記憶 伍〜きづくもの〜  



きみはいつも笑っているね。

でも時々悲しそうな顔をするね。

…誰にも見られないように、悲しそうに、泣くね。






   しゃん、と小さく腕に抱いた三味線を鳴らす。

   静かな夕暮れ。屋敷にいるせいか、村の中から聞こえてくる『生活』の音は遠い。
   しゃん、ともう一度、鳴らす。
   音を出すだけのもののためか、いつもより音がはっきりと通っていく。

   ぼんやりと夕暮れの色に染まる村を見ながら、三味線の音をただ遊ばせる。

   桔梗は…ただぼんやりとしていた。

   いつもなら風祭と一緒に内藤新宿のほうまで降りて、情報収集等の細かい仕事をするのだが、今日は気分が乗らなかった。
   と、いうより昼前には切り上げて、桔梗だけがさっさと村に戻ってきていたのだ。

   今頃、一人放り出された風祭が何事か喚いていそうだが、今日はその相手もいないはずだ。

   ふらっと内藤新宿に立ち寄る風祭の恰好の喧嘩相手…彩架は、未だ屋敷の一室で静養しているのだから。

   つい数日前。
   怪我をして戻ってきた彩架。傷の具合は対したことのないように見えたが、肩口の傷が少々面倒なことになっているらしい。

   しばらくゆっくりと静養しろ、と天戒に命じられ、彩架は大人しく部屋で横になっている。
   話し相手には不自由はしないらしい(誰かれとなく、様子を見にやって来ているのだから)。
   
   けれど、相変わらず怪我を負わせられた相手については…口を割ろうとはしない。

   庇っているわけではない素振りだが、本心のところはわからずじまいだ。

   いつものような困ったような笑みで、いつものようにやんわりとした態度で。
   いつものようにこちらの心情を察しつつも、そのことだけは口にしない。
   
   天戒ですらも聞き出すことができなかった。

   何かを知っているらしい比良坂は、自分たちに対しては何も言おうとしない。

   彩架が困るから、と。
   そう言われてしまっては聞き出せるはずもない。
   (風祭がかなり粘ったらしいが、効果はなかったという)

   …ぼんやりと、思う。




  「…よぅ、桔梗。珍しいな、お前がこの時間にここにいるのは。」
  「おや…尚雲。あんたも、もう稽古のほうはいいのかい?」

   ぼんやりとしている桔梗に、稽古帰りらしい九桐が話し掛けてきた。
   桔梗は持っていた三味線を抱え直すと、音を遊ばせるのをやめた。

   ああ、と九桐は答えた。

  「今日はもう終いだ。稽古相手がいないんでな…いつもなら師匠を巻き込むんだが。」

   彩架は未だ伏せっている。
   いくらか肩の傷口は比良坂の奇妙な『唄』の力(本人は懐かしい、聞き覚えのある童謡などを歌っているのだが)で、ふさがり掛けている。

   村に恰好の稽古相手…と、いうより、いつもことある毎に手合いに持ち込む相手がいるのだが、
   手負いの者に『勝負だ』などと言えるわけもない。
   いくら武道馬鹿の九桐も、そこまで非常識ではなかった。

   もっとも、連れ出そうとすれば桔梗はもちろんのこと、他の主要メンバーからもきつい制裁を貰うことは目に見えているのだが。

  「まあ、あんたが非常識じゃないことは知ってるよ。でも、丁度良い機会だし…さーさんには暫く休んでもらおうよ。」

   彩架はいつも何かしらのことをしている。

   稽古や鍛錬。風祭の喧嘩の相手や、九桐らが申し込む手合い。
   御神槌や雹らのところへ、ふらりと話し相手に出掛けるのは日常茶飯事で、双羅山まで出掛けて泰山に会いに行くことも多かった。
   ぶらぶらと鬼哭村を歩いたあとは、昼頃に九角の屋敷でぼんやりと日向ぼっこをしていることもあった。
   だいたいは、内藤新宿くだりまで出掛けていることもあったようだが。

   ふらふらとするのに、そのくせ何かに忙しかったりする。

   それが彩架の日常だ。

   相手のほうも彩架が来るのを心待ちにしている節があり、話を長引かせるのもしばしばある。

   だから、今回のこの『静養』は…ぼんやりとする時間がもてて、落ち着けていいのではないか、と。
   (比良坂は、一緒にいても話し掛けるわけでもなく、ぼんやりと過ごすことも多いので相手をしなくてもいい)

   桔梗はそれを思ってか、見舞客をよくさっさと切り上げさせて追い出す役目になることが多かった。

  「しかし、お前の追い出しに『あいつら』も随分と拗ねているらしいぞ?」
  「いい薬さ。さーさんのためだよ。あんたもちょっとは協力おしよ。」
  「それはもちろん。このさいだから、師匠には心身ともに静養してもらいたいしな。」

   完治したらイの一番に手合いを申し込むつもりだが、それは桔梗にはあえて言わないでおいた。
   
   笑いながら…ようやくのように、困ったもんだねぇ、と呟く。
   (声質ではあまり困ったようには聞こえなかったが)

  「ここの村に住んでるもの…特に天戒様に『近い』ものは、みーんなあの子に懐いちまってさ。」
  「…懐いているというより…懐かれてるんじゃ?」

   それは鈍感ものが言うセリフだよ、と無下に言い捨てる。

  「あの子が居心地いいせいかねぇ…いや、どいつもこいつもさーさんに『たすけて』もらってる…言葉を、力を…貰ってる。」

  
   ふと、思い出す。

   復讐という言葉に固執する自分に悲しそうな顔をした。
   お政のときは本気で怒ってくれた。

   一瞬、完璧主義者…甘いだけの思考の持ち主かと思ったが、そうではない。

   九桐の質問に悩み…あれはきっと、自分たちで答えを導き出してほしくて言ったんだろう…けれど臆することなく、紡ぐ言葉。


   確かにあの子は強い。

   強い…のだけれど、逆に思う時もある。

  「…ねぇ、尚雲。あんた、さーさんから弱音とか…聞いたことはあるかい?」

   ぽつりと桔梗が聞く。

   そのどことなく沈んだ様子に首をかしげながら、九桐は桔梗の横に腰を下ろした。

  「…あるさ。よく風祭に絡まれて困るとか…」
  「そうじゃないんだよ。」

   そうじゃない。

   キッパリと言い切った桔梗に九桐が益々訳が分からなくなって訝しげな視線を送る。

  「ずっと考えてたんだよ。さーさん…彩架は、あたしらに『痛い』とか『苦しい』とか、言ったことあったかい?」

   言われて九桐が、ハッと気づいた。

  「………」
  「ないだろ? …あんまり、あの子が笑ってるから…気づけなかったんだ。」

   思い出すのは笑った顔。

   困ったようにこちらを見ることもあった。
   絡まれて困っているときにこちらに向けるしょうがない、と言った視線にも。
   普段は人より少しとぼけた印象も受ける。幼いように見えることだってあった。

   けれどその表情が引き締まることもある。
   口を結び、人のことを我がことのように怒ったり、泣いたことだってあった。

   けれど、こちらが『大丈夫か?』と聞いてきたとき、彼女の表情はいつだって、笑って『大丈夫』と返すものばかり。


  「…師匠は…いつも、笑っていたな。」
  「ああ…でもね、あんただって気づいてるだろ?
   さーさん…時々、こっちの胸が苦しくなるくらい、悲しそうな顔してるのをさ。」

   始めて見かけたのは、奈涸と出会ってからの刑場での戦い。

   雨の中、ふと桔梗が彩架のほうを見ると、彼女は…戦いを見ていなかった。
   同じ刑場にある…おそらく、奈涸が戦っているほうを見ていた。

   心配なのか、とようく見てみると…様子が違った。

   ここではない、どこかを見ているような目。
   そして、悲しそうに…普段ならけっして見せようともしない、痛々しい表情を浮かべた顔。

   何かを、奪い去られていったような。

   九桐が、かすかに頷く。

  「…そうだな…それが何なのか、俺たちにもわからないが…」

   何がそこまで彼女を追い込んでいるのか、九桐にも、桔梗にも、想像はつかなかった。

   ……近い場所にいるはずなのに、どこまでも遠くにいるような。

  「いつか…話してくれるといいんだけどね。」

   今はまだ、聞けない。

   桔梗が暗にそう言った。

   聞いたところで、またあの表情をさせるのがわかっているからだ。
   そして何も答えてはくれないことも……問いつめても、きっと口を割らないことも。

   けれど、と思う。いつかはきっと『話してくれる』ときがくるはずだ。

   いつか、きっと。

  「話してくれるさ。師匠は俺たちの…大事な仲間だ。それは師匠だって同じはずだろう。」
  「…今までのあたし達なら信じられない話だけどね…」


   この村の掟は『過去にはこだわらないこと』。


  「でも…仲間だからこそ、だしさ。」

   そしてそれを変えてしまったのは、他ならぬ彩架自身なのだから。

  「話してくれたら、そのときは力になろうじゃないか。」
  「ああ…同意見だ。」

   そう言って、桔梗と九桐は顔を見合わせて……ふと、どちらともなく笑い出した。

   
   
   大丈夫。



   やがてそろそろ夕餉、ということもあり九桐が区切りをつけて立ち上がった。

   桔梗もそれに続いて立ち上がり、廊下を歩いていく。

  「ただな…お前には悪い、とっは思ったんだが…」

   このさい言っておこう、と前置きして九桐が口を開いた。
   
  「俺は実は…師匠が若の支えになってくれたら、と思っているんだ。」

   その言葉を聞いた桔梗が、おやまぁ、と一言だけ言って、軽やかに笑った。

   そんな桔梗の様子に、前置きまでした九桐のほうが首をかしげている。

  「もうなってるじゃないか…まあ、さーさんはあの通り、だしねぇ。」
  「意味がわかって言っているのか?」
  「当たり前じゃないのさ。あたしを誰だと思ってるんだよ。」

   ほとんど明るい表情のまま言う。

  「あたしはね、天戒様の幸せを願ってる。」

   だから、と続けて、今までにないくらい艶やかに微笑んだ。

  「あのこなら、持っていってもいいって思ってるんだよ…それにさーさんは、あたしから『居場所』をとるような子じゃない。」

   それにもうあの少女も、自分の居場所のひとつなのだ。

   隣で時折、三味線を聞いていく。
   一緒に街へ出掛けたときは、隣で歩いていて話などをしてくれる。
   戦いのとき、庇ってくれるのもまた…あの、少女だ。

  「それは、あんただって同じだろ?」
  「どちらかと言うと、守るものがひとつになって楽でいいな。」

   あっさりと言い切った。
   確かに彩架は、こちらが守ろうとするのを黙ってみているだけの存在ではない。

   そんな非力な存在ではないにしろ…それは、天戒も同じことだ。

   それでも、こちらが守ろうという『思い』をくれる存在であってくれる。
   …どちらか選べと言われたら、迷わず天戒のほうを選ぶにしても、だ。
  
  「ほらごらんよ…でも…あの鈍感が、いつになったら治ってくれることやら。」

   はぁ、と溜め息をつく桔梗とは対照的に、九桐は高らかに笑った。


   …このほうがいい。

   彩架と会うときは、いつだって笑顔のままのほうがいいに決まっている。
   それは少しでも彼女の不安を和らげるためのものにもなるはずだ。


  「それに、他の奴らも黙っちゃいないだろうしねぇ…それに実はと言うとあたしも、さーさんは取られたくないし。」
  「いつからお前のものになったんだ。」
  「固いことお言いでないよ。今は『みんな』のさーさんだしさ。」

   
   自分たちの笑顔は…少なくとも、彩架に悲しい顔をさせないための材料にはなっている。

   そしてそれは、彩架もしていることだ。



   安心させるような、柔らかな微笑み。


  「それにあんただって嫌だろ? さーさんがあんたの手合いの相手をしなくなるのは。」
  「…それは、確かに。」

   武術馬鹿だねぇ、と桔梗がばしんっと九桐の背中を叩いた。

   女の細腕とは思えない痛みが走ったが…それは、多分…必要な、こと。












   竹林の雨から、いくつかの時は過ぎた。

   …運命の時は、近い。





 <つづく>