この部屋で目覚めると、いつも甘い匂いがしている。

 ぱちりと目を開けると、息を吸うのと同時に肺の奥まで埋め尽くすような甘い菓子の香りが漂ってきた。
 チョコレートに、キャンディ。
 ガムと、グミ。様々な種類のクッキー。
 飲んだこともないようなジュースの香り。
 他にも、色々と。
 本当に様々な菓子の匂いがするのに、そのどれもが混ざり合うこともなく、個々の甘い匂いを醸し出しているのだ。
 これほどの種類があれば、匂い自体が混ざってしまいそうなものなのに、少し鼻を動かすだけで匂いが変わる。
 小松は隣で豪快な鼾をかいているトリコを起こさないように注意しながら、ゆっくりとベットの上で起きあがった。
 んー、と背伸びをしながら空気を吸い込むと、それだけで甘い匂いに浸ってしまいそうな気分になる。けれどそれは、けして嫌なものではない。
 スイーツハウスというのは、匂いだけでも絶品だった。
 その事実をいつもこうして思い知ることになるので、小松は小さく双眸を崩す。
 ただ、匂いだけでは当たり前のことだが、お腹いっぱいにはならない。
 空腹を覚えて…ついでに、目覚めたら開口一番に、「腹減った。小松、何かないのか?」と言い出す食いしん坊のためにも朝食を作ってしまおうと、そうっ、とベットから抜け出した。
 振り返ってもトリコは相変わらずの鼾だ。
 それが信頼されている証(つまり、自分は彼にとって『素でいられる』という、事実)なのだろう。

「ちょっと待っててくださいね」

 きっと夢の中の住人であるトリコには聞こえていないはず。
 それでも小さくそう囁き、小松は寝室のドアを開けて一階にあるキッチンへと降りていったのだった。

 ◇

 キッチンへと向かうと、部屋続きになっているリビングで丸くなっていたテリーが小松の足音を聞きつけて伏せていた顔を少しだけ持ち上げてきた。小松の姿をみとめると、小さく鳴き声を上げる。
 大方、おはよう、と言ってくれているのだろう。
 そう感じられて、小松も朝の挨拶を返した。

「トリコさんはまだ寝てるよ。朝ご飯が出来る頃には降りてくると思うけど」

 小松がそう告げると、テリーが白い尻尾をパタパタと左右に揺らす。
 それを後目に小松は笑いながらキッチンへと向かっていった。
 キッチンの側にある壁に掛けてある彼専用のエプロンに腕を通し始めた小松の後ろ姿をテリーはしばらく見つめていたが、やがてまた頭を伏せて目を閉じてしまう。
 ただ、それは二度寝を決め込んだわけではない。その証拠に、小松が朝食を作り始めたのと同時にその左右の耳がピクピクと動いているのだ。
 音を聞いているのだろう。それから、匂いも。
 野菜を切るリズミカルな包丁の音。
 くつくつと煮えるスープ。
 パンを焼く香ばしい香り。
 そんな、様々なものを目を閉じたままテリーは耳を澄ませて聞いて、嗅いでいるのだ。
 調理の間は小松はテリーに構わない。
 だがその音や匂いだけでもテリーは満足しているようで、心地よさそうに体の緊張を解いたまま、ゆっくりと尻尾を振っている。

 やがて、一定の間隔で動き回っていた気配が止まったことに気付いたテリーが閉じていた瞼を持ち上げた。
 それと同時に、一段落ついたのだろう。エプロンの端で濡れた手を拭いながら、小松がリビングにいるテリーの元へと戻ってくる。
 人の数十倍は軽く食べるトリコの朝食を作るのは重労働に近い。
 いくら料理人と言えど、少しばかり疲れた様子で大きな溜息をつきながら小松がテリーのすぐ横に腰を下ろした。
 クゥ? とテリーが声をかけると、それに気がついた小松が苦笑を浮かべながら振り返る。

「うん、ちょっと休憩しに来たんだ。あとはスープが煮えたら、全部盛っちゃうだけなんだけどね。
 …慣れたけど、やっぱりちょっと疲れたなぁ…」

 眉根を下げる小松にテリーは鼻面を近づけていく。
 そのままふっくらとした頬にすり寄り、労るように舌で舐める。

「ふふ、くすぐったいよ、テリー」

 クスクスと笑いながら小松はすぐ側にあるテリーの顔に手を伸ばす。
 ゆっくりとその極上のタオルケットのような毛並みを撫でていく。
 じゃれ合うようにしていたが、その感触が疲れた体に心地よいのか小松の体がテリーのほうへと傾いていく。
 それをテリーは嫌がるような素振りはしないものの、仕方がないと言いたげな雰囲気で小松が自分に寄りかかるのを許した。
 ぽすん、と軽い感触で小松がテリーの体に寄りかかった。
 それから、大きな欠伸をひとつ噛み殺す。

「…ごめんね、テリー……」

 そう呟いてはいるものの、睡魔のほうが勝っているのかもしれない。
 うとうとと瞼を上下させる小松の姿を肌で感じながらテリーもゆっくりと床の上に寝そべるような体勢に入ったのだった。

 しばらくして。

「…………なにしてんだ、お前ら」

 空腹を感じたのだろう。
 ようやく起き出してきたトリコが目にしたのは、リビングの床の上で折り重なるようにして丸くなって眠っているテリーと小松の姿だった。
 さすがにトリコの気配と声を感じたテリーは、先の一言と同時に閉じていた瞼を開けるが、小松は起きる気配さえもない。
 テリーは横になった体勢のままトリコを見上げる。
 尻尾を上下に振っているが、鳴いたりすることはなかった。

「なんだ。お前が番をしてるっていうのか?」

 そう言いながらトリコが犬歯を覗かせて笑う。
 鼻を鳴らしながら匂いを辿ると、盛大な腹の虫が鳴り響いた。
 その音に小松が少しだけ呻く。
 テリーが抗議のためか、ぱったんぱったん、と尻尾で大きく床を叩いた。

「悪ぃ悪ぃ。相変わらずうまそうな匂いさせてると思って我慢できなかったんだよ」

 口ではそう言いながらも悪びれる様子もないトリコに、テリーは実に人間くさい動きで溜息をついた。
 そんなテリーを見ながらトリコもそのすぐ側で腰を下ろす。

「さて。こいつはいつになったら起きてくるか」

 大きなその手が伸ばされ、瞼を閉じたままの小松の頬に触れる。

「お前が起きねぇと、オレたちはずっと「まて」されたままなんだよなぁ」

 先に食べてしまうという選択肢はないらしく、そう言いながらトリコがゆっくりと手を動かした。
 テリーもトリコを止めることもなく、顔を上げて自分の体にもたれ掛かっている小松のほうを見つめ、目覚めを待つ。

 テリーが尻尾を降り、床に落ちる音だけが部屋の中に響くのだった。





おはようを貴方と。