記憶 七〜わたせないもの〜 




あの子に降り注ぐ運命を知っていた。

知っていてなお、何もできなかった。

……どうして、あの子なのだろう?






   陽の光がない庭で、目を閉じたまま黄金の髪の少女が立っていた。

   異国のものと見まごうような金色の髪。
   白磁の肌に、これもまた異国の服を身にまとっている。
   両腕と両足には鎖のつけられた枷。

   足枷の鎖の部分だけは引きちぎられたように断ち切られていた。

   そのまま、少女は立ったまま微動だにしない。

   ただ黙って、虚空に気配を見続けていた。

   『……どうして。』

   空白の声がよぎる。
   少女は喉から声を発せずに、そのまま心の中で疑問の声を投げかけた。

   その相手は、ここにはいない。

   もっと奧。
   地中深く、眠る『もの』。

   その『もの』がいるから、狂ってしまった人がいる。
   その力のせいで、狂って狂って、それでもなお狂ったままの。

   『…どうして、あなたは…あの子を選んだのですか?』

   声にならない問いかけ。

   その瞬間、ざぁっと風が鳴いた。
   まるで問いかけに答えるように、鳴いて、過ぎていく。

   それは、あの子だから。と。

   謎かけのような言葉が、少女のなかに残った。

   少女は途端に、悲しみをたたえたような表情を浮かべた。
   悲しそうに顔を歪ませて唇を噛み締める。
  
  「………あなたに、あの子は『渡さない』。」

   それは血を吐くような『言葉』だった。

   だがそれを嘲笑うかのように…いいや、静かに諭すようにもう一度風が『鳴く』。
   諦めなさい、と言っているかのように。

  「渡さない…だって、あの子は……私が、助けるから。」

   時の織り姫の言葉、だった。

   『私たちで、守っていくから。』





  「よう、比良坂じゃねぇか。」

   ゆっくりと廊下を歩いていた比良坂に、誰かが声をかけてきた。

   比良坂はその声の主が誰かすぐに気づいて振り返る。

  「……蓬来寺さん…」

   答えると、へへ、と笑いながらこちらのほうへ歩いてくる。
   古い廊下がギシギシと歪み音を立てる。

   どうやら他にも誰かいるらしい…そう思い当たり、ふと、気づく。

  「小鈴さんもいらっしゃるんですか?」

   問いかけると、驚いたような声が聞こえてきた。

  「わぁ、すごいね比良坂ちゃん! ボクがいるのもわかっちゃうなんて。」
  「お前の≪気≫がわかりやすかったからだろ。」
  「…どういう意味だよっ!」

   言ったまんまだ、と京梧が答えると小鈴がますます怒ったのがわかった。

   京梧の言葉の意味はつまり…『単純』、だということ。

  「お二人ともどうなさったんです? ……私に、何か?」

   そのまま喧嘩でも始めそうな勢いだったので、なるべくゆっくりと話し掛けてみる。

   すると京梧も小鈴も、比良坂の前だったということを思い出して喧嘩をやめる。
   ごめんね、と小さく小鈴が言った。

  「実は…その、さーちゃんのことなんだけど…」

   さーちゃん、という単語の意味がわからず、ふと、比良坂は考え込んでしまった。
   やがてそれが、彩架のことだということを思い当たる。

  「彩架が…どうかしたんですか? 彼女なら今、道場のほうに…」
  「それは知ってる。先刻、九桐と手合いをしてるのを見たからな。」

   つまり彩架がどこにいるか、とかそういうことではないらしい。

   とりあえず話を聞くことにして、比良坂が縁側のほうまで近づくと、適当なところに腰を下ろした。
   何も言わない行動だったが、京梧も小鈴もそれに習って庭先に面した縁側のところに座る。

   …比良坂は何も言わずに、2人の言葉を待った。

   こういう時、先に『なんですか?』と問いかけては言いにくいこともわかっていたし、
   自分から言葉に出したほうが話しやすいことも知っていた。

   そうして暫くして、ようやく小鈴が口を開く。

  「…あのさ…さーちゃんの肩の傷…もう、治ってる?」

   何となく口に出すのを怖がっているかのようだった。

   比良坂がそれを敏感に感じ取って…そして、やはりあの傷は小鈴の弓によって負わされたものだというこに気づく。

  「はい。傷跡のほうも大分なくなりました。」

   そう伝えると途端にホッとした空気が流れるが…すぐに、小鈴の空気が引き締まったものに変わる。

  「……さーちゃんは、『覚えて』たんだよね?」

   何か、とは言わなかった。

   それは比良坂にもわかっていたから、

  「はい。」

   と、だけ簡潔に答えておく。

  「…俺たちは覚えていなかった。」

   やがて今まで黙っていた京梧も口を開いた。

   …聞きたいことの予測は、ついた。

  「なんで、さーちゃんは…彩架だけは、『覚えて』いたんだ?」

   敵ですら…あの、強大な存在…邪悪な存在ですらも、覚えてなどいなかったのに。
   時を越えること。
   時空を越えて、もうひとつの『ところ』へ行くということ。

   時を紡ぐ織り姫である比良坂は覚えていて当然のことだ。
   それに彩架に時を越えさせて、時間を『逆流』させたのも彼女自身である。

  「…彩架は……『思い出した』んです。貴方達との、『再会』によって。」

   

   ざぁっと、風が。



   比良坂は嘘はつかなかった。

   実際、比良坂も『思い出す』だろうとは感じていた。
   しかしそれは『敵』ともう一度であった時…あの、全てを消そうとしてしまう男と出会うときであろうと、思っていたのだ。

   だがそれは違っていた。

   彩架が『思い出した』のは…京梧達と『再会』した瞬間からだった。
   それから徐々に…ゆっくりと、記憶の蓋がこじ開けられていったのだ。

  「…貴方達も、いずれは思い出すはずでした…でもそれは…『あの場面』の瞬間のはずだった。
   でも…彩架は違った。彼女だけは、違ったんです。」

   その言葉の意味がわかったのか、小鈴と京梧がハッと息を飲むのがわかった。

   そう…これはまるで、誰かに定められているかのように…

   誰かに……全て、あの…『存在』に。

   ……全ての狂いは、『あの男』だと思われている。
   でも実際は、そうだろうか?

   『あの男』が全てを狂わせているのか?

   …違うはずだ。
   『あの男』の本当の狂いの原因は何だったか。
   家族との争い。
   ある存在との出会い。
   …それよりもっと、根元にあるもの。


   ……『黄龍』。


   キュッと比良坂が自分の服を握りしめた。
   
  「………まるで…何かに、導かれるかのように…彼女は、思い出していった。」

   宿星のもとに生まれ落ちた少女。

   そして彼の『星』に、魅入られたもの。
   彼女はまだ、気づいていない。

   でもいずれきっと気づくはずだ。

   あの龍に魅入られたものは、必ず最期の時を迎え入れてしまう。
   世界を変える力を求めたものを狂わせ。
   人の迷いを持ったものをも、その力の虜にし。
   龍の力を『視る』女性さえも喰い殺して。

   いずれあの少女も…『さらっていく』つもりなのだ。

   あれが原因と言わずして、何という。

  

  「…さーちゃんはさ。自分で思い出したくて、思い出したんじゃないのか?」



   その時、だった。

   京梧がゆっくりと口を開いた。
   ハッとして比良坂が顔を上げる。小鈴もまた、隣にいる京梧のほうを見た。

  「だったらいいじゃねぇか。あいつらしいしよ…それに、俺たちだってもう『思い出した』んだ。」

   にぃっと、まるで『あのもの』に対しても不敵に、挑戦的に笑う表情。

   ああ、と思った。

  「あいつを泣かせたくない。それは、お前だって同じはずだろ? …なあ、比良坂。」

   ……もう二度と、あんな悲しい表情をさせないためにも。

  「…ええ。」

   何も出来なかった…苦しんでいる彩架を、ただ慰めることしかできなかった時のようにならないために。

   立ち向かっていこうと決めた。
   力になろうと、した。



   誰が…『あのもの』に、渡したり…するものか。



  「もう泣かせないようにすればいい。それだけの、ことだろ?」

   ええ、ともう一度比良坂が頷いた。
   小鈴も、うん、と頷く。

   ごめんなさい、と謝らなければならないことがある。

   でも謝るのなら…それなら、もう泣かせないようにするほうがいい。

   自分たちの先で、笑っていてくれるように。

  「うん、ボクも…もう迷わない。」

   弓の弦を握る指先をジッと見つめて、小鈴が呟いた。
   あの日、放してしまったものに…ゆっくりと、噛み締めて。

  「さーちゃんは、許してくれた。謝ったら…もういいよ、って笑って…抱きしめてくれた。」

   でもきっと…悲しい思いをさせてしまったはずだから。

  「だから、ボクも…頑張るよ。」

   頑張る。

   きっとそれは…優しい、力になる。
   





  「……“黄龍”…」

   そして2人が『ありがとう』と言って立ち去った、あと。

   比良坂がもう一度、呟いた。
   声にいつもなら発せられない力強さを讃えて、言う。

  「あなたになんか、彩架は渡さないから。」

   はっきりとそう言い切って、比良坂は笑った。
   いっそ、晴れやかに笑って見せた。

   そのまま立ち上がると、廊下の先へと歩いていく。
   もう、振り返りはしなかった。

   『彩架』によって、断ち切られた足枷も音もしないまま。


   風は、鳴かなかった。





  <つづく>