その森には、魔法使いが住んでいる。
ずっと人々の間でそう噂されている森があった。
だがその真偽をあえて確かめようとするものはいなかった。
それは、その森が長らく王族直轄の土地であり、別荘を保有している場所として知られていたことが大きな要因の一つに上げられる。
だからその森には人が入ってくることが少なかった。
王族の、あるいはその従者や関係者が土地の整備のために森のなかに入ってくることはあったが、彼らは別荘のまわりにしか手を出そうとせず、そうして、真偽の確かめもできない噂だけが人々の間にひっそりと…そう、それこそ知っているものしか口に出来ないような伝聞のようなものとして知られていくだけ。
けれど、『魔法使い』は確かに、その森に住んでいた。
『Paradise Lost』 <6>
…その森の朝は遅い。
木々によって地平線から昇る陽の光が遮られてしまうせいもあって、光を感じられるのは朝日が昇ってから暫くかかってしまう。
目覚めた鳥たちの声を遠くに聞きながら、土の上に降り積もった落ち葉を踏みしめて歩いていく。
頭からかぶったローブの端から見える景色に目をこらした。
森の中、歩く自分の姿を見つけてもその気配に慣れてしまった動物たちは逃げる様子もない。
普通、『ひと』の姿を見つけたら逃げ出すものなのに、ここの動物たちは暢気なところがある。
そう思い、小松はくふり、と笑った。
いいや、仕方ない。まず何よりも、この森へと足を踏み入れる人間は少ない。
街道から離れ、このあたりまで続く道らしきものもない。それをあえて踏み越えてまで、中に入ろうという人間のほうが珍しいというものだ。
小松はもうずっとこの森で暮らしている。
彼らが自分たちの縄張りに入っても気にせず素通りしてしまうような動物たちの親の、親。そのずっと前から。
そんなとりとめもない物思いに耽っていた小松に気付いたのだろう。
彼の隣を歩いていたテリーが、どうした? と言いたげな視線を投げかけてくる。
その視線に気付いた小松も、首を横に振った。
「なんでもないよ、テリー」
小松はそう言うと歩きながらテリーの首あたりを軽く掻いてやる。
彼の横を歩く狼は……狼という単語を使うとすれば不適当なぐらいの巨躯だった。
それこそ、大人をかるく押し潰すんじゃないかというくらいの大きさだ。その首を掻いてやっている小松など、ひとたまりもないだろう。
しかしながら首を掻いてもらって気持ちよさそうに目を細めているテリーは、大きさ云々の話をのぞけば、ただの飼い犬のようにしか見えない。
ぽんぽん、と軽く目の前の体を叩いて、終わりを告げると二人は…いいや、一人と一匹は再び歩き出す。
一見すると道らしきものが見あたらないが、そこは勝手知ったる何とやらだろう。
別段、苦にした様子もなく普通の道とほとんど同じように進んでいく。
「帰ったら朝ご飯にしようか。木イチゴも美味しいのが手に入ったしね」
小松がそう告げると、テリーは尻尾をパタパタと左右に振ってみせる。
ウォン! と元気よく答える声が、「やったね!」と無邪気に喜んでいるようにも見えて小松も嬉しそうに双眸を崩した。
森の奥の人も入らないような場所に群生している木イチゴはちょうど今が食べ頃の季節で、今回も小松の片手に持つ籠一杯にそれを入れている。
軽く水洗いしてそのまま食べるのも良いし、ジャムにしてパンにつけてもいいだろう。
あるいは何かデザートの材料に、と小松の頭の中でレシピが幾つも出来上がっていく。今にも鼻歌など歌い出しそうな上機嫌な小松の様子に、テリーもさらに尻尾を振っている。
そうして、いつものように穏やかに、あくまでも平穏に、一日は始まるはずだった。
そう、
「……………テリー?」
森の中にある、小松の住む小さな家の側までやって来たテリーがその場で立ち止まってしまうまでは。
木々の合間を抜けてその家が視界に入り、あと十歩で玄関先まで辿りつこうかと言うところでテリーがその場で急に足を止めた。
小松もそのことに気がついて不思議そうに目を瞬かせて隣を見ると、テリーは先ほどまでの気の良い様子とは一変して、体勢を低くし、歯を覗かせて唸り声を上げている。
それは、威嚇だ。
全身の毛を今にも逆出させそうな雰囲気に小松も気がついて身構える。
テリーの視線は、自宅のそれに一心に注がれていた。
それが意味するところは一つしかないだろう。
魔力の流れが空気のそれをも震えさせる。
しかし、それはまたしても破られることになる。
テリーの威嚇と、小松の魔法の流れ。
それを『あえて』無視して、玄関の扉が開けられた。
木で作られたそれはキィ、と軋むような音をたてて開けられ、そこからのっそりと大柄の男が顔を出す。
「ひひ……よぉ、小松ぅ」
特徴的な間延びした言い回し。
だがその体躯はおよそ人のものとは思えないほど大柄であり、なおかつ、その腕の数は四本という異形だった。
瞳などにもその人とは思えないような兆候は見受けられるのに、小松はその男が誰かを悟った瞬間に魔法を解いてしまう。
「なんだ、来ていらしたんですか」
「お〜、まぁなぁ」
「来るならあらかじめ連絡くらいしてくださいよ。知らない人が来たのかと思って吃驚しちゃいます」
受け答えをするその声も平素のものになる。
まだ警戒を完全に解こうとしないテリーの体を落ちつかせる意味合いも込めて何度か軽く叩き、小松はその場からまた歩き始める。
「吃驚して『あれ』か……お前は相変わらず強いな〜…」
「からかわないでください。皆さんに比べたらボクなんてひよっこも同然なんですから。
……あ。ちょうど今、木イチゴを採ってきたんです。よかったら…」
「お〜、うまそうだぁ」
ドアをくぐり、男の横を通るついでに持っていた籠と、その中に入っていた木イチゴを見せながら小松はさらに室内を見渡す。
簡素な作りの室内。
元々、小松が一人で(テリーやキッス、それに他にも動物たちはいるがそれは除外して)暮らしているこの家に、家具は必要最低限しか置かれていない。
ただ、その一人暮らしにしては不釣り合いなくらいに大きなテーブルが居間には置かれている。
それは、こうして時折この家にやってくる『知り合い』のためのものでもある。
果たして、やはりそのテーブルのまわりに陣取っていた知り合いの姿を見て、小松は軽く頭を下げた。
「お二人とも、お久しぶりです」
「あ。小松、おかえり〜」
「…………邪魔している」
明るく返ってくる声と、静かな声。
やはりというか人間離れしたその姿に小松はもう慣れたもので驚きもしない。
……人間離れというのなら、言葉は正しいのかもしれない。
そこにいる彼らは、人間ではないのだから。
この森にやってくる『人間』はほとんどいない。
だが、そこには確かに魔法使いが住んでいる。
「……と、いうか、いつも思うんですけど、『悪の魔法使い』の中でもかなり有名な皆さんがこうして揃ってやってくるのって、どうかと思うんですけど…」
そしてそこにやって来る『知り合い』は、魔法使いが妥当というものだろう。
小松の呟きにそこにいた三人はそれぞれ、彼らに見合った反応は返す。
玄関口に立ち、今、ドアをしめて小松の後ろを歩く大男は特徴的な笑い声を漏らし、
勝手知ったる他人の家よろしく、どこから出してきたのか紅茶のカップに口をつけている派手な出で立ちの男はカラカラと楽しそうに笑い、
椅子に静かに座っている漆黒の仮面をつけた男は何も言わず、静かな視線を小松に返していた。
そう、彼らもまた魔法使いである。
『悪の魔法使い』と呼ばれる、人々に害悪を与える存在の魔法使いだ。
<つづく>