森の木々の合間、そこから見ることの出来る夜空には雲が架かっていた。
 星の瞬きも、月の光もそこにはなく、ただ深淵の闇だけがある。
 雲があるとわかるのは、光がないためと、そして空気がどことなく思いせいだ。
 冬の冴え渡るような、ピン、と一本の糸を張り詰めたような、そんな空気ではなく、何かに覆われているような、そんな感覚。

 ぱちん、と、薪の爆ぜる音が、冷たい空気を引き裂いた。

「……今夜は格別寒いですね」

 そんな空に視線を投げていたトリコの前方。
 たき火を挟んで真向かいにいる小松が、そんなことをぽつりと呟く。
 声に誘われるようにしてトリコが空から視線を落とすと、小松は背中をテリーに預けて自身の肩から、抱えた足まで毛布を被っている。
 その目の中で、たき火の炎がゆらゆらと燃えているのを見ることが出来た。

 何も言わないトリコの代わりを務めてか、テリーが小さく鳴き声を上げて鼻先を小松のほうに近寄らせていく。
 柔らかな毛並みに気がついた小松が、少しだけ笑いながらその鼻先を掻いてやると気持ちよさそうに目を細めているのがわかった。

 ……そんな、小松と自身の相棒の他愛のないやりとりをトリコは黙って見つめている。

 脳裏に浮かび上がるのは、小松の手が自分のそれを振り払ったあとのことだ。
 結局、小松はなぜそうしたのかを口にしなかった。
 いいや、口にはした。言い訳であるから、それはトリコにとって意味の成さないものであったというだけで。

 すみません、ちょっとびっくりしちゃって。

 …安っぽい三文芝居にもならないような台詞を、トリコが信じるわけなどない。
 触れた指先。
 何の構えもない時に、不意に触れた熱に何を感じたというのか。
 そのあとは小松は務めて明るく振る舞おうとしていたのだが、それが空回りするような類のものであることは、トリコにだってわかる。
 近くで見ているから、わからないはずがない。
 自分の感情を隠してしまおうと、小松はしているのだろう。

 何をしてほしいわけでもない。
 答えてほしいと、思わない。
 
 小松のその言葉を、トリコはそのまま受け入れた。
 いや、無理矢理、自分のなかに置き換えた、と言ったほうが正しいのかもしれない。
 答えの出ない問いに蓋をして、目を背けて。そうして、小松からの言葉を、放っておいたのだから。
 だが、そうではなかったのだ。
 答えが、ほしいわけではない。

 それはきっと、違う。

 恋愛とは相手を想うだけで満足なのかもしれない。
 けれど、相手を想うからこそ、自分のほうも想ってほしいと思うのが、普通なのではないのだろうか?
 
 あるいは、答えなど必要なくとも、その好きな相手がいるだけで心が掻き乱されることがあるのではないか。

「……トリコさん?」

 不意に小松の声が聞こえて、トリコは自問の意識から返ってくる。
 我を取り戻す意味合いも込めて、一度、目を瞬かせると視線を小松のほうへと改めて落とす。
 小松は不思議そうな顔をして首を傾げていた。

「どうかしたんですか、何か考えてるみたいでしたけど」
「…別に」
「別に…って、」

 自身の問いをたった三文字で切り替えされた小松は、少しだけ不満そうに唇を尖らせて顔を背ける。
 どうせボクは力になれませんよ、と小さく、駄々っ子のように呟く声は、本心からの行動なのだろうか?

 そんな人間のやりとりにテリーはつまらなそうに大きく欠伸をする。
 長い犬歯が開かれるのとほぼ同時に、ちらほらと、白い結晶がその開いた口のなかへと入り込んできた。

「あ…」
「……雪か」
「ほんとだ。寒いはずですね」

 声を上げて空を仰ぎ見れば、漆黒の空からちらほらと白い雪が降ってきていた。
 宵闇の世界で、たき火の光に照らされて、そこだけ雪が降る様を見ることが出来る。

「トリコさん、」
「ん?」
「あの…寒くないですか?」

 名前を呼ばれたので短く何の用かと言外に問いかければ、躊躇しながらも小松がそうトリコに問う。
 視線を流すことによってその疑問の説明を求めると小松は困ったように眉根を寄せてから口を開く。

「だって、テリーはボクのところにいますし」
「このくらいならどうってことないだろ。あの極寒のほうがまだ寒いしな」
「あれは人類が入っていいギリギリの範囲内です!」

 そんな特殊状況と一緒にしないでください! と小松からのツッコミが入る。
 その声はいつものやかましいくらいのもので、聞き覚えのある通りのものだった。

 ただ、その声が少しばかり震えているのに、小松は気付いているのか、とトリコはそんなことを思う。

「小松」
「はい?」

 名を呼べば普通に受け答えが返ってくる。
 小松の疑問符に言葉では答えようとせず、トリコは片手で軽く手招くような仕草を見せる。
 近くに寄ってこい、というという意思表示なのはわかるのだが、それを見た小松が少しだけ躊躇するように視線を彷徨わせる。
 困ったように眉根が下がり、だがすぐにトリコに見られていることを思い出したのだろう。表情を戻して、顔を上げた。

 一歩が、踏み出される。

 さくり、と草を踏み分ける足音が、闇の中。雪がちらほらと舞う静寂のその中で、響いているのがイヤでも鼓膜を揺さぶる。
 被っていた毛布を肩から背中へとかけ直すと、小松が少しずつトリコのほうへと近づいていく。

「トリコさん」

 さくり、さくり。
 足音は、距離が縮まるたびに少しずつではあるがゆっくりとしたものになっている。
 気付かれないようにという配慮なのだろうが、それに気付けないトリコではない。
 それでもトリコは何も言わずに小松を待った。

「どうかしたんですか…?」

 少しずつ。
 少しずつ、

 そしてたき火を越えて、その距離が縮まった時。

「トリ、」

 トリコの手が、小松の手を掴んでいた。






その、距 −「時とともに忘れる。時がたてば薄れる。時を重ねれば、おのずと向かいあうことだって、あるんですよ」−