記憶 四〜きずつくもの〜  




このくらいの傷なら、どうということはない

あの言葉に比べたら、こんな傷なんか






   夕刻。
   
   彩架が鬼哭村へ戻ってきた時、まず門番である下忍たちが驚きの声を上げた。

   そのまま急いで中の女達に何事かを言い、その騒ぎはますます大きくなる。

   そしてその騒ぎは、屋敷で仕事をしていた天戒や、先に村へ戻ってきていた桔梗らにも伝えられる。
   もちろん、鬼哭村にいる仲間達にも、である。

  「申し上げます! 緋勇殿が…緋勇殿が、手負いでご帰還なされまして…!!」

   その話に、天戒たちが急いで彩架の元へ向かう。

   彩架は、村の一角にある家のなかで応急処置を受けていた。
   傷こそは深くはなかった。
   だが、ところどころにある裂傷や、切り傷が多い。

   何より、肩口に突き刺さったと思われる矢傷は、火傷とあわさって傷口が爛れかけている。

   それとは裏腹に、彩架の表情は心配しないように、とみんなを宥めようとするもののほうが多い。
   心配するな、というほうが無理な相談である。

   桔梗から誰にやられたんだい、とカンカンに怒られ、天戒からもきついお言葉を頂戴する。
   九桐のほうもその傷の多さに閉口しているし、風祭など仕返しに行くぞ! と言って聞きそうもない。
   御神槌もハラハラと傷口のほうを見ながら大丈夫ですか、と問われ、弥勒からは無口ながらも剣呑な空気を投げかけられた。
   壬生や們天丸は、彩架に一言、文句を言うと傷に効くという植物を取りに出掛けた。
   雹も珍しく慌てた様子で屋敷から出てきて怒りもあらわにして彩架に相手は誰だ、と問いただす。
   火邑や泰山も心配しているようだが、怪我をさせた相手にも怒りを覚えているらしい。

   そんな面々を見ながら…それでも彩架は、誰にやられたかは、言わなかった。

   こんな傷を負わせるほどの相手は『龍閃組』に他ならなかったが、ここで騒ぎを起こさないように、と言い含めておいた。

   …そして、側にやって来た比良坂に、ようやく彩架は独り言のように呟く。

  「……辛いな…やっぱり。」
  
   何が、とは言わなかった。
   そしてその言葉を聞いた天戒が何事かと、聞き返す前に、そっと比良坂が彩架を抱きしめた。

   その場にいた面々は驚き、傷に障るからと比良坂に言ったが彼女は首を振るばかりで、彩架を離そうとしない。

  「…今、ここで彩架を離すほうが…私は、怖い。」

   その言葉の真意は、誰にもわからない。




   ふわりと、彩架の体が浮く。

   それに合わせて京梧も鞘を放り出し、握る柄に力を込めた。
   次の瞬間、凄まじい衝撃が剣から腕に襲いかかってくる。

   手甲によって固められた拳が、そのまま力に乗って襲いかかってくる感触。

   切り返したはいいが、襲ってきた衝撃が半端なものではないため、京梧vが苦い顔をして痺れる手を見る。
   そしてそれに気づいた醍醐が、下がれ! と京梧に叫んで、そのまま彩架に向かって蹴りを放った。

   京梧が姿勢と低くするのとほぼ同時に、彩架もまた醍醐の蹴りから逃れ、地面に降り立った。

   もし醍醐の判断がもう少し遅れていれば、確実に彩架の拳が京梧に襲いかかっていただろう。

   そして続けざまに、降り立つ彩架が後ろへ退く。
   その足元に、二本の矢が突き刺さり、さらに手裏剣が飛んできた。

  「美里は下がってろ! こいつ…今までみたいにはいかねぇぞ!!」
  「で、でも…」

   さすがの京悟もその強さに舌を巻く。
   今まで確かに傷も負わせた、だが本当の意味で入ったものでは、ない。

   ああ、確かにこれなら…あの自信のほどもうなずけた。
   速度にのった拳。
   流れるような動きであるのに、正確にこちらの急所を狙って放たれる技。
   何より、場慣れしている。

   勝負の流れや、相手への対処方法などを的確に計算し、最高の技を繰り出してくるのだ。

   まさに武道の手本のような動き。
   
   その強さに辟易しつつ…それでも、強い相手に出逢えたことの喜びで、京梧は薄く笑ってしまう。
   ゾクゾクするかのような感覚。
   こいつを倒してみたいという渇望。

   …ざわり、と心が波打った。

   しかし彩架のほうは相変わらずの表情だ。
   ただ淡々とこちらの攻撃を読み、そして必要最低限の動きしかしない。

   楽しんでなど、いない。
   相手を…ひいては、京梧たちを倒すことしか頭にないかのような。

  「…よぅ…お前は楽しくないのかよ?」

   剣を構え直しつつ、聞く。

  「……これが、楽しいんですか?」

   彩架もまた、深く姿勢を直した。
   数のほうならば京梧たちのほうが上だ。

   しかし彩架はその差さえも関係ない。
   『向かってくる』相手だけに的確に対処し、遠くのほうにいる小鈴たちの遠距離攻撃にはただ避けるだけの動作しか取らない。

   楽しいわけなど、ない。

  「………やめて! 緋勇さん、あなたもここで戦う必要なんてないはずよ!!」
  「黙ってろ、美里! こいつは…俺たちの喧嘩だ。」

   でも! と叫ぶ美里も一歩も引こうとしない。

   その剣幕にただならぬ様子を感じて、涼浬が振り返る。

  「…美里殿? いかがなさいましたか?」
  「そうだよ…それにああなった京悟達が止まらないの、知ってるでしょ?」

   小鈴のほうも半ば諦めた口調で言う。

   違うの、と美里は呟いた。

   違う、と心の奥で何かが叫ぶ。
   それが何かなんて、わからない。けれど、思う。

   やめさせなけらばならない、と。
   もしこのまま戦ったら…と思うと、不安でたまらなくなるのだ。
   心の奥で引っ掛かる何か、それを知ることができたのなら。

  「いくぞ、醍醐!!」
  「やむを得まい!」

   だが、美里の思いも虚しく、京梧と醍醐が走る。

   彩架はそれを冷めた眼で見つめていた。
   見つめていてなお、冷静に、開いていた拳を握り込む。


  「いけない!!」


   涼浬が何かに気づいて、叫ぶ。

   次の瞬間、京梧の剣と、醍醐の蹴りが続けざまに彩架の体を、掠る。
   …掠るだけだったのだ。

   攻撃の位置を予測して、必要最低限の位置で避けているのだ。

   それは何故か?
   答えはたった一つ……『こちらの間合い』に、飛び込ませるために。

  「秘拳………≪朱雀≫!」


   ≪気≫にのせられた拳が、呻る。

   2人の体が吹き飛ばされていくのを、美里たちは呆然として眺めているしかなかった。

   …炎が…いや、何かもっと別の力が、京梧と醍醐の2人に襲いかかっていったのだ。
   そして攻撃の後の一瞬の隙をつかれて、吹き飛ばされた。

   がたんっ、と大きな音がなり、2人が壁や地面に叩きつけられていた。

  「…嘘………」

   ぽかんとしたまま小鈴がその光景を見つめていた。

   涼浬もまた、この光景を前に背筋の凍るような思いで見つめるしかなかった。

   強い、と。
   圧倒的なまでの強さ。
   今まで幾人もの猛者と戦ったような、歴戦の…その、速さ。

   涼浬は知らず、クナイを持つ手に汗をかいていることに気づく。
   …心の底から、思う。
   目の前の少女との格の違いを。冷静すぎるほどの分析力に、忍者としてあるまじき恐れを抱いた。

   ……だが、何故か。
   何故かその強さが『懐かしい』と、思った。
   もっとずっと前にこの強さと出会っていたような錯覚と、『玄武』の感じる微かな、思い。

   ザッと彩架が動く。
   動いて、倒れたまま動かない…おそらく急所に入ったからだろう…京梧達のほうへ近寄ろうとして。

  
  「……止まって!!」


   その声に、彩架の動きが止まる。

   ゆっくりと顔を上げたその先に、弓をつがえた小鈴がいた。
   強いままの視線で彩架を見て、矢を放つ姿勢で威嚇している。

  「…京梧たちに、手は出させないよ!」

   おそらく仲間を守ろうとしての精一杯の行為なのだろう。

   小鈴や涼浬といった遠距離か、間接の攻撃を得意とするものにとって攻撃する力の度合いは少ない。
   致命傷を与えることはできないのだ。

   それでも矢さえあたれば、傷を負う。

   何より、これなら威嚇にもなる、と小鈴は踏んだのだ。

  「……小鈴ちゃん、駄目…待って。」
  
   美里が小鈴を止めようと口を開く。

   だが、それよりも早く。

  「…どうぞ。」

   彩架がそう言って、身構えるのをやめた。

   その突然の行動に小鈴たちが驚いて、その真意を測りかねた。
   しかし彩架は淡々と、言うだけだ。

  「射たいのなら、どうぞ射ってください。私を止めたいのなら、その矢を放てばいい。」
  「な…何、言ってるの…?」
  「私を殺すしか、止められないと思うのなら、その矢をここに…放てば、終わる。」

   自分の心臓を指して、彩架が薄く笑った。

   その笑みは、ゾッとするほどの異質さを放っている。

   本気で言っているのだ。
   撃て、と。

   自分を殺せと、何の感慨もなく言っているのである。

   …もちろん、今もし、小鈴が矢を放ったのなら…彩架は、死ぬ。

   その瞳からは何の感情も読みとれない。
   冷めた眼で、小鈴を見つめているだけだ。

   小鈴は、体が震え出すのが自分でもよくわかった。

   怖いと思った。
   心の底から、目の前にいる『緋勇 彩架』という少女が、恐ろしいと思った。

   体が強張る。
   だが、今すぐこの弓を降ろさないといけない、と頭のどこかが叫んでいた。
   頭のどこかで…殺すな、と。

   何もない視線。

   だが、小鈴もまた感じていた。
   あの『はじめて』の出会いの瞬間のことを。
   …悲しそうな、眼を。


  「…小鈴殿!」


   声が。


   目覚めた醍醐が、小鈴に向かって思わず叫んでしまったのだ。

   本当なら、やめろ、と伝えるはずだった。
   しかしそれが、『引き金』になったのだ。


   小鈴の指が、引いていた弦から外れてしまった。


   風を切る、一本の矢の音。

   彩架は避ける気配すらもなかった。


   肉に突き刺さる矢の音を、小鈴はどこか遠くの音のように、聞いていた。

   



   突き刺さった矢は、『力』を持って火を放った。

   灼ける傷口をそのままに、彩架は動こうとしない。

   カタカタと震える小鈴のほうを、ただ見つめていた。

  「……守りたかったんですよね?」

   裏腹に、彩架の口から聞こえてきた声に、小鈴が我に返る。

  「…なら、『しょうがない』ですよね…」

   その言葉が優しさと…どこか諦めを含んでいるように、聞こえた。

   小鈴は思った。
   自分の心のなかのどこかが、キリキリと激しい痛みを感じているのを。

   ごめん、とは言えない。

   敵なのだ。
   相手は敵で…徳川を滅ぼそうとする、敵の一人で…きっと、重要な位置についている人物だ。

   なのに、痛い。

   泣きそうなくらいに、痛い。


  「…あなたは…『誰』なの…?」


   思わず口をついて出た言葉だった。

   その瞬間の顔を見て、小鈴は後々まで後悔することになる。

   ……泣き出しそうな、顔だった。
   
  「…さようなら、『龍閃組』の皆さん。また、近いうちに…」

   その顔を隠すように、肩に刺さった矢を抜き、そのまま大きく跳躍して屋根づたいに走っていく。



   ……ぺた、と小鈴はその場に座り込んでいた。

   自分が言ってはならない言葉を、言ってしまったような気分だった。
   手から離れた矢のことも、話し掛けてくる醍醐や涼浬のことさえも、わからないほどに呆然としたまま、彩架の消えていったほうを見つめていた。

   美里が京梧を助けに向かっている。

   自分の放った矢は…その武器の持つ『力』のまま、火で燃えていた。

   夕焼けが、痛いと思った。






   一番辛いのは……大好きな人たちから言われる、言葉。





  <つづく>