あの日、あの時、あの瞬間。
私は女であることを捨てた。男でもない、女でもないものになろうと決めた。
あの日、あの時、あの瞬間。
私は全てを失ってしまったから、何もかも忘れてしまったのだけど。
あの日、あの時、あの瞬間。
ただ私は、どうしようもない喪失感と、どうしようもない絶望感だけに突き動かされていた。
それだけ、だった。
「さーさん、さーさん。」
体をユサユサと揺さぶられて、彩架はゆっくりと瞼を開けた。
とろとろとした眠りの余韻に頭の中を支配されながらも、そのまま光を遮ってこちらを見ているのが誰かを確認しようとする。
「さーさん。いいかげんに起きなよ。」
いつまで寝てるつもりだい? と笑いながら言われて、ようやく目が光に慣れてきた。
ぼやけた輪郭がゆっくりと白さを持ち、そのまま妖艶な笑みをこちらに見せる。
唇の下の黒子を見て、ようやく、彩架は自分を起こそうとしているのが誰かということを『思い出した』。
「……桔梗さん…あれ…私…」
ようやく覚醒を始めた頭を軽く振りながら起きあがると、桔梗がクスクスと笑う。
「気持ちよく眠ってるとこを起こして悪いんだけどね、こんなところで寝てると風邪を引いちまうよ?」
「あ、大丈夫です…私、けっこう丈夫…」
「駄目だよ。あんたがそう言ってもまわりの奴らが聞くわけないさね。」
何がおかしいのか彩架にはさっぱり通じていないが、桔梗はそれさえも面白がっているようで笑いながら彼女の頭を優しく撫でる。
そしてもうすぐ夕食時だからと軽く伝えると、そのまま先へと行ってしまった。
彩架も、まだ覚醒にほど遠い頭をかきながら大きくあくびをする。
今、彩架が座っているのは…つまり眠っていた場所は、鬼哭村にある九角の屋敷の道場で、お世辞にも昼寝に適した場所とは言い難い。
固い板間に、端のほうには畳が重ねておいてあるが彩架は板間に直接頬をこすりつけて眠っていた。
何時の間に寝たのかは覚えていない。
修行中に疲れてぶっ倒れたのか、精神鍛錬中にそのまま眠り込んでしまったのか。
あまり良い状況で眠った風ではなかった。
覚醒しきったら思い出すだろう、そう思いたいと考え直して彩架は改めて立ち上がる。
そう言えば、眠っている間に何か夢を見たような気がした。
懐かしい夢のような気がする。
逆に思い出したくないものだったような気もする。
悲しい夢だったような気もした。
しかし彩架はその夢がなんなのかは思い出すのをやめた。
思い出したところで、懐かしい思い出は…遠い、場所にある。
彩架は、故郷の記憶が所々虫食いにあったように思い出せないところがあった。
そしてそれは、小さい頃の一場面であったり、修行中のことであったり、夕食で家族と会話した何かだったり。
そんな場面が、思い出せずにいた。
一番思い出せないのは、自分が髪を切り落とそうと思った理由。
腰まであった髪を、泣きながら小刀で切り落とした。
こんなもの要らないと、ボロボロと泣きながら切った。
どうしてそんなことをしたのか、その理由が思い出せない。
そして、自分の『故郷』がどこにあったのか、それさえ思い出せずにいた。
だから彩架は、髪を切り落として諸国を放浪するようになり、それから一度たりと『故郷』を見たことはなかった。
季節は今や冬。
江戸の冬は邪悪な闇に覆われ、雪が降り続けるなかにあった。
櫻舞−さくらまい、さくらまう(始まりの前に)−
思い出せずにいた記憶とともに少女は戦い続けていた。
「私は、女にも、男でもないものになりたかったのかも知れません…」
戦いは終局へ向かい、進み始める。
そのなかで少女は戦い続けた。仲間達と共に、戦い続けていた。
「帰ろうな、ひーちゃん。一緒に。」
傷つきながら、迷いながら、それでも『決意』した思いを胸に、止まることはなく。
強大な敵に向かって、闇をただひたすらに進み続けていた。
それは、自分自身のなかにある『闇』との戦いでもあった。
「人よ、弱き人よ。人なる者よ、何をそこまで迷う。」
それと向き合うための戦いでもあった。
人の想いもまた、少女を迷わせ苦しめた。
けれど想いが止まることはない。人の想いは、けして止められるものではないから。
「私は罰を受けるでしょう。神は私を…決してお許しにはならないのです。これで裏切るのは、二度目、ですから。」
しかしそれは少女を怯えさせた。
「この戦いが終わったとき、お前はどうするつもりなのだ?」
それが必要なものであるのか、それはまだ知れない。
だが、想いは重ならないときもある。重なることがあるとは限らないからだ。
手を伸ばしたところで、叶わない想いも確かにある。
「人の子よ。そこまで何故心を痛める。」
それと向き合うための瞬間がきたのだ。
櫻が舞い散るその前の、物語。
戦いに向かい答えを出すための、物語。
「さよなら。」
櫻舞、だ。
<続>