唄(うた)を忘れた 金糸雀(かなりや)は
後(うしろ)の山に 棄てましょか
いえ いえ それはなりませぬ


 月夜の晩だった。
 天空に輝くのは、金糸雀のような黄色の月がひとつ。
 温度や季節に、または天候によって様々に形や色合いを変える月は、今宵は目の覚めるような月光を地上に降り注いでいる。
 月の光はそのまま夜の闇を照らし、昼間のようとはいかないものの、闇を仄かに照らす光となっていた。
 その月をココは見上げている。
 今宵は良い月だ。
 これが一人の晩なら月を相手に物思いに耽ることもあるのだろうが、残念ながら今夜は美しい月の相手をしている暇など彼にはない。
 ココが自身の隣へと視線を滑らせる。
 自分のすぐ側、腕に寄りかかるようにして仄かな暖かさがあって、その存在がココを月の幻想ではなく、現実の世界へと連れ戻しているのだ。
 それはけして嫌なものではなくむしろ心地よいものに感じて、ココはうっとりと唇を緩めた。彼が…小松が見たらきっと慌てて離れてしまうような甘やかな表情は、しかしその向けられている張本人が眠ってしまっているために、普段のように隠される必要もない。
 そっと寄りかかられていないほうの手を伸ばし、小松の頬に触れる。その指先はゆっくりとしたものであったが、迷いもなく指先が触れ、滑っていく。

「よく眠っているね…」

 まあ昼間あれだけ騒げば仕方ないか、とココは小さく声を出して笑う。
 昼間のハントの様子を思い出し、その時の小松のはしゃぎようや、反応の煩さ、新しい発見に『にゃー!』とか『うわぁ!』とか、そりゃあもう常にテンションが高かったことを思い出す。疲れるのも仕方ないというもの。
 そのために野営をし、食事を取ったことで疲れが出たのか隣のココに寄りかかって眠ってしまっている。
 薄く上下する肩が、深い眠りを現しているかのようだった。
 滑らせた指が頬から顎へと伝い、そのまま反対側へと今度はのぼっていく。閉じられた瞼を緩やかに撫でても、少しむずがるだけで覚醒する気配はない。
 安心しきって体を預けている姿に、ココは笑みを深くした。

「ねぇ、小松くん?」


 笑みを刻んだ口元が、キュゥッと持ち上がる。引き結ばれたそれは、やがて三日月のようになり、瞳に仄暗い光が宿る。

「よくそんなに無防備にしていられるねぇ」

 嗤うように、
 笑うように、ココは言葉を落とす。
 触れた指先が瞼から離れた。

「わかっているのかい」

 ここは、

「ここは、化物の懐だよ?」

 笑うココの瞳が無機質に細められた。
 寄りかかっていた小松の体をココの手が掬うように動かし、眠る顔を覗き込む。
 それなのに小松はまだ目覚めない。
 唇から聞こえてくるのは、小さな寝息だけだ。
 ああ、駄目だなぁ、とココは思いながら笑みを徐々に、徐々に、凶暴に歪めていく。
 それは小松にはけして見せることのない種類のものだ。狂気に歪んだ、顔だ。

「君は思い違いをしているよ?
 ボクがキミを害さない、と本気でそう思っているの?」

 問いかける声はあくまでも優しい。
 だが、その声の本質は、聞くだけで相手の背に寒気と怖気を巻き起こすような種類のものだ。

「たとえばボクの毒? それともボクの力? ボクの指先? ボクの手が?」

 狂気の声が空気を震わせる。
 静かに、まるで侵食する毒のように巻き散らかされていく。

「…たとえば、ボクの唇が?」

 眠る小松の顔を見据え、ココがうっそりと笑んだ。その顔が少しずつ小松に近づき、もう数センチ動けば唇が触れあうような位置で、止まった。
 これだけ近づいても小松は目覚めない。
 安心しきっているのか、
 それとも鈍感なだけなのか。

「後者ならボクたちのハントについてくることにもう少し心構えを、と苦言を呈するところだけど」

 そう、『友人のひとり』として、彼に危険なハントについてくることに対してもう少し緊張感を持てと言えるはずだ。
 友人の顔で、忠告が出来る。
 けれど、前者なら?

「…そうだね、前者なら…」

 触れた指先がゆっくりと持ち上がる。眠ったために弛緩しきっている小松の体は片手一本だけで器用に支え、ココはその手を小松の唇へと近づけ、形をなぞった。

「……どうしてしまおうか?
 キミは銃を持っていた、と聞くけどここにはない。そもそもボクにはそんなものは利かないしね」

 銃弾なんていう生易しいただの金属が化物の体を打ち破ることなど出来はしない。
 銀の弾丸ならばあるいは、と言いたいところだが、残念ながらそれが有効なのは闇の眷属だけだ。

「ああ、それにその銀だってボクの毒で腐食させてしまえば効力を失う」

 ならば祝詞?
 言葉なんてその口を塞いでしまえばもうおしまい。
 結界も、御守も、ここにはない。

「危険を知らせる金糸雀も、ここにはいないよ」

 昔から金糸雀は毒ガス検知のために炭坑などに連れられたという。金糸雀は常にさえずっているのが特徴だが、異常を感知するとまず、そのさえずりが止んでしまう。そうして危険を知らせているのだが、その鳥もここにはいない。

「さて、困ったねぇ、小松くん?」

 ああ、本当に困ったと、ココは言うが、口調や声質は笑う気配が見え隠れし、目元は幼気な子供の駄々を見守るようなもの。
 クスクスと笑いながら小松の唇を何度も撫でる。
 目覚めてほしいと心の隅で思いながら。
 このまま目覚めないでいてほしいと、願いながら。
 相反する思いにココ自身もどうしていいのかわからなかった。ただそれに困惑する素振りもなく、笑う顔を止めることもない。

「早く、目覚めて」

 静かに、告げる。

「さぁ、早く起きないと」

 キミはボクに、捕まってしまうよ。この腕に、爪に、牙に、囚われてしまうよ?
 
 告げた唇がゆっくりと小松のものと合わせられる。
 最初は唇が触れあうだけの、子供の児戯や、親子の愛情のために交わされるもの。熱を伝えるためだけのものだ。
 やがて触れあった唇が離され、ココの赤い舌が小松の唇をなぞる。体格の差もあって小さなその唇は左右になぞるとすぐに端が終わってしまい、物足りなさを感じてしまう。
 不意に離した舌が、今度は小松の小さく開いた唇の中に押し込まれていった。そのまま深く唇が合わさっていく。
 口内をなぞり、歯列を擦り、舌を絡める。
 息苦しいのか、それとも感触が気になるのか小松が小さく呻く声がココには聞こえたが、そこで止めることはなかった。
 本能的に奥へ引き込もうとする小さな舌を吸い上げて、自身の唾液と絡ませながらその味を堪能した。
 やがて小松の口内を蠢いていた舌が止み、口づけが離される。
 銀糸が垂れ、ぷつりと宙で千切れてしまうのを見ながら、ココはもったいないなぁ、と思った。

「……ああ、やっぱりキミは美味しい」

 ゾクゾクと背筋を走る感触にココは妖しく笑った。
 その美貌は冴え冴えとした月の光に照らされ、白日の下に晒されているが、それを見る者はいない。
 誰も知らない。
 そう、誰も知らない、貌。

「どうしようか?」

 凶悪な美貌を讃えた微笑みをのぼらせて、ココはこつん、と目の前の額と自分の額を合わせる。
 これだけのことをしたのに、小松はまだ目覚めない。

「どうしようか……ボクも、ここまで無防備にされると、抑えが効かなくなるんだけどね」

 細く溜息をつく、その息が熱い。
 一応、抑えてはいる。
 これでも、尚、最後の一線だけは踏み越えないようにしているのだ。
 それは最後の糸。
 ひとと、化物を別けた境界線。

「……ねぇ、小松くん?」

 武器も利かない。
 結界も利かない。
 言葉の守も。
 金糸雀の声も届かない。
 ひとのかわをかぶった、ばけもの。
 誰も気付かないけど。誰にも気付かれないようにしているけれど。
 キミがいるのは、化物の懐。
 こんなところに飛び込んでくるだなんて、無防備が過ぎる。
 自分からわざわざ境界線を越えてやってくるだなんて。

「知ってるかな?」

 ボクは化物だから。

「ひとの境界なんて、本当は知ったことじゃないんだよ」

 だからキミが逃げないといけない。そうしないと、追いつかれてしまう。

「…小松くん……」

 静かな声でココは何度も名前を呼ぶ。
 狂気は少しずつ薄らいでいき、理性と平静がココの意識に戻っていく。
 ただ、静かな声だけが、闇夜を揺らしている。

 空には月。
 金糸雀色をした、月がひとつ。
 その光は確かに明るいはずなのに、月は何も語らず、冴え冴えとした光で照らすだけ。

 金糸雀は、異常を察知したとき、真っ先にさえずるのをやめるというのならば。
 ……何も語らぬその金糸雀色の月は、すでにその異常を声高に叫んでいるのかもしれないのだけど。
 その声は届かない。
 そのさえずりは聞こえない。

 月だけが、すべてを見下ろしていた。






金糸雀