黄昏 壱−始まりに向かう、その前に−




忘れていたわけではなかった。たとえ、記憶はなくても、心が覚えていた。
求めていた。ずっと、ずっと。

泣いてしまうかと思うくらい、切なくなるほど、強く。

ずっと、






 「……でもなぁ。」

  雪の降る道を歩きながら京悟がぽつりと言葉をこぼす。
  その声を聞いてか、横を歩いていた彩架が京悟のほうを不思議そうに見上げる。

  視線が合って、京悟は苦笑いを浮かべてみせた。

 「いや、なんていうか……やっぱ、実感がな…」
 「それはそうですよ。」

  なんとなく言葉を濁らせる京悟だったが、その内容を察してか彩架は割とあっさりと答えを返した。
  自分の掌を何となく見つめて、ゆっくりと開いたり閉じたりしながら、

 「京悟にとってのこの数ヶ月は…現実でしかなくて、『あの日々』がどうか、なんてよくわからなくて当然ですから。」

  そう今は、すべてが取り戻されたあと。
  無くしたものもあった。
  それでも、今はすべてを……いいや、『すべて』ではないのかもしれない。
  『すべて』なんて、そんなこと。

 「…さーちゃん。」
 「…京悟がそんな顔しないでください。あなたが悪いわけじゃないんですから。」

  苦い表情を浮かべて彩架の名を呼んだ京悟に彼女はやはり笑っている。
  その笑顔は、彼女自身が感じているとおり、どこか不器用な笑みなのだけど、それでも笑みを浮かべてみせた。

  そしてしばらくして浮かぶのは、心の底から染み出すような、柔らかな微笑。

 「京悟。」
 「…なんだよ。」
 「私はね、嬉しいんです。」

  京悟が振り返れば、そこにいる彩架は本当に心底嬉しそうな、笑みを浮かべて彼を見つめていて。
  
  胸が、切なくなるような気さえしてしまう。

 「もう、手に入らないって思っていたから。」

  締め付けられて、息も出来なくなるような。

 「もう、見ているだけしかできないって、思っていたから。」

  途方もない祈りを、聞いているような。

 「側にいることが出来ないって、思ったから。」

  儚い、言葉を口にしているような。
  泣きたくなるような、この感覚がなんなのか、京悟には理解できなかった。

  けれど、彩架を見ていると、胸に襲いかかってくる不可思議な感覚が止まない。

 「だからね。」

  投げ出されていた手を握られる。
  彼女は言葉を口にしながら、ゆっくりと京悟の片手を握った。
  そこから感じられるのは、柔らかな体温。
  
  とてつもなく、懐かしい、温度。

 「実感がなくてもいいんです。私は、あなたが、いてくれるだけで嬉しい、です。」
 「……さーちゃん、俺は、」
 「みんなが、いてくれて…生きていて、くれるなら、これ以上幸せなことはないんです。」

  胸が痛い。
  その胸の痛みを苦く感じながら、京悟が彩架に手を伸ばした。

  頬に触れて、撫でる。
  そこにも確かに暖かな体温と質感があって、彼女がそのくすぐったさに首をすくめたり、して。

 「…もう、いなくなったり、しねぇ。」

  言葉を切るようにして発音して、それを彼女に印象づけるために京悟は口を開いた。
  彩架が顔を上げる。

  頬に触れた手はそのままにして、見つめ合う。

 「約束だ。俺たちは、誰一人お前の側から離れていったりしねぇよ。一緒に戦う。一緒に……生きていく。」

  

  記憶に残るのは、闇の広がる場所。
  切り裂かれた体は鈍い熱を発し、どこもかしこも動かなくなってしまっていた。

  血にまみれた自分。
  
  そこに彼女の声が聞こえる。
  聞き逃してしまいそうな弱い声。小さな、声。
  傷だらけでそれでも自分に伸ばされた手に答えたかった。

  だが、手はおろか、指の一本でさえ動かすことはできなかった。

  そうして記憶はそこで途切れる。



 「…もう、お前の前からいなくなったりしない。」

  だから安心していい、と言い聞かせるように言葉にする。

 「約束、するぜ。」

  この剣に誓って。
  この心に誓って。
  この魂、すべてに掛けて。

  この約束を、反故になどしない。

 「……………」

  黙り込んでしまった彩架に、京悟がどうした?と声をかける。
  のぞき込むようにして顔を見ると、彩架は嬉しそうな、けれど困ったような感じで、微笑みを浮かべていて。

 「なんだか口籠もっちゃって……なんて、いうんでしょう。」

  言葉を探すような動作。
  何度も口のなかで言葉を反芻させ、そうしてゆっくりと、笑う。

 「どうしよう、すごく、嬉しい……」

  言葉にもできないくらいの、衝動にも似た。
  
 「嬉しくて、言葉を出すのを忘れちゃいました…すみません、きょう、ご…」

  そんなことをあっさりと口にするものだから。





  京悟は咄嗟に彩架の体を抱きしめる。
  腕のなかに抱き込んで、力を込める。

  離れることがないように。
  もう、二度と。
  もう二度と、この手が彼女を突き放したりしないように、と。

 「……京悟。」
 「…わりぃ。」

  力を込めれば、体全体で感じることのできる小さな体。
  彩架もまた、おずおずと自分の腕を持ち上げて、京悟の背中に腕をまわす。

  少しだけ体を預けるようにして、感じる。

  そこにあるのは、ぬくもり。
  消えることのないあたたかさ。

  もう手に入らないと思っていたもの。

 「ごめんな。」

  すべての思いを込めて呟く。
  願うなら、祈るなら、叶うのなら、
  せめて自分のこの腕はだけは彼女から離れていくことのないように、と。

  そう、願う。








  闇にも似た白く濁った雪が降る。

  黄昏の時が、近づいてきていた。





 〜つづく〜