子供の頃の出会いというのは、意外と鮮明に残るもの。
 朧気な世界と記憶。
 子供であるが故の広がる世界のなかで、時と共に埋もれていくものも、多少なりとあるのは仕方ない。
 けれど、その出会いが強烈であればあるだけ。
 その出会いが、心に落とした衝撃が大きければ大きいだけ、その記憶は歳を重ねたあとになっても色あせることはないのだ。





 『Paradise Lost』 <1>




 トリコの古い記憶のなかで、今でも色あせることもなく残っているものがある。

 それは森の中。
 木々が風を揺らす音。枝の間から見える青空。
 自分の体にまとわりついている湖の水。
 そして、自分を抱き上げてくれている、二本の柔らかな腕。

 呆気に取られて呆然としている自分を見て、腕の主は笑いかけてくれた。
 その笑顔が、全ての始まり。

「大丈夫ですか?」

 始めて出会った彼は、『魔法使い』だった。
 湖の上で濡れもせずに宙に浮かんでいる。自分の体についた水だけが、彼を濡らしてしまっていたのがどうしようもなく心に残る。
 それでも、気にした様子もなくこちらを覗き込んでくる優しい瞳。

 聞かれ、我に返ってトリコはコクコクと頷く。
 頷いたのを見て彼はホッとした様子だった。

「そうですか、良かった。ここの湖の水は、夏でもかなり冷たいんです」

 彼の言葉にトリコはようやく自分が湖に落ちたのだということを思い出した。
 湖の縁で足を滑らせて、落ちてしまったのだ。
 水は冷たく、また足下がつかないことにパニックを起こし、藻掻いていたところで彼に助けられた。

 彼は、トリコを片腕で支えながらもう片方の手の指先を宙に躍らせる。
 それだけでトリコの体にまとわりついていた水気が一息に消えてなくなった。
 驚いて体を見回すトリコに、彼が苦笑を浮かべる。

「すみません。でも濡れたままだと絶対風邪を引いちゃいますから」
「い、いまの…!」

 ぽかん、として大口を開けるトリコの様子が可笑しかったのか、彼がクスクスと笑った。
 眦が下がると先ほどよりも随分と子供っぽい(自分も子供だったくせに生意気にも)印象を受ける。

「吃驚させちゃいましたね。ああ、でもその話はあとで…」

 そこまで言って彼が視線をトリコから外して別のほうを見る。
 トリコも釣られるようにして顔を巡らせると、元々自分がいたところで二人の兄弟たちがいる。
 
 そうだ、とトリコは思い出した。自分は彼らとともにここまでやって来ていたのだ。
 溺れた衝撃と、彼の出会い、そんな日常とはまったく別のことが起きて思考がうまく繋がらなかったせいもある。
 兄弟たちは、ぽかんと大口を開けたままこちらを見ていた。
 よく見ると、目元が潤んでいる。

「あのこたちの叫び声が聞こえたんです。だから、ボクも早くに気がつくことができました」
「そ、なのか」
「あとで、謝るのと……お礼を言わないと駄目ですよ?」
「ん、うん」

 こくこくと何度も頷くと、彼は微笑ましそうに表情を緩ませた。
 空いていた手が、ゆっくりとトリコの頭に触れ、撫でられる。

「…いいこ」

 微笑みと、その手が暖かい。
 その感じたこともないような暖かさに心を奪われていると、彼の視線が一瞬険しくなった。
 何かあったのだろうかと思うよりも早く、彼が口を開く。

「駄目ですよ、<水の精霊>達」

 ウンディーネ、と彼はそう言った。
 え、とトリコが声を上げると、自分たちの下のあたり、つまり湖の中から笑い、細波のような声が聞こえてくる。
 それから水がぱしゃん、と跳ねたかと思うと、美しい娘達が姿を現した。
 
 くすくす、くすくす。
 
 細波のような、という単語が何よりも似合う半透明の姿をした娘達は、笑いながら自分たちのまわりを漂っている。
 敵意はないのだろう。彼の忠告にも彼女たちは笑みを消そうとしない。

「このこを助けてくれたのはお礼を言います。でも手を出してはいけません」

 忠告を受けているはずのなのだが、全然構っていない半透明の指先が、軽くトリコの頬を撫でる。
 その指先は驚くほど冷たかった。

 娘達が全然自分の話を聞いていないことに、彼が眉を寄せて大きく溜息をついた。

「大方、このこの真っ青な髪が気に入ったんでしょうけど…」

 独り言のようにそんなことを呟く。トリコは自分の髪がどうかしたのだろうか、と首を傾げるしか出来なかった。
 このときのトリコは知らなかったのだが、精霊というのは見目というのを何よりも大切にする傾向がある。
 彼女たちが心を惹かれたのは、湖や青空の色をそのまま溶かし込んだかのような真っ青な自分の髪だったらしい。

 しかし、精霊に好かれるというのはあまり良いことでもない。
 たまにその不思議な力を使って魂を文字通り骨抜きにするような過激なものもいるので彼は彼女たちに釘を刺していたのだ。

 全然話を聞いていない精霊達を見限って、彼は一歩を踏み出す。
 宙をまるで地面と同じように進んでいくと、精霊達も諦めてしまったのか次々と体を水の中へと巡らせ、解け、消えていっていた。
 トリコはその光景を見ながら、ぼんやりと自分を抱き上げている彼を見る。

 子供心に、愛嬌のある顔だなと思った。
 それでも自分を助けてくれた英雄で、魔法使い。
 精霊達に意見するという芸当もやってのけている。
 何よりも暖かな腕。いつまでも抱いていて欲しいと思うような、ホッとするような、不思議な気持ちになってしまう。

 ジィッと見つめていたことに気付いたのか、先を見ていた彼が不意にトリコへと向き直る。
 視線が合って、どきりとするトリコに気付いたのかどうかはわからないが、彼は目があって数度、瞬きを繰り返したかと思うと、ふわりとほどけるような微笑みを浮かべた。
 その笑顔が、何よりも心に落ちてくる。




 大人であろうと、子供であろうと。
 一目で心を奪われる、その瞬間はやって来る。



<つづく>