何度も胸のうちで繰り返す。
恋は、したことがない。
今まで生きてきたなかで、一度たりともしたことがない。
だから恋がどんなもので、どんな感じで、どんなふうに自分に影響を与え、どんなふうに影響を及ぼし、どんなふうに処理して、どんなふうに向き合えばいいのか、さっぱり皆目見当もつかないのだ。
そういう経験がないから、話をしたこともない。
誰かのそんな浮ついた話を聞いたこともない。
だから、どうしていいのかわからない。
次第に純度の強い酒の口を開け、互いの空いた杯に組み交わすようになって鉄平は視線を上げる。
その先では小松が熱のこもった頬で、実に上機嫌に満面の笑顔で饒舌に自分に語りかけているのだ。
それがあんまりにも楽しそうで、嬉しそうで、つられるようにして鉄平もへらり、と笑みをこぼす。
酒好きの家系に生まれ、それなりに酒豪とされる大人達と付き合ってきたこともあってか鉄平は自他ともに認めるほどに酒に関しては強いほうなのだが、今日は少々飲み過ぎたという自覚がある。
(実は小松よりも倍近く空けている。小松も上機嫌だが、無意識に自分もそうなのかと思い返して、内心少しだけ呆れた)
ふわふわと、という単語が似合いそうなくらい上機嫌な小松の話は止まらない。
普段の仕事のこと。
人間関係のこと。
失敗談や、新しいレシピの成功。試行錯誤。
色々なことを小松は飽きることなく、鉄平に話して聞かせてくれた。
…口は業の元だと、鉄平もこのときばかりは言わなかった。
小松の話をもっと聞いていたいと思った。声を聞かせてほしい、とそんなことを考えて黙って相づちを打ちながら、杯をまた空ける。
「あ、からっぽになっちゃいましたね〜。おつぎしますよぅ」
ひっく、と酔いのせいか舌っ足らずな口調の小松が、鉄平のほうに新しいお酒を注ごうと瓶を向けた。
それを笑いながら了承して頷いてみせると、また嬉しそうに小松が笑う。
こぽこぽ、と音を立てて流れていく透明な液体が、闇のなかで光っているような錯覚をみせる。
「……ありがとね」
「どぉいたしましてぇ〜」
えへへ〜、と、ふんにゃりと笑う小松を見るのが楽しい。
心の奥から湧き出るそんな感情を、口に出さないまま酒と一緒に鉄平は喉の奥に押し込めた。
心に根付いた『それ』に、目を背けているわけではない。
それでも今こうして、小松と向き合うたびに存在を主張するものをどう伝えればいいのかが、鉄平にはわからない。
どう口にすればいいのか。
…どうやって、形にして、声にして、伝えればいいのかがわからなかった。
そんな自分の内心が、わけがわからず悶えるような感覚がないわけでもないが、逆にこのままでいいような気さえしているのだ。
形にしなくても、小松は嬉しそうに笑っている。
当たり前のように隣に居場所を準備していて、そこに鉄平が座ることを受け入れていた。
だから、このままでいいような気がして。
もっと違うものに、なったほうがいいような、そんな気がして。
「うまく言えないな…」
「〜?」
「ううん、なんでもない?」
呟きに無言の疑問を投げかけてきた小松に鉄平がそう告げると、小松は「そうですかぁ〜」と気にしていないような口調で、残っていたおつまみをひとつ、口に入れた。
緩慢な動きで、もっきゅもきゅ、と咀嚼している。
……少しだけ、心に浮かんでいるものがどうでもいいような気分になった。
どうでもよくはないのだが、小松を見ているとなんとなくそんな気がしてしまうようで、鉄平は片手を伸ばす。
そのまま何も言わずに小松の頭を撫でると、何の脈絡もなく撫でたせいもあってビックリしたように目を丸くして鉄平のほうに振り返ったのだが、一度、二度、と瞬きを繰り返したあと、大人しくされるがままに目を細めてきた。
いいですよ、と了解を受けた気がして、尚更頭を撫でる手を上下させる。
「鉄平さんは〜、ぼくをこどもあつかいしすぎますよぉー…」
「そうかな〜?」
「そうですー」
「……ダメ?」
ダメならすぐやめるけど、と告げると、小松は少しだけ考え込むように首を傾げたあと、口を開いた。
「…しょうがないですねぇ〜」
許容は、胸の奥の何かをひどく騒がせる。
同時にその奥であたたかな、こそばゆいようなものを連れてくるのだ。
今も、そうだ。
どうしていいのかわからない。
こたえが、わからない。
「悩め若人っ!」
「ひとは考えることのできる最良の能力を持っている」
「そのせいでグルグルしちゃうこともあるんですけどね」
「そんな苦労は、やって損はないんですよ」