トリコをココとサニーが待つ岸辺まで届けると、そこで彼は小さな身体を地面に降ろしてやった。
その途端、弾けたように二人の兄弟がトリコの元へと走り寄る。
「この馬鹿!」
「考え無し! 不注意すぎ!!」
「ひでっ!!」
しかし走り寄ってきた彼らの口からトリコに向けられたのは、罵声に近いものだった。
言われたほうのトリコが思わず非難を込めて叫んでしまったが、それでもココとサニーによる悪口は止まらない。
ただ、側で聞いている青年はその言葉の裏に確かな絆があるのを感じ取って表情を緩める。
罵声は心配したという証。
バカバカ言われているのも、まあ仕方ないだろう。
先ほどから話を掻い摘んで聞いていると(主に可愛い罵声だが)、どうやらトリコは不注意によって湖に落ちてしまったようだし。
それを黙って聞いていた青年が、組んでいた腕を解く。
「さて、」
そう呟いたところで、小さな子供達は自分たちの側に立つ青年からおどろおどろしい威圧感が放たれたことに気がついた。
思わずビクリ! と体を竦め、喚き散らしていた口も言葉を落とす寸前で止まってしまう。
トリコが背後を恐る恐る振り返り、残りの二人も怖々と顔を上げ、青年のほうを見やる。
そこにあったのは、笑顔だった。
だが、にっこりと笑ってはいるが底冷えのするような気配を連れてきている。
今までこんな怖いものは見たことがない。
笑っているのにビクビクと震えてしまい、三人の小さな子供達は体を寄せ合ってその恐怖に耐える。
青年は、笑顔のまま一歩を踏み出した。
その一歩が、どすん、と大地を揺らしたような気がして、子供達はザァッと青ざめる。
すぅ、と青年が息を吸い込む。
「このっっっっお馬鹿さんたちがーーーーーーー!!!!!!」
大音量で発せられた言葉が、ビリビリと大気を揺らし、森に響き渡る。
それを目の前で聞いてしまった子供達は、目に涙を浮かべて凍りついてしまっていたのだった。
『Paradise Lost』 <3>
その後。
手に手を取って抱き合い、震える子供達に青年は訥々と説教を始めた。
曰く、
子供達で森の中に入るのは危険だということ。
ここのあたりに危険な動物たちは少ない。だが、絶対的に安全とも言えないということ。
そもそもまわりの景色に目を奪われて足下が疎かになるとはどういうことなのか。
などなど。
とにかく訥々と、懇々と、子供達に向けて言い含めていく。
それを子供達は最初は怒鳴られたショックで怖々と、だが少しずつ自分たちの軽率な行動に反省していってしゅん、として大人しく聞いている。
だが、その言葉が自分たちのことを本当に思ってのことだということに気がついていく。
「……怪我をしてからでは遅いですからね」
自分たちを心配してくれている。
心から。
その心根がじんわりと、静かに染み渡っていくのを幼いながらも確かに感じ取っていた。
怒られるのは哀しい。
怖いという思いもある。けれど、その言葉は確かな優しさで溢れているのだ。
自分たちと始めて出会ったはずの青年から向けられるその心は、トリコ達を混乱させるに十分な要素だった。
なぜ、始めて会う自分たちをこんなにも心配してくれるのだろう。
どうして、
どうして?
「でも、怪我がなくて本当に良かったです」
空白の疑問の声を投げかけるトリコたちに最後にそう言って笑いかけ、青年はトリコの頭へと手を伸ばす。
撫でられるその手が暖かい。
向けられる視線も柔らかなもので彩られている。
「……ん」
こくりと頷き、青年の言葉を受け入れる。
わかってもらえたということを知った彼は、ホッとしたように息をついた。
「良かった。これからは、もう子供達だけで来ちゃ駄目ですよ?」
「…あ、あのさ!」
そこで今まで大人しく話を聞いていたトリコが突然、声を上げる。
「なんでしょう?」
聞かれた青年が不思議そうに目を瞬かせる。
「お、お前は『まほーつかい』なのか!!?」
そして問われた内容に一瞬だけ表情を強ばらせた。
それに気付いたのは子供達の中ではココだけだが、彼はすぐに表情を元に戻す。
「はい、そうです。」
一つ、小さく溜息をつき、こくりと小さく頷いた。
魔法使いだということを認めた青年にトリコのみならず、サニー達も歓声を上げる。
それを聞いた青年は困ったように眉を寄せた。
「すっげぇ、ほんとにいたんだな!」
「お、オレ始めてみたっ!」
「ばか、まほーつかいなんだからあたりまえだろ!」
「ばかにばかっていわれたくねーよ!」
「すっげーまほーつかいっていろいろできんだなっ!」
サニーとトリコは大興奮で互いにスゴイスゴイと言い合っている。なんだか言い合っているのに会話が噛み合っていないのは、興奮しているせいだからだろうか。
それを青年は何も言わずに見つめていた。ただ、青年の顔をジッと見つめていたココだけが冷静だった。
言い合いを続けている兄弟達を後目に、あの、と小さく声を掛ける。
その声に青年は気付いて視線を戻した。その視線が先を促していることが伝わって、ココが言葉を続ける。
「……もしかして、魔法使いだって知られるの、余りよくないの?」
聞かれた内容に青年が驚いて目を丸くする。
同じく側で騒いでいたトリコとサニーも、え! と声を上げて彼のほうを見やる。
子供たちの視線を受けた彼は一度目を閉じ、深く溜息をつく。
「…はい。」
「なんでだよ! まほーつかいってすごいじゃん!」
「魔法使いだからってすごいわけじゃない」
「ココ、なんでそんなことゆーんだよ!」
「『すごい』が、良いわけでもない」
サニーの非難にココは静かに視線を向ける。
その瞳は静かで、何処か冷めているようだった。子供がこんな瞳をするのが信じられないくらいに、静かに凪いでいる。
「それは、ボクたちが一番良く知っているはずだよ?」
ココの言葉に、子供達は思わず押し黙ってしまう。
それは日頃から不思議な力で周囲の人々が遠ざかってしまっていることを身をもって知っているからこその沈黙だった。
子供達の重苦しい沈黙に、青年は口を噤んでしまう。
沈黙やココの言葉の端から察するに、子供達が余り良くない状況にいることを感じたのだろう。
「すみません。魔法使いは、人と関わらないのが普通ですから」
「…関わっちゃいけないのか?」
それはまわりが怖がるからなのか、と言う質問が聞こえてきそうな言葉だった。
彼はそれに気づき、だが小さく首を横に振る。
「いいえ」
「でも、」
「違います。いけないんじゃなくて、そのほうがいいんです。魔法使いは、魔法を使いますから」
「それって、何がまずいんだ」
「…魔法を使うことがバレたら、他の人間がそれを使おうとするから?」
ココの推測に青年は小さく目を丸くする。
魔法使いが人と積極的に関わらない要因のひとつがそれである。
他にもあるが大きな一因がそれで、もし魔法使いであることが知られたらそれを利用しようとするものが現れてしまう。
奇跡にはほど遠く、けれど奇跡にとても近い力である『魔法』は多くの人の心を歪めてしまうのだ。
御伽話でも、魔法を求めるが故に身を滅ぼす人間があとをたたないのがその証拠のようなものだろう。
言いたいことに気がついてくれたことに彼は驚き、他の子供達も納得したように重く頷く。
彼はしばらく呆然としていたが、やがて彼らを慰めるように表情を柔らかくした。
「…ありがとうございます」
それは、本当に言いたいことを隠せることが出来たという感謝の言葉でもある。
彼はそれを言わずに代弁してくれたココへと手を伸ばそうとした。
ぱしん、
と、その伸ばされた手が振り払われた。
軽い音とともに伸ばした手に走った小さな痛みに目を見開く。
トリコとサニーが、あ! と声を上げたのが、遠い出来事のように聞こえた。
振り払った張本人であるココは自分の咄嗟の行動に動揺しているのだろう。
僅かに表情を曇らせ、叩き落とした手が細かく震えている。怖々と動く指先が、必死に言葉を探しているのを現していた。
「……ごめんなさい。でも、ボクに触らないで…」
あぶないから、と呟いた声は震えて泣いているように聞こえた。
叩かれたのは青年のほうだというのに、ココのほうが余程痛そうに見える。
「…どうしてです?」
問いかける彼の声は、やはり優しい。
屈み込んでココと視線を合わせると、その視線に困ったように体が強ばる。
どうしようかと右往左往する視線が深い動揺を示していた。
ココの後ろにいたトリコとサニーが、気遣うようにその肩や手に触れる。
その仕草が、彼らを労っていることが伝わってくるようだった。
「……ボクは、毒があるから」
そして深い動揺と、沈黙、困惑の果てに紡がれた言葉は、小さく空気を奮わせる。
「毒……?」
「…あのさ。ココは、毒が体から出てんだ」
青年の疑問の呟きに、トリコがココの言葉を補うように呟く。
その言葉が余りに重く、彼は目を見開いて言葉を呑み込んでしまう。
「……だから、駄目なんだ」
ココがそう小さく呟いた。
声は先ほどの幼そうな歳からは考えられないくらいの聡明さに満ち溢れたものとは、裏腹な弱さが感じられる。
青年は瞠目してしまう。
その呟きや、先ほどの言葉から、自分が思っていた以上に彼の、ひいては彼らを取り巻く環境の過酷さの一端を感じ取ってしまったからだ。
「大丈夫です」
だからこそ。
一度だけ息を吐き、青年は出来るだけ優しく告げる。
彼の声を聞いた子供達が弾かれるように顔を上げた。
「ボクは、魔法使いです。あなたがどんな毒を持っていても、魔法でちょちょいのちょいですから」
そして伸ばされた手は、ふわりと優しくココの頭に乗せられた。
躊躇いはない。
先ほどの言葉を聞かされたあとだというのに、自然な動作で触れられる仕草にココは振り払うことも出来ずいた。
衝撃に対処することが出来ずに固まってしまうココに、彼は優しく笑いかける。
「だから、気にすることなんてないんですよ」
優しい言葉は、魔法使いという単語をあえて使うことによってココの心の垣根を取り払っている。
青年も全然気にしていない様子を装っているが、その言葉は心にすとん、と落ちてくるようなものだった。
柔らかい手は、まるで心に触れるように暖かくてとても優しい。
何度も何度も触れられて徐々に衝撃から戻ってきたのだろう。ココの目が大きく見開かれ、潤む。
「………魔法使いだから…?」
「ええ」
「ボクに触れても大丈夫…?」
「はい」
こう見えてもボク凄い魔法使いなんです、と笑う青年の声は明るい。
あえてそう言うことでココの気持ちを和らげてくれようとしているのが伝わってきた。
「本当に…?」
「もちろん」
大きく頷いた青年を見て、ぽろり、とココの瞳から雫がこぼれ落ちた。
一粒流れ落ちた涙は、それが合図のように次々と溢れ、流れ落ちていく。
頬を伝い、顎から落ちて地面に落ちて乾いた地面に水跡を残す。
涙を流すココの体は小さく震えていた。嗚咽を我慢するためなのか、噛みしめる唇が表情を歪ませてしまっている。
震えながら耐えるように胸の上で握られた手は、あまりにも小さい。
青年はなるべくゆっくりと、怖がらせないように目の前の幼子の体へと手を伸ばし、腕のなかへと抱き込んだ。
あ、と声を上げる子供達とは裏腹に、胸にココを抱きしめる青年の顔は何処までも優しい。
「大丈夫」
『大丈夫』、それはすべてを包み込むような優しさに満ち溢れている。
その言葉に弾かれるようにココが目の前の暖かな体に顔を寄せて、肩を震わせながら泣き始めた。
それでも声は上げない。
耐えているのではなく、声を上げて思い切り泣くことが、わからなかったからだ。
ぎゅぅぎゅぅと抱きついてくる小さな手が驚くほど強いのに、どこか弱い。
縋り付いてくるその背を労るように青年は何度も叩いた。
ぽん、ぽん、と一定の間隔で叩くことによって、言葉もなく慰めていることが伝わってくるかのようだった。
トリコとサニーはその様子をただ黙って眺めている。
普段はけして泣くことのない兄弟の涙に驚いたのと、青年の言葉が心に何かをあたたかなものを連れてくるかのようで、呆然としていたからだ。
そのあとも言葉もなく、ただ背を叩く音だけが、湖の側で響いていた。
風の音も、
鳥の声も、
木々を揺らす音も、
すべてが消えて、なくなってしまったかのように。
<つづく>