一緒 〜なまえをよぼう〜
笑うこと。
それがその人が『幸せ』かどうか調べる手段。
「おやかたさまぁぁぁぁぁ!!!」
とたとたと軽い足取り…ただし走っていることだけは確かだ。体重がないので軽いように聞こえるだけで…で、
廊下を走ってくる音が聞こえてくる。
その声を聞いた嵐王が、またかと深く溜め息をつく。
同じく声を聞いているはずの九桐は慣れた様子で可笑しそうに笑うだけだ。
そしてその、『おやかたさま』はというと。
「……どうした。」
そうおやかたさま…天戒が口を開くと、同じタイミングでガラッと戸が開く。
タイミングさえ覚えてしまっているあたりが何とももの悲しい…と、嵐王は静かに涙を流したという。
(仮面で見えやしない)
戸の外にいるのは小柄な人の姿。
おろおろとした様子で何かを言おうとしているが、どうやら頭のなかで言葉がまとまらないらしい。
胴着を身にまとい、むき出しの二の腕や足は細い。
そのくせ、一度それを速度にのせて振るえば、大男ぐらいなら一撃で沈める威力を隠している。
「…彩架。」
「あ、あの、御屋形様…え、えと…」
名前を緋勇彩架、という。
桔梗と天戒がその腕を見いだし、半ば強引に鬼哭村まで連れて来た。
鬼さえもほんの数撃で倒すほどの腕。
それにあわせて鬼にさえも怯まないその心根。
そして言わなかったが…桔梗は彩架の『優しさ』に心を動かされたらしい。
優しく笑う、子。
それが彩架を見た相手が抱く一番始めの印象となることが多い。
「何があったのか?」
「そうだぞ、彩架。言わないと若もわからないだろう。」
横から九桐が助け船を出す。
その言葉に後押しされてか、彩架もようやく言葉を続け始めた。
「実は…お願いが、あって……」
『お願い』という単語に、天戒はかすかに首をかしげていた。
見上げる先には、村のなかでも最も大きな樹の枝。
青々と繁る葉たちは気持ちのよいものとなる。
見る分にとっては、だが。
「…………ねこ、だな。」
「ねこですね。」
にゃぁん、と小さく木の上から仔猫の鳴き声が聞こえてくる。
青々と繁る枝の上にいるのは真っ白な毛並みの小さな猫だ。
青い瞳をくるくると丸めて、先ほどから何度も小さく鳴き声を上げている。
その下には不安そうな表情の子ども達がいた。
天戒たちの姿を見て、もう大丈夫といったようにほっした表情を浮かべていたが、今は子猫のほうに視線が釘付けだ。
「…お願いとはあれのことか。」
「はい…ご足労かけて…」
かまわん、と手で合図を送る。
彩架が頼み込んできたのは子猫を助けてほしい、というものであった。
子どもの一人が山に迷い込んできたのを拾ってきたらしい。
そして世話をしようと連れてきたら、山の動物の鳴き声に驚いて枝の上に登ったまま降りれなくなったという。
何度も木登りを試そうとしているのだがうまく登れずにいる。
途中でそれに気づいた彩架もまたしかり。
困り果てて天戒たちに助けを求めにきた…と言ったところだろう。
「…ふむ。」
天戒は樹を見上げながら考え込んでいた。
このくらいの樹ならば上れないということもない。
あとはどこまで自分が持つか、ということだ。
枝に上らず(上ってしまったら重さで折れてしまうのが落ちだ)それで子猫を救出できるかどうか…
「…若、俺が行ってきましょうか?」
天戒の考えに気づいて九桐がそう話し掛けてくる。
だがそれも断って天戒がひょい、と草鞋を脱いで裸足になった。
そのまま樹の幹を叩き、軽々と樹を登っていく。
子ども達がわぁっと歓声を上げ、九桐と彩架は不安そうに天戒が登っていく様子を見つめている。
やがて、子猫のいる枝までやって来た。
「…ほら、こい。もう大丈夫だ。」
片手でしっかりと樹の幹に体を支え、片手を出来るだけ白い塊に伸ばす。
子猫はぶるぶると震えてその場から動こうとしない。
「お前を拾ってきた者も心配している…お前も帰りたいのだろう?」
それでも天戒ができるだけ優しくそう言うと、ぴくりと前足が動く。
「……海棠。大丈夫、御屋形様は優しい人だよ。」
その時だ。
木の下に彩架がやって来て子猫…海棠、というらしい…のほうへと語りかけている。
すると子猫もちら、と青い瞳を天戒のほうへと上げた。
フッと笑いながら天戒が手をもう一度差し伸べる。
「大丈夫だ…こい。こっちへ…お前に危害を加えたりはしない。」
おいで、と言うと子猫がようやく動き始めた。
危なっかしい足取りで天戒のほうへと歩み寄ってくる。
いいぞ、そのまま…と言いながら天戒は根気強く待った。
やがて子猫が天戒の手に触れた。
ふわふわの柔らかい毛並みがするっ、と天戒の手の甲を滑る。
その体を持ち、自分の懐に入れると天戒は樹を降りてきた。
わぁっと上がる子ども達の歓声と、嬉しそうな顔の彩架。
「本当にありがとうございました、御屋形様。」
海棠(子猫)をそのまま子ども達に預けて…村全体で飼うことにした。世話は子ども達がする…天戒たちは屋敷のほうへと戻ってきていた。
その途中で彩架が深々と天戒にお辞儀をする。
「いや、あのくらいなら俺にもできるだろう…」
「でも御屋形様じゃなかったらきっと…ああはいかなかったと思いますし…」
「そうですよ。若はお優しい人だから…動物によく好かれる。」
何の意図を含めて言ったのかがわかったので天戒が九桐を小さくいさめた。
その言葉にも動じず、九桐は楽しげに笑っている。
彩架のほうはただ、動物に好かれるという意味をそのまま受け取っているらしい。
「御屋形様らしいですね。」
くすくすと笑みをこぼす彩架に天戒もうむ、と呻ってみせる。
別にいい、別にいいのだが。
「……彩架。」
そこで、九桐と話し始めようとした彩架のほうに声を掛ける。
彩架のほうも九桐との会話を止めて、天戒のほうに振り返る。
九桐も同じく、天戒のほうへと振り返った。
「…御屋形様、はやめてくれないか?」
突然の申し出に彩架のほうが目を丸くする。
え、と小さく呟き、それから質問の内容を頭のなかで反芻させていた。
「お前は鬼道衆だ。」
「え、ええ…そう、ですけど…」
「…だが、徳川に恨みがあるわけではない。」
そうであろう、と言うと困ったような顔をしながらもこくりと頷いた。
彩架は徳川というものに恨みなどない。
あの雨の日、桔梗と出会い、そして天戒に誘われてこの村へとやって来たに過ぎなかった。
そのまま村の者ともなじみ、仲間達からも一目を置かれ、好かれる存在へとなっていった。
「それにお前は…俺の『部下』としての意識はない。」
「……はい…」
仲間としての意識はある。
しかし部下とか、そういう意識はまるでない。
仲間として『在る』ことを当然としているから。
「だから…お前は『御屋形様』と呼ばなくてもよいのだ。天戒、とでも呼ぶといい…」
「で、でも! それじゃあ皆さんに失礼ですし…」
みんなは『御屋形様』と呼んでいるのに自分だけそう呼ぶわけにはいかない。
第一呼びつけなどしたら…風祭からまたこってりと嫌味を言われることを目に見えていた。
お前は御屋形様をなんだと思ってるんだ、と。
…桔梗あたりはあらまあ、とか言いながら笑っていそうだが。
「…なら彩架、『若』、と呼んでみてはどうだ?」
そこへ九桐がそう言って彩架に提案してみる。
今までは黙って成り行きにまかせてはいたようだが、彩架が困っているのを察して、そう言った。
天戒のほうは、おい、と言いかけたが彩架の反応を待つ。
「………わ……」
困ったように何度も開閉する唇。
なんとか呼んでみようと努力はしているのだがなかなか表に出すことができずにいる。
それでもようやく…彩架がゆっくりと顔を上げて、天戒の顔を見た。
「…若。」
まあこれが妥協点だろう。
そう思って天戒はニッと唇に笑みを浮かべた。
「よし、では行くぞ。尚雲、彩。」
……彩、と。
短く呼ばれたことに彩架が驚いて目を丸くして、天戒の顔を見つめる。
だが天戒のほうも、聞いた九桐のほうも楽しげに笑ってさっさと歩みを進めてしまう。
「ま、まってください! 若、今の…」
「なんだ。俺の言葉に質問でもあるのか、彩?」
もう一度呼ばれて、彩架が困ったように何度も表情が変わるのを背後に感じた。
だが最後には…はい、と答えて天戒たちのほうへと歩を進めていく。
呼び方、というのは一種の信頼の現れのようなもの。
「なら俺もこれから師匠、と呼ぼうかな。」
「や、やめてくださいよ、九桐さんってば!」
「はっはっはっは! 随分と小さな『師匠』だな。」
若ぁ! と叫ぶ声を聞きながら天戒が笑い、九桐も豪快な笑い声を上げる。
鬼哭村は、今日も平和だ。
追記しておくとするなら。
彩架が天戒のことを『天戒様』と呼ぶのはそれからしばらく時間がかかる。
それでも『若』と呼ぶことには慣れていったようだ。
<終わり>