昼下がり〜しあわせもの〜
あなたにとっての幸せはなんですか?
あなたの幸せを連れて来る人はだれですか?
「……………困りました。」
ぼそりと呟いて、御神槌は先ほどから連続して何度目かの溜め息をついた。
困ったというか、見る者が見ればかなり羨ましい状況なのだろう。
御神槌の黒い、宣教師服の裾をしっかりと握りしめる細い指。
すぐ近くで目を閉じている幼い顔。
すぅすぅと小さく、聞こえてくるのは…安らかな寝息。
時折、野宿などしているときに寝顔ぐらいは見たことはあった。
だがそれは暗がりで…日の下で見るのは、初めてだったのだ。
しかもそぅ、と指を離そうとしてもむずがって、その度に困ってしまう。
起こしてはいけないような気がして、そのままにさせておいてしまうのだ。
「…神よ…これは、貴方の試練なのですか?」
平常心を保てというもの…だとしたら、これほど苦しいものはない、と御神槌は呟く。
苦しいとか、怒りとか、そういう類ではない。
なんとなく…むず痒いような、なんともいえない感覚。
胸の奥に引っ掛かる、何か。
隣で静かに寝こけているのは…彩架だ。
天気のいい昼下がり。
その下でひたすらに困っている御神槌と、それに気づきもしないで眠り続ける彩架。
…平和な、一時のことである。
そもそも、こういう状況に陥ったのは、彩架が双羅山の芝のある斜面で寝っ転がっていたのに始まる。
晩秋の終わりにしては過ごしやすい暖かさのもと、少女は平和そのもので眠っていたのだ。
いつもなら誰かしら側にいることが多いのだが…今日は、本当に一人でぶらりと来たらしかった。
それを同じく、珍しい陽気に誘われて秋の最後の紅葉を楽しもうと出てきた御神槌が見つけたのだ。
深く眠り続ける彩架。いつもなら身から自然に発せられる気も、今日は大人しい。
目を開いていても大きな瞳のせいで、幼く見られがちの容貌が、眠っていてもより幼く見せてしまっている。
そう、っと近づいていって、しばらくそれを観察していた御神槌。
起こすにもしのびないとも言えるほど、彼女は気持ちよさそうに眠っていた。
長い睫毛が、時折風で揺れる。
白い肌はよく見ればきめが細かく、透き通るようにとは言わないのだが、それでも白さが目立つ。
そう言えば日焼けはしにくいと言っていた…などと御神槌が思い出していた。
そのままただ時だけが過ぎていったのだが…こんなところで寝ていては風邪を引く、と思い当たり、御神槌が彩架の肩を揺さぶる。
彩架師、と小さく呼びかけても反応がない。
揺さぶっても少しむずがるだけで起きる気配もない。
さてこれは困りましたね…と、首を捻って……
ふと、何かを思いついた。
きょろきょろとあたりを見回して…誰もいないことを確認してから…よし、と頷く。
そ、っと、顔を彩架の顔のほうへ近づける。
「……」
空白の音で、呼びかけた。
その瞬間、彩架の手がガシッと御神槌の服の裾を掴んだのだ。
え? と思って見てみると、その瞬間、彩架が身じろぎしてまた寝入る体勢に入ってしまったのだ。
掴んだ服は腰から下の大きなヒダの部分のちょうど中間。
そのおかげで御神槌はまだ動けるのだが…完全に、捕まってしまっていた。
「……どうしましょう…」
呟いたが、もう遅かった。
元々、彩架が一度深く眠ったら容易いことでは起きないことは御神槌も聞いていた。
桔梗から聞いていたのだ。
彩架は、戦いになると眠りが浅い。
だが、村など、幾分か気の抜ける場所だと一旦寝始めたらなかなか目覚めようともしない。
よく朝、起こしに行くという役目を持っている(本人はそれはそれは嫌がっているのだが)風祭でも、起こすにも毎度のことながら苦労しているという。
その話を他人事なので気楽に聞いていたのだが、まさか自分がその羽目になろうとは。
はじめは起こそうと思っていた。
こんなところで寝ていては風邪をひくと思ったのだ。
だが今は、この寝顔が側になくなってしまうのを残念だと考える自分がいた。
スッと、胸元に手を持っていく。
そこには御神槌自身があつらえた、古めかしい十字架がひとつ。
握りこむが、あたたかさなど感じられない。
人のあたたかさではなく、物が持つ冷たさ。
そんなものを考えて…一度、あの洞窟で触れられたことを、思い出していた。
あの時、『夢』のせいで寝付けずにいた御神槌に、手を差し伸べたのは彩架だった。
炎を見ていると思い出すもの。
火をつけられ、燃える家々。
叫びすらもなく…いいや、ぽっかりと黒い口腔のまま声にならない叫びをあげている焼けてしまった死体の山。
燃え尽くされ、蹂躙されてしまった畑や、野原。
山さえ、燃えていた。
自分が住んでいた村が、炎に包まれていく夢。
そんなものを思い出していたのだ。
だから彩架が、意識せずに…悪夢のことはまだ、言っていない…手を握りしめたことが、ひどく不思議だった。
優しく笑う顔。
ひっそりと伝えられる体温、のあたたかさ。
そして触れた手の感触のおかげで、御神槌は近頃、めったにあの夢をみないようになっていた。
忘れることは良いことではない。(だけど時間とともに薄れていく記憶)
知っていなければならないこともある。(知って、あとで後悔もするのだ)
知ろうとしなければならないこともある。(それがどんなに辛いことでも)
仲間達のことを忘れたわけではなかった。
御神槌は、ゆっくりと天を仰いだ。
雲がたなびく青空。
秋風が、ざぁっと山の木々を揺らしている。
死んでいった人々のことを忘れたわけではなかった。
眼を細める。
『大丈夫…もう、御神槌さん一人で背負わなくたっていいんですよ。』
私も、お側にいます、と無邪気に笑ったその顔が…胸を苦しめた。
自分の問題だからこそ知られたくなかった。
知られてしまって、わかってもらえなくなるのが辛いとさえ思った。
けれど、今、彩架は御神槌の側にいる。
全幅の信頼を寄せて、安良かに眠っているのだ。
それが心のどこかで嬉しく思えて、御神槌は彩架を起こせなくなってしまった。
そこで遠慮無く、手を伸ばしさらりと髪を撫でる。
見事な黒髪、そのくせ手触りがよくていつまでも触れていたくなってしまう。
頭をゆっくりと撫でると、嬉しそうに…彩架が微笑んだのがわかった。
『もう、泣いてもいいんですよ?』
あのときの言葉が、頭のなかで響いていく。
御神槌はそのまま、ゆっくりと彩架の横に寝っ転がってしまった。
空を見て、雲の流れに目をやりながら…小さく、欠伸を噛み殺す。
ちょうど横を見ると、彩架の寝顔。
だが今度は照れたりせず、微笑ましいものを感じて、御神槌は笑った。
それからポケットのなかにある、予備の十字架を取り出して、彩架の余った方の手に握らせる。
「あなたに、神の祝福がありますように…」
よい夢を、と続けて御神槌はそのまま、祈りを捧げた。
平和な時間に必要なのは、自分と安らぎを与えてくれる誰か。
それさえあれば、大抵の人は幸せなのだから。
そのまま、御神槌も眠りについた。
秋の風が心地よく、ふわりと頬を撫でていったように感じたのは、夢か幻か…
確かめる間もなく、御神槌の意識は闇に沈んでいった。
安らぎの、闇へと。
<終わり>