夏の始まりの季節というのは、夜は意外と涼しいものだ。
確かに陽のある日中はその暑さに辟易することもある。
だが、夜ともなれば風は涼しく肌で感じる温度もそれほどの不快さはない。
「……いい風ですねぇ…」
窓を開け放つとその恩恵を否応なく受けることが出来る。
ベランダに面した広い大きな窓を開け、肌に受ける感覚に小松が心地よさそうに双眸を崩して夜空を見上げた。
天空には闇があって、街の灯りにその光を消されながらもなお、余りある星を見ることが出来る。
そして、月のあかり。
「うん、いい風だ」
空を見上げている小松のすぐ隣に鉄平もいた。
ただ、身体的な大きさのこともありベランダから体を出すことが出来ないこともあって、ガラスに背を預けてグラスを傾けている。
小松の手にもショットグラスがあった。その中には、ほのかに白い液体が注ぎ込まれていて、その縁のあたりに小さめの発泡があるのが見て取れた。両者の間には、魚介を中心にした料理が入った小鉢が幾つも並んでいる。
上機嫌にそのひとつに箸をつけ、口に入れた。
「このおつまみも美味しいし」
「先にどんなお酒か教えてもらってましたから。
日本酒になら魚介系がいいかなって思って……でも、この手のお酒があるのは聞いてましたけど、飲むのは始めてです」
褒められたのが嬉しいのかはにかむように照れて目を細めながら、手にしていたグラスに小松も口をつける。
「そうなんだ」
「意外ですか?」
「料理人なら一度くらいは飲んでるかと」
鉄平が意外そうに目を瞬かせると、小松は少し困ったように眉を下げながら彼のほうへと顔を向けた。
「知識では知ってたんですけど、この手のものはレストランにあんまり入って来なくて……」
「レストランには色んな酒類があるんじゃないの?」
それに、星つきのホテルであればバーラウンジなどもあるはずだ。
様々な客の要望に応えるために各種の、酒類を用意することが容易く想像できる。
だが、そんな鉄平の予測を小松は首を横に振って否定する。
「あそこはボクの管轄外ですよ。それに、あそこに来るお客様は、ブランドものの高いお酒とか、あとはお洒落なカクテルのほうがお好みですし」
「そっかぁ…」
小松の説明に納得がいった様子で鉄平が何度も頷きながら、箸で魚を取る。
初鰹のタタキで、ポン酢と薄切りの玉葱、そして数種類の薬味がのっているそれを口にして、美味しそうに咀嚼していく。それを小松は嬉しそうに一瞥したあと、カラになっている互いのグラスに傍らの瓶から新しいのを注ぐ。
シュワッと細かな泡が立つのを、小松は目を細めて見つめる。
「でも発泡性の日本酒って、ほんとにシャンパーニュみたいな作り方で出来ているんですねぇー」
二人が今、飲み交わしているのは発泡日本酒と呼ばれているものだった。
数十年前から一部の酒造でひっそりと作られていた酒なのだそうだが、近年になって愛好者が増え、飲む人口が増加したことによって様々な酒蔵で作られるようになったらしい。
今夜、鉄平が持ってきたのはその一つであり、醪が沈殿していることもあって砂糖などでは出せない、違った趣のほのかな甘さが口内に心地よく広がっている。
「ガスを直接入れてやる方法もあるんだけどさ。そっちはこれより辛口で、度数も高いんだよ」
「でもこれも度数はかなり低いですよね……」
口当たりとしてはリキュール程度の度数だろう。
その呟きに鉄平は、へらりといつものように笑みをこぼす。
「強いのも持ってきてるから、順番に味見していこう」
そう言いながら鉄平が小松がいるのとは反対側のほうの傍らへと視線を落とす。
鉄平の体で影になっているが、そこには自身がここへと持ち込んだ幾つかの酒がある。
それを小松もわかっているのだろう。楽しみです、と新たな味に胸躍らせているようで、片手にあるグラスを空けてしまう。
こうして、小松の自宅で二人並んで他愛のない話をすることが当たり前のようになっていた。
約束は不規則であり、いつ行われるかは互いに決めていない。
それでも鉄平の訪問を小松は余程のことがない限りは断ったりしなかった。むしろ、歓迎されているとも言って良い。
お人好しで、人当たりは良くても嫌いな人間を側に置くほど、小松も聖人のごとき善良な性格ではないのだ。
普通の、感性で。
その感性に従って、鉄平を自らのテリトリーに受け入れている。
気の良い友人のような、そんな間柄を当たり前のように続けていた。
(……まあ、手土産のひとつでもないと、ここに来れないってのもあるんだけど)
度数が低いとはいえ、それなりに杯を重ねていれば口から滑るように常より饒舌になる。
その顕著な兆候が出ている小松の語り口に、相づちをうちながら胸のうちでそんなことを鉄平は思う。
自嘲の笑みを浮かべたりしなかったのは常の表情が緩やかなせいもあるのかもしれない。
ちらり、と視線を移せば、残った中身を移してしまおうと瓶に手を伸ばそうとしている小松の姿が目に留まる。
その数瞬先を見越して瓶を手に取れば、小松が視線を上げた。
「…二人で飲んでるのに手酌ってのは良くないんでしょ?」
酌をする、と暗に示せば、こぼれ落ちそうなくらい大きな真ん丸い瞳が数度瞬きを繰り返し、それからへにゃぁ、と綻ぶ。
酒のせいもあるのだろうが、その仕草に鉄平もつられるようにして、笑っていた。
「…どうしましょうか?」
「どうしましょう」