニーは、はっきりとした返事をする。
 まだ一人で洗面台まで上がることは出来ないが、一応、降りることは出来るようになったので小松はサニーを置いていくことが出来るようになった。これも成長の証のひとつなのかもしれない。ただ、一人で上がれるようになればそれはそれで弊害が起きそうなのだが…それは、起こってから対策を講じればいいだけの話だ。
 機嫌良さそうに揺れる尻尾を見つめて小松は踵を返し、そのままリビングへと向かっていった。
 一人暮らし(+三匹追加)にしては広すぎるリビングではあったが、その半分ほどをキッチンが占めている。珍しがられてしまう配置ではあったが、この広さと設備で小松はこの部屋を契約するに至ったので御の字というところだろう。
 壁にかけてあるエプロンを手にとって首からかけていると、テレビのついているリビングから、とたたたたっ、と軽い足取りが近づいてくる。
 その足音の主が誰か、ということは小松はもう慣れたものなので見なくてもわかったのだが、続けて聞こえてきた、わふー、という何とも気の抜ける声に思わず吹き出してしまった。
 この音ばかりはどうにも慣れない。
 イヤというわけではないが、その笑いを引っ込めるのは少し苦労するのでクスクスと小さく笑いながら小松はエプロンの紐を結び終えて口を開いた。

「トリコさん、おはようございます。よく眠れましたか?」

 自分の名前を呼ばれたのが嬉しいのか、トリコは歯を見せて笑う。
 どことなく獰猛な獣を思わせるものだったが、まだ小ささもあって無邪気さと無垢さを併せ持った何とも言い難い表情をしている。
 それにしたってぬいぐるみのような小ささで、どこもかしこも丸っこくて、蒼い毛並みもふさふさしているので威厳というものは無きに等しい。
 小松の足下まで近づいてきたトリコの頭を、蹲りながら撫でてやる。
 気持ちよさそうにその体に対して大きめの尻尾をぱったんぱったんと揺らしトリコが、わふぅー…、と鳴き声を上げて目を細めた。
 一通り撫でてやってから小松は改めて立ち上がってキッチンに向かう。

「さて、と。今日は何にしようかなぁ…」

 小さく呟きながら朝ご飯のメニューに頭を巡らせる。
 冷蔵庫を開け、必要な材料を手に取り、キッチンのステンレス台の上に並べていく。
 材料を切ったり、鍋に水を入れて火をかけたりしている間にも、小松の足下ではトリコが特徴的な鳴き声を上げていた。
 それが強請るような、甘えを持った響きであることは小松も気づいている。

「そんなに言っても、全部は上げられませんからね?」

 口ではそうは言うものの、小松の手には青菜とゴマの醤油和えがあり、それをトリコの口元まで持っていってやっていた。
 それを見たトリコの目がキラキラと輝いた。大きく口を開けて待つ仕草は、餌を待つ小鳥を思わせて小松に再び微笑ましさを誘う。
 口の中に入れてやると、トリコは直ぐさま口を閉じて咀嚼をし味を楽しみ始める。
 ごくん、と飲み込むと『おいしい』と言いたげに感嘆の溜息をついた。

「もう少しだけ待っててください。すぐ出来ますから」

 そう言って小松がまたキッチンへと向かう。今度はトリコも大人しく待っていた。見上げるその視線は期待に満ちていて、時折、くんくんと匂いを嗅いでは尻尾を上下に揺らしている。
 無言の催促ではあるが、小松も慣れたものなので気にする様子はない。
 そのまましばらく朝食作りが進む。
 小松も慣れたものでその作業は流れるようなスムーズさで無駄もなく、手際よく進んでいる。
 キッチンからリビングにまで鼻腔を擽る、何ともお腹の空く匂いが充満したところで小松がエプロンを解いた。

「これでよし、と」

 銀だらのバターソテー。
 ネギを刻んで入れただし巻き卵。
 卵と人参、玉葱の入った鶏ガラスープ。
 そして先の醤油和えを添えて、小松は自分のものとは別に乳幼児用の食器にそれらを入れ、大きめの御盆に一緒に並べてリビングまで運んでいく。
 足下では、トリコがテンション高く鳴き声を上げてグルグルと小松のまわりを回っている。一応、足を引っかけないようにはしているのだが気をつけていないと朝ご飯をばらまくという大惨事に繋がり兼ねないので、小松は少しだけ慎重に足を進めた。
 リビングのガラステーブルの側では、ココが行儀良く座ってテレビを見つめていた。小松が来たのを聞きつけると(おもにトリコの声で)、耳をぴくん、と動かして顔を上げ、小さな声で鳴いた。

「ココさんもお待たせしました」

 小松がそう言うと、ココはふるりと首を横に振る。
 その仕草が何とも可愛くて小松がホッコリと表情を緩めて、テーブルの上を軽く拭いてしまう。ちなみに、その間御盆は横のほうに置かれたままだったのでトリコがつまみ食いをしたそうに目を輝かせていたりしたのだが、それはココの眼光によって止められることになる。
 閑話休題。
 テーブルの上を拭き終え、朝ご飯を並べ終えると小松がリビングの出入り口の少し開いているドアに向かって声をかける。

「サニーさーん、出来ましたよー」

 直ぐさま、みぃー、という声とともに廊下のほうから小さな足音が聞こえてきてドアの隙間からサニーが戻ってくる。
 その間に、小松はテーブルの上に三組の小さめの座布団を乗せた。
 それぞれ、青、黒、白の手製ものだ。

「はい、それじゃあ皆さん、いつものところに座ってもらいますね」

 そう言いながら座布団の上に三匹それぞれを乗せていった。
 トリコ達の大きさでは、床の上に座ったままではテーブルまでとても届かないことによる小松の配慮だ。
 ガラステーブルはそれなりに広いので苦にもならない。少々、行儀が悪いのはこのさい、目を瞑ることにした。
 並べられた朝食に三匹がそれぞれ目を輝かせてくれるのを嬉しそうに眺めながら、小松は手を合わせた。

「では、いただきます」

 わふぅ!
 にぃ。
 みー!

 小松の号令のあとに、三匹がそれぞれ元気よく声を上げて続く。
 三匹とも美味しそうに食べてくれるのだが、その中でもトリコはそれはもう物凄い勢いで食べ進めていく。いったい小さなその体のどこに収納されているのか甚だ疑問の残るところだが、美味しそうに平らげてくれることは小松にとっては喜びでもあった。
 トリコ用にと、ココとサニーとは違い普通の人間サイズ(小松と同じ分量)を盛っているのだが、それにしたって時折おかわりまで要求するほどの大食っぷりなので小松はもう気にしないことにしている。

 そのまましばらく会話もなく、付けっぱなしのテレビから流れてくるニュースを背後に食事は進められていく。

「あ、そうだ」

 そこで、小松が思い出したように口を開いて沈黙を破った。
 その声に三匹がそれぞれに顔を上げて小松のほうを見る。

「今日、ボク仕事お休みなんです。せっかく天気もいいですから、お弁当持ってお出かけしようかと思うんですけど…」

 そう言った小松の言葉に、三匹がそれぞれ耳を動かしたり目を輝かせたりして喜びを体中から発していく。
 トリコたち三匹は、その姿形(動物の耳と尻尾のある、デフォルメサイズの小さないきもの)から滅多に外に出すことが出来ない。人目に触れればどんな騒ぎになるのかわからない、と言った小松の配慮によるものだ。トリコたちのことは、とある切っ掛けでその存在を知られてしまった滝丸とマッチ、鉄平以外ではほんの一握りしか知らせていない。

「人があんまり来ない穴場を教えてもらったんです。だから、皆さん思いっきり遊べますよ」

 それでもいつまでも閉じこめたままでは可哀想なので、休日には小松は彼らを連れて外出するように心がけているのだ。
 にっこりと笑顔を向ける小松に、三匹はそれぞれに嬉しそうな声を上げて了承の意志を伝えてくる。

「じゃあ、ご飯を食べて、お弁当の準備が出来たらさっそく行ってみましょうか!」

 小松の言葉に、また三匹がそれぞれに鳴き声を上げた。
 


 □



 それからしばらくして。
 肩からお弁当の入ったカバンをさげて、小松は靴を履いているところだった。
 横に置いてある蓋付きのバスケットの中では、トリコとココ、そしてサニーが「まだかまだか」と言いたげにそれぞれ好き勝手な声を上げて小松を催促している。

「ふふ、大丈夫ですよ。逃げたりしませんから」

 そう小松はからかうようにして言うが、実際、自身も三匹と出かけるのが嬉しくて仕方ない。
 とんとん、と爪先でタイルを蹴ってバスケットを片手に玄関のドアに手を掛ける。
 そこで、思い出したように振り返って誰もいない自宅のなかに声をかけた。

「いってきます!」

 わふぅ!
 にぃ。
 みー!

 いつもの号令に、いつもの続く声。
 そんないつもどおりが何とも心地よく、小松は緩む頬を止められないままにドアを開けたのだった。